徳川家光とは?何をした人か簡単にわかる!功績と特徴を初心者向けに解説

徳川家光とは?何をした人か簡単にわかる!功績と特徴を初心者向けに解説 日本の歴史

この記事では、江戸幕府第3代将軍・徳川家光がどのような人物で、どのような政治を行ったのかを初心者向けにわかりやすく解説します。

鎖国や参勤交代、キリスト教禁止など、教科書でよく聞く政策が家光の時代にどのように整えられたのかを、やさしい言葉で説明します。

家光の政治が江戸時代のおよそ260年にわたる安定につながった理由や、現代にまで残る影響についても順を追って見ていきます。

徳川家光とはどんな人物?

徳川幕府3代将軍としての位置づけ

徳川家光は江戸幕府の第3代将軍であり江戸時代前期を代表する政治指導者です。

1604年に江戸城で生まれ1651年に亡くなりおよそ30年近く将軍として政治の中心に立ちました。

家光は江戸幕府を開いた初代将軍徳川家康の孫であり第2代将軍徳川秀忠と正室お江の方の長男として生まれました。

将軍家の正室から生まれた嫡男が将軍になった例は家康と家光と慶喜だけとされその意味でも特別な立場の人物でした。

政治面では祖父家康と父秀忠がつくり上げた幕府の仕組みを受け継ぎつつ全国の大名を厳しく統制する体制を完成させた人物と評価されています。

とくに参勤交代の制度化やキリスト教の厳しい取り締まり貿易の管理強化などは家光政権の時代に整えられた政策として知られています。

これらの政策によって幕府の権威と支配は全国に行き渡り後の長期にわたる江戸時代の安定の基礎が固められました。

幼少期から将軍就任までの流れ

家光は1604年に江戸城西の丸で徳川秀忠の次男として生まれ幼いころの名前は竹千代といいました。

母は豊臣秀吉の養女でもあるお江の方であり家光は徳川家と豊臣家双方の血筋や縁につながる立場にありました。

幼少期の家光は病弱で吃音があったと伝えられ容姿も華やかではなかったと記録に残されています。

家光の乳母となった春日局は竹千代を強く支え将来の跡継ぎとして認めてもらうために尽力した人物として有名です。

弟の徳川忠長は聡明で人気もあったとされ家中ではどちらを跡継ぎとするかをめぐる噂や対立も生まれました。

春日局は竹千代を守るため駿府にいた祖父徳川家康のもとに出向いたという話が伝わりそこで家康が長幼の順を重んじて家光を正式な後継者と位置づけたとされています。

1610年代になると家光は守役や小姓団に囲まれて将来の将軍としてふさわしい教養や武芸を学ぶようになりました。

1620年ごろ元服を行い幼名の竹千代から家光と名乗るようになり公家社会でも高い官位を与えられるなど将軍世子としての地位が固まっていきました。

1623年に父秀忠が大御所となって将軍職を譲ると家光は20歳前後で第3代征夷大将軍に任じられ名実ともに江戸幕府のトップとなりました。

ただし将軍就任直後は依然として秀忠が大御所として大きな影響力を持っており家光が本格的に自分の色を出した政治を行うようになるのは秀忠の死後とされています。

徳川家光は何をした人?主要な功績を簡単に解説

鎖国体制の確立|貿易管理と外交の強化

徳川家光は日本の対外関係を大きく整理し鎖国体制と呼ばれる仕組みをつくった将軍です。

家光の時代には1633年から1639年にかけていくつもの法令が出され日本人の海外渡航や長期滞在を禁じポルトガル船の来航を禁止することで海外との出入りを厳しく制限しました。

その一方で長崎ではオランダや中国との貿易を続け幕府が貿易を管理しながら利益を独占する体制を整えました。

家光の鎖国政策は単に外国を拒むだけではなくキリスト教の流入を防ぎ国際紛争を避けつつ幕府の権威を守ることを目的としていました。

朝鮮や琉球やアイヌとの関係は対馬藩や薩摩藩や松前藩などを通じて続けられ表向きは限られた窓口だけで外国とつき合う形にまとめられていきました。

こうした対外政策によって国内への余計な影響を抑えながら経済的な利益を確保し幕府が外交と貿易を一手に握る体制が作られたのです。

参勤交代の制度化|大名統制の仕組みを確立

徳川家光の大きな功績の一つが参勤交代を制度としてはっきり定めたことです。

家光は1635年に武家諸法度を改訂し大名たちに一年おきに江戸と領地を行き来することを義務づけました。

この参勤交代によって大名は長い道のりを多くの家臣や行列とともに移動しなければならず旅費や江戸での生活費が大きな負担となりました。

さらに大名の正室や子どもたちは江戸に住むことが定められいざという時の人質の役目も果たしました。

その結果大名は勝手に軍備を整えたり反乱の準備をしたりする余裕がなくなり幕府に逆らいにくい仕組みが出来上がりました。

参勤交代は同時に街道の整備や宿場町の発展を促し経済や文化の交流を活発にするという側面も持っていました。

キリスト教禁止の徹底|宗教政策の背景

徳川家光はキリスト教の禁止を特に厳しく進めた将軍としても知られています。

家光の時代には1637年から1638年にかけて九州で島原の乱が起こり重い年貢とキリスト教信仰が結びついた一揆として幕府を大きく揺るがしました。

幕府はこの乱をきっかけにキリスト教を危険な宗教と見なして徹底的な取り締まりを行うようになります。

人々にキリスト教徒かどうかを確かめる踏み絵を強制し宣教師の潜入を防ぐため鎖国令を強めていきました。

また寺請制度と呼ばれる仕組みを整え全国の人々にどこかの仏教寺院の檀家として登録させることで表向きは全員が仏教徒という形をとらせました。

こうした宗教政策によって表立ってキリスト教を信仰する人は日本からほとんど姿を消し長いあいだ地下に潜伏した隠れキリシタンだけが信仰を続けることになりました。

幕府の権力強化|中央集権体制を固めた理由

徳川家光の政治のねらいは全国の実権を江戸幕府に集中させる中央集権体制を固めることにありました。

家光は武家諸法度を改めて大名の城の修築や婚姻などにまで幕府の許可を必要とさせ大名どうしが勝手に結びつくことを防ぎました。

参勤交代や改易や転封などを通じて大名の力を細かく調整し江戸の将軍家を頂点とする身分秩序をはっきりさせました。

対外的には鎖国体制で貿易と外交を幕府の管理下に置き国内では宗教政策や法律によって人々の動きをコントロールしました。

こうした政策の背景には戦国時代のような戦乱を二度と起こさせたくないという思いと徳川家が長く支配を続けるためには強い中央集権が必要だという判断がありました。

家光が整えた統治の仕組みはその後の江戸幕府の基本となりおよそ260年にわたる江戸時代の安定を支える土台となっていきました。

徳川家光の政治が日本に与えた影響

江戸時代の安定につながった家光の統治

徳川家光の統治は江戸幕府と諸大名から成る幕藩体制を名実ともに確立し長期にわたる安定した時代の土台をつくったと評価されています。

家光の時代には武家諸法度の整備や参勤交代の制度化やキリスト教禁止といった仕組みがまとめられ戦国時代のような大きな戦いが再び起こらない体制が整えられました。

これにより全国の大名は将軍家に従う立場が明確になり勝手に軍事行動を起こしたり同盟を結んだりすることが難しくなったことで国内の政治は安定していきました。

対外的にも家光は鎖国体制を完成させポルトガル船の来航を禁止しながらオランダや中国との貿易を長崎に限定することで外国との関係を幕府が管理する仕組みを整えました。

このように内政と外交の両面で権力の中心を江戸幕府に集中させた結果家光の死後も大きな戦乱は起こらずおよそ260年続く江戸時代の「太平」のイメージが形づくられていきました。

安定した政治は年貢の取り立てや土木事業を計画的に進めることを可能にし新田開発や城下町の整備が進んだことで農業生産や都市経済の発展にもつながりました。

江戸城や江戸の町の整備や寛永通宝の鋳造開始なども家光期の特徴であり将軍の権威を象徴する首都江戸の姿がこの時期にほぼ形づくられたといわれています。

大名との関係が後の社会構造にもたらしたもの

徳川家光が制度化した参勤交代は大名にとって大きな負担である一方で日本社会全体の構造にも長期的な影響を与えました。

大名は一年ごとに江戸と領国を行き来し妻子を江戸に住まわせる義務を負ったため往復の旅費や江戸屋敷の維持費が財政を圧迫し軍事力に大きな資金を回しにくくなりました。

その結果大名たちは戦争よりも領内の年貢確保や藩財政の立て直しに力を注ぐようになり各地で検地や新田開発や産業振興が進められていきました。

一方で大名行列や江戸在府に必要な物資やサービスをまかなうため街道沿いには宿場町や市場が発展し商人や職人の活動は次第に活発になりました。

江戸や大阪や京都といった大都市には各藩の屋敷や藩士の住まいが集まり武士階級が都市住民として暮らすようになったことで武士と町人と農民がはっきり分かれた身分秩序が固定化していきました。

武士は禄を受け取る立場として政治と軍事を担い町人は流通と金融を通じて経済を支えるという役割分担が進みこの構図は江戸時代を通じて続く日本社会の基本的なかたちとなりました。

幕府と藩がそれぞれ行政を行いながらも将軍家が大名を統制するという幕藩体制の枠組みは明治維新によって廃藩置県が行われるまで日本の社会構造を規定し続けることになりました。

徳川家光の人物像・特徴

家光の性格・政治姿勢について

徳川家光の性格は幼いころは内気で不器用と伝えられますが成長するにつれて強い意志と権威を重んじる将軍像が形づくられていったとされています。

『三河物語』を著した大久保忠教は少年期の家光について内気ではあるものの曾祖父の松平清康に通じる人物だと評し将来性の高い主君として見ていました。

一方で家光は家臣への扱いが厳しく重要なことを重臣任せにしていたなどの批判的な評価も後世に残されており評価は決して一面的ではありません。

歴史解説サイトなどでは家光は短気で妥協を嫌う一面があり自分が正しいと確信した方針については周囲の反対があっても押し通そうとするタイプの政治家であったと紹介されています。

家光は祖父徳川家康を深く尊敬し自らの政治を家康の遺志を継いで幕府の秩序と権威を守るものだと考えていたとされそのため幕府の力を弱めると見なしたものには非常に厳しい態度を取りました。

紫衣事件でこじれた幕府と朝廷の関係についても晩年には一定の譲歩を示しつつ安定させる方向に動いており強硬さと現実的な調整力の両方を持ち合わせた為政者であったことがうかがえます。

家光の言葉として伝わる「皆に誉められる人間は決して立派ではない」というフレーズは人気取りよりも自分の信念と幕府の安定を優先する姿勢を象徴するものとしてしばしば紹介されています。

また植木の話に見られるように家光は大名や家臣からの贈り物を自分への忠誠心のあらわれと受け取り将軍への忠義を重視する政治姿勢を貫いた人物でもありました。

家光の時代に発展した文化や社会の様子

徳川家光が将軍であった17世紀前半は寛永文化と呼ばれる時期にあたり桃山文化と元禄文化にはさまれた上品で落ち着いた文化が花開いた時代とされています。

寛永文化は公家の雅やかさと武家の格式が合わさった特徴を持ち狩野派による障壁画や書院造の建築茶の湯や能楽などが武家社会の保護を受けて発展しました。

江戸東京博物館などの解説では家光が東照宮の大改修を行い豪華な社殿を造営するとともに狩野派の絵師をはじめとする多くの芸術家を保護し江戸美術の発展を後押ししたことが強調されています。

家光自身も書や絵を好み独特な作風の作品を残しており将軍自らが文化的な活動を行うことで徳川政権の権威と華やかな文化を結びつけようとした側面があったと考えられています。

社会の面では参勤交代が本格的に行われるようになると江戸には大名屋敷や武家地が急速に増えそれを支える町人や職人の人口も増加して江戸は大都市へと成長していきました。

街道や宿場町の整備が進み各地の大名や家臣が定期的に江戸と領地を往復することで人や物や情報が活発に行き交い地方の文化が江戸に集まって混ざり合う流れが生まれました。

城下町では商業や手工業を担う町人が武士の生活を支えながら次第に経済的な力を強めていき後の元禄文化や町人文化の繁栄につながる土台が家光の時代に形づくられていきました。

このように家光の治世は政治的な安定だけでなく城下町の整備と文化振興が同時に進んだ時期であり後の江戸文化を準備する静かな成長期であったといえます。

西暦和暦主な出来事
1604年慶長9年江戸城西の丸で徳川家光が誕生する。
1623年元和9年徳川秀忠から将軍職を譲られ江戸幕府第3代征夷大将軍となる。
1633年寛永10年第一次鎖国令が出され奉書船以外の海外渡航が禁止される。
1635年寛永12年武家諸法度(寛永令)が改定され参勤交代が制度化される。
1635年寛永12年大船建造の禁や朱印船貿易停止が行われ対外・海上政策が強化される。
1636年寛永13年寛永通宝の鋳造が始まり幕府による銭貨の本格的な発行が進む。
1637年~1638年寛永14年~寛永15年島原の乱が起こり幕府軍が鎮圧しキリスト教弾圧と鎖国政策が一段と強化される。
1643年寛永20年寛永の大飢饉を背景に田畑永代売買禁止令が出され本百姓体制維持のため田畑の永代売買が原則として禁じられる。
1651年慶安4年徳川家光が江戸城で死去し諡号大猷院として日光山輪王寺に葬られる。

まとめ|徳川家光は日本の安定を築いた重要人物

家光の功績を簡単に総整理

徳川家光は江戸幕府の第3代将軍として祖父徳川家康と父徳川秀忠がつくり始めた幕府の仕組みを本格的に完成させた人物です。

家光は武家諸法度を改訂して参勤交代を制度として定め全国の大名に江戸と領地を行き来させることで大名の軍事力や財政を厳しくコントロールしました。

この参勤交代によって大名は勝手に同盟を結んだり挙兵したりしにくくなり将軍を頂点とする幕藩体制がより強固になりました。

対外関係では1630年代の一連の鎖国令を通じて日本人の海外渡航を禁じポルトガル船を排除するなど貿易と外交を長崎に集中させ幕府が一元的に管理する体制を整えました。

同時に島原の乱をきっかけとしてキリスト教を徹底的に取り締まり寺請制度を通じて人々を寺院に登録させることで宗教と治安をあわせて管理する仕組みを導入しました。

これらの政策によって江戸幕府の権力は全国に行き渡り内政と外交の両面で将軍家に実権が集中する中央集権体制が家光の時代にほぼ完成したといわれています。

家光の治世は寛永文化が花開いた時期でもあり政治の安定のうえに城下町の整備や江戸の都市化が進んだことで後の江戸文化につながる基盤が築かれました。

家光の政策が現代に残した影響とは?

徳川家光の政策は江戸時代の260年近い安定の土台となりその影響は現代日本の社会や国土の姿にも間接的に受け継がれています。

参勤交代による大名の往来と街道や宿場町の整備は地域間の交通網と物流の発展をうながし現在の幹線道路や都市配置の一部は当時の街道や城下町の名残をとどめています。

江戸や大阪や京都などの大都市に武士と町人が集中したことは都市部に政治と経済の中心が置かれる構図を定着させ後の近代化における首都機能や経済集積の土台になりました。

幕府と藩が分担して行う幕藩体制は明治時代の廃藩置県で姿を変えましたが中央政府が全国の行政を統括する仕組みや地方ごとに行政単位が置かれる形は現代の都道府県制にも通じる面があります。

一方で鎖国体制は海外の技術や思想の流入を制限し近代化の出発を遅らせたという指摘もあり家光の政策は安定と引きかえに変化を抑える側面も持っていました。

それでも長期の平和があったからこそ農業生産の向上や商業の発展識字率の上昇や多彩な庶民文化の成熟が可能になり日本社会の基礎体力が高まったことは大きな成果といえます。

このように徳川家光は戦国時代の混乱を終わらせたあとに日本をどのような形で統治するかというモデルを具体的に作り上げた将軍でありその影響は政治経済文化の面で今も見えないかたちで残り続けています。

出典情報:コトバンクWikipedia江戸東京博物館

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