大伴家持とは?何をした人かを簡単に解説【万葉集の最後の歌人】

大伴家持とは?何をした人かを簡単に解説【万葉集の最後の歌人】 日本の歴史

大伴家持(おおとものやかもち)は、日本最古の歌集『万葉集』の最後を飾る歌人として知られる奈良時代の貴族です。

政治家としても活躍し、地方の国守を務めながら多くの名歌を残しました。

本記事では、大伴家持の生涯・功績・代表的な和歌を、初心者にもわかりやすく解説します。

「万葉集」や「奈良時代の文化」を学ぶ際にも役立つよう、時代背景や政治的な立場にも触れながら紹介していきます。

大伴家持とはどんな人物?

大伴家持の生まれと時代背景(奈良時代)

大伴家持(おおとものやかもち)は奈良時代後期に活躍した貴族であり歌人で、718年に生まれ、785年に没したと伝えられます。

律令国家が成熟し、平城京を中心に政治と文化が発展する一方で、政争が激化した時代に生きました。

家持はそのただ中で中央官人として勤務し、地方では国司として経験を重ねながら、各地の風土と人々の暮らしに触れ、和歌の表現を深めていきました。

『万葉集』に収められた年代が確定できる最後の歌が759年の作であることからも、彼が同時代文化の締めくくりを担った存在であったことがうかがえます。

大伴氏の家柄と政治的立場

大伴氏は古代ヤマト政権で軍事や警護を担った由緒ある氏族で、氏姓制度のもとで重んじられてきました。

家持の祖父や父も朝廷で要職に就いており、家持自身も中央と地方を往復しながら昇進しました。

とりわけ越中国守としての赴任(746年任官が史料に見えます)は、政治家としての実務経験を広げる転機となりました。

奈良時代後期は藤原氏の台頭など勢力図が大きく動いた時期であり、古来の名門である大伴氏は厳しい政治環境に置かれましたが、家持は官人としての責務を果たし続けました。

万葉集との関わりと歌人としての顔

家持は『万葉集』を代表する歌人であり、自作歌の収録数は四百首余に及び最大規模を占めます。

とりわけ越中在任期には創作が充実し、四季の自然や旅情、宴の場の機知など多彩な主題に取り組みました。

『万葉集』の巻末を飾る759年の作は因幡国庁で詠まれたと伝えられ、彼が「最後の歌人」と称されるゆえんとなっています。

歌人であると同時に、編成や収集に深く関わった実務家としての顔も持ち、同時代の歌文化を後世へつなぐ役割を担いました。

大伴家持は何をした人?その功績を簡単に紹介

『万葉集』編纂に関わった理由と貢献

大伴家持は『万葉集』の後期編成に深く関わり、巻十七から巻二十に顕著な家持自身の連年の作品群が並ぶことや、最後に年代が確定する歌が天平宝字3年(759年)正月、因幡国庁の宴で詠まれた一首であることから、実質的な最終編集者とみなされてきました。

研究史には異説もありますが、家持が収集・配列・増補の中心を担ったという見解が現在も有力です。

とりわけ彼は、宮廷貴族の洗練された歌だけでなく、庶民や防人の歌、東国の方言を含む歌も取り入れ、古代社会の声を幅広く保存しました。

この編集姿勢が、日本最古の歌集に多層的な厚みを与え、後の和歌文化の基盤を形づくったと評価されます。

越中国守としての政治的な働き

家持は天平18年(746年)から天平勝宝3年(751年)まで越中国守を務め、国庁を拠点に各郡を巡行して行政監督にあたりました。

租税やインフラ、神社祭祀の確認など律令制下の国司としての実務に携わり、その折に土地の自然や人々との交流を素材に多数の歌を残しています。

高岡市の公的資料によれば、越中在任の5年間だけで二百二十首余りを詠んだとされ、地方統治の現場経験が歌作と記録の双方に直結していることがうかがえます。

文化人として後世に残した影響

家持は自作最多収録の歌人として『万葉集』の顔であると同時に、編纂者として古代の言語と感性を後世へ橋渡ししました。

平安期以降は歌学の整理が進み、藤原公任の『三十六人撰』に代表される「三十六歌仙」の系譜で家持は古代代表歌人として顕彰され、鎌倉・室町・江戸の歌仙絵や文化財にもその名が刻まれます。

こうした美術・文芸の両面での継承は、家持像を長く日本文化の記憶に定着させる役割を果たしました。

代表的な和歌とその意味

自然を詠んだ有名な歌

大伴家持が詠んだ和歌には、豊かな自然描写が随所に見られます。

例えば、「杜鵑(ほととぎす)いとねたけくは 橘の 花散るときに 来鳴き響むる」という歌では、鳴き声が高く響くほととぎすと、橘の花が散る季節の風景を重ねて、移ろいゆく時の情趣を切なく捉えています。

こうした歌からは、奈良時代の地方赴任で自然と交わった経験が歌の題材として活かされていたことが感じられます。

感情表現の豊かさがわかる一首

家持の歌には、官人としての立場や旅・別れ・季節の移り変わりなどを背景に、内面の感情を丁寧に表現したものも多くあります。

例えば、赴任先での思い出や人との別れを象徴的な風景とともに詠む歌があり、読み手に「場」と「心」がひとつに融合した印象を与えます。

自然や社会の動きを通じて「私はこう感じています」という姿勢が伝わるため、当時の歌人の中でも非常に人間味あふれる歌風を示していたといえます。

万葉集の締めくくりを飾った歌とは?

家持が赴任先の因幡国(現在の鳥取県付近)で詠んだ759年(天平宝字3年)正月の歌が、万葉集巻二十末尾に位置付けられており、いわばこの歌集を締めくくる存在として知られています。

さらに、この歌集巻末の作品により「家持=万葉集最後の歌人」と見なされる理由にもなっています。家持が歌人として果たした“終着点”の役割を象徴する和歌と言って差し支えありません。

大伴家持の晩年とその後の評価

冤罪による失脚とその背景

大伴家持の晩年は、華やかな官人生涯とは対照的に波乱に満ちていました。

彼は光仁天皇の時代に中納言として重職に就いていましたが、785年(延暦4年)、藤原種継暗殺事件(「長岡京造営中の暗殺事件」)に関与したと疑われ、官位を剥奪されました。

この事件は、長岡京遷都をめぐる政治抗争が背景にあり、家持自身が直接関与した証拠はなく、のちに冤罪であったとされています。

彼はその処分後まもなく亡くなり、結果として不遇の最期を遂げました。

その後、嵯峨天皇の時代に名誉が回復され、勲三等を贈られるなど、朝廷から正式に名誉が復した記録が残されています。

これは、彼の功績と人望が高く評価されていた証でもあります。家持の死後、彼の政治的立場よりも文学者としての評価が次第に高まり、文化史的に重要な存在として位置づけられるようになりました。

後世の文学者への影響

大伴家持の作品と生き方は、後世の文学者や歌人に大きな影響を与えました。

『古今和歌集』や『新古今和歌集』の編者たちは、彼の自然観や感情表現の深さを理想の古歌として引用し、万葉調の原点として尊重しました。

また、江戸時代には国学者・本居宣長が『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』などの中で家持の歌風を高く評価し、「真心の歌」として日本人の精神性を象徴する存在と述べています。

さらに、近代以降は彼の生涯を通して「政治と文化を両立させた理想の知識人」として再評価され、学校教育でも重要な古典人物として扱われています。

彼の歌は今日でも万葉文化の象徴として、多くの文学愛好家や研究者に親しまれています。

大伴家持の年表

大伴家持の生涯を時系列で見ると、奈良時代の政治と文化の変化を体現した歩みであったことがよくわかります。

以下の表では、彼の主要な出来事・官職・歌作活動を整理しています。

年(西暦)出来事・官職主な歌作・活動
718年(養老2年)大伴安麻呂の子として生まれる奈良の名門大伴氏の後継として育つ
730年(天平2年)頃朝廷に出仕官人としての活動を開始する
740年(天平12年)頃各地を巡る歌作を行う旅や自然を詠んだ初期作品が登場
746年(天平18年)越中国守に任命される地方政治に従事しつつ、自然と人々の生活を詠む(約220首)
751年(天平勝宝3年)越中国守任期を終える『万葉集』後期の代表作が生まれる
759年(天平宝字3年)因幡国で歌を詠む万葉集巻二十の最後の歌を残す
770年(宝亀元年)光仁天皇即位に伴い昇進中納言として朝廷の中枢に入る
785年(延暦4年)藤原種継暗殺事件に連座し失脚冤罪のまま死去(享年68)
806年(大同元年)嵯峨天皇により名誉回復勲三等を追贈される

この年表からもわかるように、大伴家持は官人としての実績と、歌人としての創作活動を並行して行い、奈良時代の文化を象徴する人物でした。

まとめ:大伴家持は「歌と政治」を両立した奈良時代の知識人

現代に伝わる大伴家持の魅力

大伴家持は、奈良時代の政治社会のただ中で官人として責務を果たしつつ、各地の自然や人々の息づかいをすくい上げた和歌を数多く残しました。

越中国での統治経験が歌材の広がりにつながり、宮廷文化の洗練と地方の素朴さが同居する独自の世界を形づくったことは、今日の私たちにも鮮やかに伝わってきます。

『万葉集』巻二十末尾に置かれた天平宝字三年の歌は、国家と季節のめでたさを重ねる端正な構図で歌集を締めくくり、彼が「最後の歌人」と呼ばれるゆえんを端的に示しています。

歴史資料が伝える生涯の波乱にもかかわらず、死後に名誉が回復して評価が定まっていった歩みは、作品そのものの力が時代を超えることを物語っています。

学習・試験にも役立つ大伴家持の理解ポイント

学習の観点では、家持の人物像と作品世界を、年表上の出来事と歌の配置の双方から立体的に押さえることが大切です。

政治史では長岡京造営期の政変に連座して失脚したのち、平安初期に復権がなされた事実を年代とともに確認すると理解が確かになります。

文学史では『万葉集』後期編成との関わりや、越中国赴任期の充実した作歌、そして巻二十末尾の759年因幡国庁の歌の位置づけを関連づけて学ぶと定着が早まります。

作品の読解では、自然描写に託された感情の動きや季節感の表現、国家祭祀や公務の場面に見える儀礼性を読み取り、歌と時代背景を往還しながら理解を深めると応用が利きます。

出典情報:Wikipedia「大伴家持」「万葉集」高岡市万葉歴史館(高岡市公式)高岡市万葉歴史館 公式サイト大伴家持歌碑(鳥取市指定文化財)|因幡万葉歴史館

タイトルとURLをコピーしました