尼子経久とは何をした人?簡単にわかる戦国最強の“復活の名将”の生涯

尼子経久とは何をした人?簡単にわかる戦国最強の“復活の名将”の生涯 日本の歴史

戦国時代の中国地方で「復活の名将」と呼ばれた武将が、出雲の戦国大名・尼子経久です。

若い頃に一度は家の勢力が没落しながらも、名城・月山富田城を奪還して家督を取り戻し、 やがて出雲・伯耆・隠岐など六ヶ国に力を伸ばした、まさに逆境からのし上がった大名でした。

この記事では、尼子経久がどんな人物で、何を成し遂げたのか、そしてなぜ“復活の名将”と呼ばれるのかを、 歴史があまり得意でない人にもわかるように、エピソードとともにやさしく解説していきます。

尼子経久とはどんな人物か?

本見出しの内容は、日本語の歴史事典や解説サイトを検索して得られた情報をもとに整理しています。

尼子経久(あまごつねひさ)は、戦国時代前期に出雲を本拠とした戦国大名です。

生まれは1458年で、1541年に亡くなるまで、中国地方の山陰・山陽に大きな影響力を持ちました。

出雲守護代として出発し、その後は事実上の出雲守護となり、最大期には十一ヶ国太守と呼ばれるほど勢力を拡大しました。

苛烈で知略に優れた武将として知られ、「雲州の狼」「謀聖」といった異名も伝わっています。

一度は地位を追われながらも、のちに勢力を立て直して大大名へ成長したことから、現代では「復活の名将」として語られる人物です。

尼子氏の出身と家柄

尼子経久が属する尼子氏は、近江源氏佐々木氏の一族である京極氏の流れをくむ家柄です。

京極氏の一族である京極高秀の三男・高久が近江国犬上郡尼子郷に住み、その地名から尼子氏を名乗ったと伝えられます。

その子孫が出雲国の守護である京極氏に従い、出雲守護代として当地の支配を任されるようになりました。

出雲守護代としての尼子氏は、出雲国能義郡の富田城、のちに月山富田城と呼ばれる山城を拠点としました。

この城は現在の島根県安来市広瀬に位置し、山陰地方でも重要な軍事拠点でした。

十五世紀の中頃以降、この月山富田城を拠点として尼子氏が出雲国の支配を担い、戦国大名へと発展していきます。

経久の父・尼子清定も出雲守護代として国内の平定に努め、尼子氏躍進の基盤を築いた人物とされています。

経久はその清定の嫡男として出雲で生まれ、家の後継ぎとして育てられました。

若い頃の経久と没落の背景

尼子経久は1458年に出雲守護代・尼子清定の嫡男として生まれ、幼名を又四郎といいました。

1474年ごろには主君である出雲・隠岐などの守護、京極政経の人質として京都に送られます。

京都在住中に元服し、主君・京極政経から一字を与えられて「経久」と名乗るようになりました。

その後ほどなくして出雲に戻り、1478年ごろまでには父から家督を譲られて出雲守護代となったと考えられています。

若い頃の経久は、形式上はあくまで京極氏の家臣である守護代でしたが、次第に独自色を強めていきました。

室町幕府の命令を無視して寺社領を押領したり、美保関の公用銭や段銭といった課税の徴収を拒否したりして、自らの権力基盤を固めようとしました。

一方で、西出雲の有力国人である塩冶氏などと対立するなど、出雲国内での軋轢も生じていきます。

こうした強引なやり方は、幕府や主君の京極氏、さらには国人領主たちの反発を招きました。

その結果として、1484年には居城を包囲され、出雲守護代の職を解かれて失脚したとされています。

この出来事が、尼子経久にとって最初の大きな没落であり、のちに「復活の名将」と呼ばれる逆転劇の前段階となりました。

ただし、史料の読み方によっては、完全に出雲から追放されたのではなく、形式的に地位を失いながらも一定の勢力は保っていたとする見方もあります。

いずれにせよ、若い経久が一度公的な地位を失ったことは確かであり、ここからの再起こそが彼の生涯を象徴するドラマとなっていきます。

尼子経久は何をした人?功績を簡単に解説

この見出しでは、日本語の百科事典や城郭解説などをもとに、尼子経久が具体的に何を成し遂げた人物なのかをわかりやすく整理して解説します。

尼子経久は、一度は地位を追われながらも本拠の月山富田城を奪い返し、出雲国内の実権を取り戻した武将です。

その後は出雲を足がかりに、伯耆や石見、備後など山陰地方へ勢力を広げ、やがて「十一ヶ国太守」と呼ばれるほどの大大名へと成長しました。

とくに、城の奪還から守護への出世、国人領主をまとめあげる独自の戦略などが、尼子経久の代表的な功績として挙げられます。

月山富田城を奪還し家督を回復した功績

尼子経久は若い頃、出雲守護代として出雲国を支配していましたが、1484年に所領の横領などが問題視され、守護代の地位を失って城から退いたとされています。

このとき出雲守護代には塩冶掃部介が据えられ、月山富田城の支配権はいったん尼子氏の手を離れました。

しかし経久は完全には力を失わず、出雲国内で一定の勢力を保ちながら再起の機会をうかがい続けました。

1486年になると、経久は不意をつく形で月山富田城を攻め、電撃的な奇襲によってこの重要な山城を奪い返しました。

城の奪還によって、尼子経久はかつての本拠を取り戻し、出雲における実力者としての地位を一気に回復することに成功します。

その後の経久は、月山富田城を拠点に城の曲輪や防御線を整備しながら、出雲国内での支配をさらに強固なものにしていきました。

この「一度追われた城を奪回して権力の座に返り咲いた」というエピソードこそが、後世に語られる尼子経久の復活劇の第一幕と言える出来事です。

出雲・隠岐・伯耆を支配する大名へと成長

月山富田城を奪還したあとも、経久はすぐに出雲全域を完全に掌握できたわけではありませんでした。

出雲国内には、塩冶氏をはじめとする有力国人領主たちがそれぞれの勢力を保っており、経久は婚姻や圧力、戦いを組み合わせながら徐々に影響力を広げていきました。

1500年ごろになると、かつて追放されていた主君の京極政経が守護に復帰し、経久も出雲守護代としての地位を回復したと考えられています。

その後、京極氏が事実上断絶すると、経久は同じ佐々木一門であることを背景に出雲守護そのものに任じられ、名実ともに出雲の支配者となっていきました。

出雲を押さえた経久は、やがて隣接する伯耆国や石見国、備後国などにも兵を進め、山陰・山陽地域へと勢力を伸ばします。

とくに伯耆国方面では、弟や一族を派遣して国人勢力を制圧させるなど、一族を分散配置して支配を固める方法をとりました。

また、隠岐についても出雲守護としての権限を背景に影響力を強め、出雲とともに尼子氏の勢力圏に組み込んでいきました。

このように、経久はまず出雲での支配権を固め、そのうえで隠岐や伯耆へ勢力を広げていったことで、「出雲・隠岐・伯耆を中心とする戦国大名」としての地位を確立していったのです。

尼子六ヶ国支配を築いた優れた戦略

尼子経久の勢力は、後世には「十一ヶ国太守」と評されるほど広がりましたが、実際に強い影響力を持っていたのは出雲・石見・隠岐・伯耆・備後など山陰側の諸国でした。

経久は、国人領主たちをただ力で押さえつけるだけでなく、外への遠征を通じて「共通の敵」と戦わせることで、家中の結束を高めようとしました。

例えば、石見や安芸、備後といった周辺諸国で大内氏と対立する際には、出雲国内の諸勢力を動員し、対外戦争に参加させることで、自らの指揮のもとにまとめ上げようとしています。

さらに、次男の国久や三男の塩冶興久など、一族を周辺地域の有力武将と結びつけることで、婚姻関係や偏諱の授受を通して人脈を築きました。

このような「一族の配置」と「同盟と敵対を使い分ける外交」を組み合わせることで、尼子氏は出雲・伯耆・隠岐を中心に、石見や備後などを含む複数の国にまたがる支配網を形成していきました。

もっとも、こうした支配は常に安定していたわけではなく、形式的な主従関係にとどまる勢力も多かったため、内部には不満や造反の火種も抱えていました。

それでも、一度追われた立場からここまで勢力を広げたことは、経久の戦略眼と行動力の高さを示すものだといえます。

尼子六ヶ国支配という表現は、こうした山陰一帯にまたがる広い勢力圏を象徴的に表した言い方であり、経久の功績を語るうえで欠かせないキーワードになっています。

“復活の名将”と呼ばれる理由

尼子経久が「復活の名将」と呼ばれるのは、一度大きな没落を経験しながらも本拠の月山富田城を奪還し、出雲を中心とする大勢力を築き上げたからです。

若い頃の経久は、主家である京極氏や室町幕府の命令に背いたことで出雲守護代の地位を失い、富田城を明け渡す立場に追い込まれました。

それでも経久は在地の家臣たちとのつながりを保ち続け、機会をうかがいながら力を蓄え、やがて城を奪い返すことに成功します。

この「いったんは失脚しながら短期間で本拠を取り戻し、その後も勢力を拡大し続けた」という流れが、まさに復活の物語として語り継がれているのです。

さらに、経久は出雲国内の国人領主を家臣団としてまとめあげ、対外戦争を通じて結束を高める戦略をとったため、「逆境から立ち上がった大名」というイメージが一層強く残りました。

一度の没落からの再起のストーリー

経久の没落の始まりは、出雲守護代としての立場にありながら、主家の京極氏に従わず独自の行動を強めたことにありました。

美保関の公用銭などの徴収を拒否したことや寺社領への介入などが問題視され、幕府や京極氏との関係は次第に悪化していきます。

やがて経久は京極家に背いたとして守護代の職を罷免され、月山富田城からも退くことになりました。

安来市の郷土資料などでは、このとき経久が富田城を追われた出来事が、尼子氏にとって最初の大きな危機として紹介されています。

しかし経久は、ただ敗北を受け入れて身を引いたわけではありませんでした。

城から離れたのちも、有力家臣や在地武士層との関係を保ちつつ、再起の機会をねばり強くうかがい続けたと考えられています。

その数年後、経久は奇襲に近い形で月山富田城を攻め、守備側の虚を突いて城を奪還しました。

文明後期から明応年間にかけてのこの城奪還によって、失っていた出雲での実権が一気に経久の手に戻ることになります。

その後の経久は、かつて自分を追い落とそうとした勢力を一つずつ服属させ、出雲国内の主導権を完全に握る方向へと動いていきました。

一度は地位も城も失いながら、自らの力で本拠を奪い返し、むしろ以前よりも強い権力を築いたという点が、経久の生涯を象徴する「復活」の物語として重ねて語られています。

史料によって細部の解釈には違いがありますが、「没落を経験したのちに月山富田城を奪還し、出雲国の支配を固めた」という大枠は、多くの研究や解説で共通して示されている評価です。

家臣団の組織力強化と統率力

経久が復活後も大名として勢力を維持し続けられた背景には、家臣団の組織づくりと統率力があります。

出雲国内には三刀屋氏や赤穴氏など多くの国人領主が存在し、彼らはもともと独自の領地と武力を持つ半独立的な立場にありました。

経久は、これら国人領主をただ武力でねじ伏せるだけでなく、軍役や領地安堵を通じて家臣団として取り込み、自らの指揮系統の中に組み込んでいきました。

出雲の有力家を重臣として遇しつつ、一族や近臣を要地に配置することで、在地勢力を抑えながらも反発を最小限に抑える工夫をしていたと考えられます。

島根県の研究資料では、経久が出雲国内の寺社や祭礼を再編成し、宗教行事を地域支配の手段として活用したことが指摘されています。

こうした宗教や祭礼を利用した統治は、人々を一体感のある「出雲の尼子氏の領国社会」としてまとめる役割を果たしました。

また、外への遠征や合戦に家臣たちを動員することで、「共通の敵」と戦う経験を共有させ、家中の結束を高める狙いもあったとみられます。

戦いで功績をあげた家臣には恩賞や加増を与え、反対に不忠や謀反には厳しい態度で臨むことで、家臣団に対する統制を維持しました。

こうした内政面と軍事面の両方からの働きかけによって、尼子家の家臣団は強固な組織力を発揮し、出雲を中心とする広い勢力圏を支える基盤となりました。

一度没落した後にここまで大きな家臣団を再編成し、長く維持し続けた点も、経久が「復活の名将」として評価される大きな理由の一つといえます。

尼子経久の人物像と評価

尼子経久は、出雲を本拠としながら山陰から山陽にかけて勢力を広げた戦国大名であり、その人物像は「謀略に優れた戦略家」という評価で語られることが多いです。

軍事指揮官を紹介する一覧などでは、北条早雲や毛利元就と並んで謀略の達人とされ、「謀聖」「謀将」といった異名で呼ばれることもあります。

若い頃に一度は出雲守護代の地位を失いながらも、月山富田城を奪還して勢力を立て直した経歴は、慎重な根回しと大胆な決断を兼ね備えた人物であったことを物語っています。

出雲国内の国人領主を服属させつつ、一族や重臣を要地に配置して支配網を築き上げたことから、単に武力に頼るだけではなく、人的ネットワークと外交を重視した戦略家であったと考えられます。

一方で、大内氏や山名氏との対立を深めながら勢力を拡大したため、周辺諸勢力との緊張は常に高く、その強引さから苛烈な大名という印象を持たれることもあります。

それでも、出雲を中心に複数の国へ支配を広げ、のちに「十一ヶ国太守」と称されるほどの存在感を示したことは、戦国初期を代表する名将の一人として高く評価される理由になっています。

また、経久の死後もその名は一族や家臣たちのあいだで語り継がれ、尼子氏の「全盛期」を築いた当主として、後世の歴史書や物語の中でしばしば理想化された姿で描かれています。

優れた戦略家としての評価

経久が優れた戦略家と評価される大きな理由は、没落からの復活と、その後の領国拡大の過程にあります。

出雲守護代の地位を失ったのちも在地勢力との関係を保ち続け、好機をとらえて月山富田城を奇襲によって奪還したことは、情報収集とタイミングを見極める能力の高さを示しています。

この奪還劇によって、経久は失っていた本拠と権威を一気に取り戻し、以後の領国経営の足場を固めることに成功しました。

経久は、出雲国内の国人領主を家臣として取り込む際にも、ただ力で征服するだけでなく、所領安堵や婚姻関係を用いながら徐々に影響力を強めていきました。

また、周囲の大名である大内氏や山名氏との関係をにらみつつ、石見や伯耆、備後方面へ兵を進めることで、山陰から山陽へと勢力圏を拡大していきました。

天文期には、石見銀山の支配権をめぐる争いの中で勢力を伸ばし、経済力の確保と軍事力の維持を結びつけるという、戦国大名らしい発想も見られます。

こうした一連の行動が、単に戦いに強いだけではなく、政治と軍事、経済を結びつけて領国を運営する「戦略家」としての評価につながっています。

現代の日本語資料でも、経久は北条早雲や毛利元就と並ぶ謀略家として紹介されることがあり、その名は戦国時代の代表的な知将の一人として位置づけられています。

後世に与えた影響(尼子晴久・山中鹿介との関係)

経久の後継者として名を挙げられるのが、嫡孫の尼子晴久(あまごはるひさ)です。

経久は1537年に家督を晴久に譲り、形式上は隠居しながらも、しばらくはなお実権を握り続けたとされています。

晴久の代になると、尼子氏は山陰山陽八ヶ国守護と呼ばれるほど勢力を広げ、尼子氏の版図は歴代で最大規模に達しました。

この晴久の全盛期を支えた基盤こそ、出雲を徹底的に押さえ、周辺国へと勢力を伸ばした経久の時代の領国形成にあったと考えられます。

その一方で、晴久が家督を継いだ時点では、すでに祖父経久の代から大内氏や山名氏との関係が悪化しており、尼子氏は二方面での対外戦に直面していました。

晴久にとっては、経久が築いた大きな版図と引き換えに、周辺勢力との緊張や家中の調整という重い課題を受け継いだ面もあったといえます。

後世の人物として尼子経久と結びつけて語られるのが、尼子氏の忠臣として知られる山中鹿介(山中幸盛)です。

鹿介は経久の存命中に直接仕えたわけではありませんが、尼子氏滅亡後に「尼子家再興」を掲げて戦い続けたことで有名になりました。

鹿介は、尼子氏再興軍の中心人物として月山富田城を包囲する戦いに参加し、かつて経久が拠点とした城を取り戻そうと奮戦しました。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話は、滅びた尼子家への忠義と執念を象徴する物語として広く知られています。

この尼子再興運動がたびたび物語やドラマで描かれてきたことにより、鹿介とともに「全盛期の尼子氏」を築いた祖先として、経久の名も強い印象をもって語り継がれています。

晴久が受け継いだ広大な版図と、鹿介が求め続けた「尼子氏の栄光」の原点にある人物として、経久は後世の人々の記憶の中で重要な位置を占め続けているのです。

尼子経久の年表

西暦和暦主な出来事
1458年長禄2年出雲守護代尼子清定の嫡男として出雲国に生まれる。
1474年文明6年主君京極政経の京都屋敷へ人質として送られ、京都で元服し「経久」と名乗る。
1478年ごろ文明10年ごろ父清定から家督を譲られ、出雲守護代として出雲支配の実権を握りはじめる。
1484年文明16年寺社領の押領や段銭徴収拒否などにより幕府や守護・国人の反発を受け、居城を包囲されて守護代職を剥奪される。
1486年文明18年富田城(月山富田城)に攻め入り城を奪還したと伝えられ、失った本拠を取り戻す。
1488年長享2年出雲の国人三沢氏を攻撃して降伏させ、守護代職こそ失うが出雲国内での実力を維持していることを示す。
1492年明応元年主君京極政経が将軍足利義材と対立して守護職を一時剥奪され、尼子氏の権力の後ろ盾が揺らぐ。
1500年明応9年経久が出雲守護代の地位に返り咲き、事実上の完全復権を果たす。
1508年永正5年出雲守護京極政経が死去し、孫吉童子丸の後見となって出雲統治の実権を握る。同年、大内義興の上洛に従軍する。
1512年永正9年備後国人古志為信の大内氏への反乱を支援し、中国地方への勢力拡大を本格化させる。
1513年永正10年叛旗を翻した桜井入道宗的の籠る阿用城攻めの最中に、嫡男尼子政久が矢傷を受けて戦死する。
1517年永正14年前石見守護山名氏と結び、石見国内の大内方の城を攻めて大内氏と対立を深める。
1520年永正17年出雲国西部の支配をようやく確立し、出雲国内の掌握をほぼ完成させる。
1521年大永元年石見国への侵攻を開始し、安芸にも勢力を伸ばす。1523年には重臣亀井秀綱の指揮のもと毛利元就らを動員して鏡山城を攻略させる。
1524年大永4年自ら軍勢を率いて西伯耆に侵攻し、南条宗勝や伯耆守護山名澄之を破って西伯耆を手中に収める。
1527年大永7年備後に出兵するが細沢山の戦いで陶興房に敗れ、備後の多くの国人が大内氏方へ寝返る。
1528年享禄元年備後蔀山城を攻め落とす一方、石見国では尼子方の高橋氏が毛利氏・和智氏により滅ぼされ、石見方面で尼子方が後退する。
1530年享禄3年三男塩冶興久が出雲大社や鰐淵寺、三沢氏、備後山内氏などを味方に挙兵し、出雲と備後を巻き込む大規模な内乱(塩冶興久の乱)が起こる。
1534年天文3年塩冶興久の乱を鎮圧し、興久は備後甲山城で自害する。乱後、その遺領は次男尼子国久が継ぐ。
1537年天文6年家督を嫡孫詮久(のちの尼子晴久)に譲って隠居しつつ、石見銀山を大内氏から奪取して尼子氏の経済基盤を強化する。
1539年天文8年播磨守護赤松政祐と戦って大勝し、播磨方面への影響力を強めるが、同年の動きの中で石見銀山は大内氏に奪回される。
1540年天文9年孫晴久が安芸吉田郡山城の毛利元就を攻める。経久は隠居の身であるが、尼子氏の方針に影響を持ち続けていたとみられる。
1541年天文10年吉田郡山城の戦いで尼子軍が大内・毛利連合軍に敗れて安芸の拠点を失う。同年11月13日、月山富田城内で死去する。

まとめ:尼子経久は“逆境から復活した戦国大名”

尼子経久は1458年に出雲の守護代の家に生まれ、戦国時代前期の中国地方で活躍した戦国大名です。

近江源氏佐々木氏の一族である京極氏の流れをくむ尼子氏の当主として、出雲守護代からやがて出雲守護へと成長し、「十一ヶ国太守」と呼ばれるほどの勢力を築きました。

しかし若いころには、主家である京極氏や室町幕府の命令に従わず、寺社領の押領や年貢の徴収拒否などを行ったことで反発を招き、一度は出雲守護代の地位を失って月山富田城から退くという大きな没落を経験しました。

その後も在地の家臣や国人領主とのつながりを保ち続けた経久は、機会をとらえて1486年に月山富田城を奇襲によって奪還し、本拠と出雲での実権を取り戻すことに成功しました。

この「失脚からの城の奪還」という劇的な再起こそが、経久が現代に「復活の名将」「雲州の狼」として語られる大きな理由になっています。

復活後の経久は、出雲国内の国人領主を家臣団として組み込み、一族や側近を要地に配置しながら、出雲・隠岐・伯耆を中心に石見や備後などにも勢力を広げていきました。

内政面では寺社や祭礼の再編を通じて領国内の結束を高め、軍事面では対外戦争を利用して家臣たちに「共通の敵」と戦う経験を与えることで、組織力と統率力を強めました。

こうした政治・軍事・宗教を組み合わせた支配のあり方は、単なる武勇だけでなく、長期的な視野を持つ戦略家としての一面をよく表しています。

経久の死後、嫡孫の尼子晴久が家督を継ぐと、尼子氏の版図はさらに広がり、山陰山陽八カ国守護と称される最盛期を迎えました。

のちに尼子氏が毛利氏との戦いに敗れて滅亡に追い込まれると、家臣の山中鹿介が「尼子再興」を掲げて戦い続け、その物語が広く知られるようになります。

晴久の全盛期も、鹿介が慕い続けた「尼子家の栄光」も、その出発点には月山富田城を拠点に勢力を築いた経久の活躍がありました。

尼子経久は、一度の没落から見事に立ち上がり、山陰から山陽にかけて広大な勢力を築いた「逆境から復活した戦国大名」として、今もなお戦国史の中で強い存在感を放ち続けています。

もし尼子経久や尼子氏に興味を持ったなら、島根県安来市の月山富田城跡や関連資料を展示する施設を訪ねてみると、彼の生きた時代や領国支配の実像をより立体的に感じることができるでしょう。

タイトルとURLをコピーしました