岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍し、日本を近代国家へと導く流れの中心にいた政治家です。
本記事では、「結局この人は何をしたのか?」という疑問に答えるために、公家改革や王政復古の大号令、岩倉使節団などの出来事を、歴史がニガテな人でもイメージしやすいように整理して解説します。
テスト前の最終確認や、教養としてサッと押さえたい人にも役立つ内容として、生涯と功績を一気に振り返っていきましょう。
岩倉具視とはどんな人物?
岩倉具視の基本プロフィール
岩倉具視はいわくらともみと読み、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した公家出身の政治家です。
1825年10月26日に京都で生まれ、1883年7月20日に亡くなりました。
岩倉家は朝廷に仕える公家の一つで、具視も若いころから宮中での実務に携わりました。
幕末には朝廷と幕府の関係を調整する公武合体の立場から政治に関わり、その後は倒幕と新政府樹立に向けて動く中心人物となりました。
明治維新後には明治政府の要職に就き、右大臣や外務卿として新しい国家体制づくりを担いました。
また1871年からの岩倉使節団では特命全権大使として一行を率い、欧米諸国の制度や社会を視察しました。
こうした経歴から、維新の十傑の一人としても数えられています。
生涯を一言でまとめると?
岩倉具視の生涯を一言でまとめると、天皇中心の近代国家をつくるために朝廷側から明治維新とその後の改革を主導した政治家です。
江戸幕府が力を失い政治の仕組みを変えなければならなかった時期に、岩倉具視は王政復古の大号令を主導し、新しい明治政府の骨組みを整える役割を果たしました。
そのうえで欧米視察を通じて学んだ制度や考え方を、日本の税制や司法制度、教育制度などの近代化に反映させていきました。
保守的な公家社会から異端視されて一時は失脚しながらも、時勢を読み政治的に復活し、日本の進むべき方向を示した点が岩倉具視の大きな特徴です。
ここで述べた特徴を押さえておくと、後の岩倉使節団や条約改正への取り組みも理解しやすくなります。
岩倉具視は何をした人?主要な功績を簡単に解説
① 公家改革を進め、明治維新への道を開いた
岩倉具視は京都の公家社会の出身でありながら、従来の身分や家柄だけに頼るやり方では日本が時代の変化に対応できないと考える人物でした。
幕末の京都では公家社会そのものが分裂と混乱を繰り返しており、岩倉は公家の特権を守るだけでなく、新しい近代国家の中で公家がどのように役割を果たすべきかを模索しました。
そのため岩倉は、朝廷が政治に主体的に関わる体制を整えつつ、旧来のしきたりにとらわれない人材登用や実務重視の姿勢を打ち出し、開国派の大名や志士たちと結びつきました。
こうした動きは、公家だけが政治を独占する時代を終わらせ、薩摩や長州などの雄藩勢力と連携して明治維新へとつながる新しい政治体制を準備することにつながりました。
② 王政復古の大号令を主導した中心人物
岩倉具視の名前が教科書によく登場する理由の一つが、徳川幕府から天皇中心の政治へと切り替える王政復古の大号令に深く関わったことです。
江戸幕府の力が弱まり政治の主導権争いが激しくなる中で、岩倉は朝廷側から政権を立て直す構想を練り、幕府に代わる新政府をつくる計画を周囲の有力者と共有していきました。
1867年末に出された王政復古の大号令は、形式上は天皇が政治の実権を取り戻すことを宣言し、徳川幕府の政治的な権限を失わせる決定的な一歩となりました。
この流れの中で岩倉は、討幕派の代表と朝廷側をつなぐ調整役として働き、新政府の人事構想や今後の政治の枠組みを考える中心人物の一人となりました。
その結果、薩摩や長州などの雄藩と朝廷が協力して新しい政権をつくる道が開かれ、明治維新のスタートラインが整えられていきました。
③ 岩倉使節団を率いて欧米諸国を視察した
明治政府が成立したあと、岩倉具視は1871年に遣欧米使節団の特命全権大使となり、一行を率いてアメリカやヨーロッパ各国を約1年10か月にわたって視察しました。
この使節団の第一の目的は、不平等条約の改正交渉を行い、日本が欧米列強と対等な立場に近づくきっかけをつくることでしたが、当時の日本の実力や準備不足もあって条約改正そのものは実現しませんでした。
しかし現地では、鉄道や工業技術、学校制度や議会政治など、欧米諸国の社会制度をつぶさに見て学び、その内容を日本の近代化に生かすという大きな成果を残しました。
岩倉具視自身も、外交儀礼や国際社会のルールを身をもって体験したことで、日本が国際社会で信頼を得るためには、国内の法制度や行政の仕組みを整えることが不可欠だと強く認識するようになりました。
④ 近代国家の制度づくりに大きく貢献
岩倉具視は、明治新政府の首脳として、旧来の藩を整理して中央集権体制を築く版籍奉還や廃藩置県などの政策に関わり、日本を一つの国家としてまとめる基盤づくりに力を注ぎました。
岩倉使節団で見聞きした欧米の制度や社会のあり方は、日本に戻ったあとの地租改正や司法制度、教育制度の整備など、さまざまな分野の改革を進める際の重要な参考となりました。
岩倉は天皇を中心とした近代的な中央集権国家を目指し、特定の藩や人物に権力が集中しすぎないよう、複数の機関や役職がバランスを取り合う政治の仕組みづくりを意識していました。
これらの取り組みによって、日本は急速な近代化を進めながらも国家としてまとまりを保ち、列強に追いつこうとする体制を整えていきました。
岩倉具視の代表的な出来事とその背景
岩倉使節団で果たした役割とは?
岩倉具視が最もよく知られている出来事の一つが、1871年から1873年にかけて派遣された岩倉使節団の全権大使としての役割です。
岩倉使節団は明治政府を代表してアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を訪問し、新政府の成立を知らせるための国書を各国の元首に届けるという重要な任務を担っていました。
同時に、江戸時代末期に結ばれた安政の五カ国条約などの不平等条約について、その内容を改めてもらえないかを打診し、日本が諸外国とより対等な立場で付き合えるようにすることも大きな目的でした。
さらに、使節団は訪問先で議会政治の仕組みや法律制度、学校制度や産業、交通網などを詳しく視察し、日本の近代化に役立つ情報と知識を持ち帰ることを求められていました。
こうした多くの役割を統括し、各国との会談や交渉の場で日本政府を代表して発言したのが岩倉具視であり、彼は新しい日本の顔として国際社会にデビューしたのです。
条約改正を目指した外交の挑戦
岩倉使節団の第一の目標は、不平等条約の改正交渉で成果を上げ、日本が主権国家として認められる方向へ道を開くことでした。
当時の条約には、外国人を日本の法律では裁けない治外法権や、日本側に関税自主権がないといった、日本に不利な条件が多く含まれていました。
岩倉具視らは、近代的な国家建設に取り組んでいることを各国に説明し、日本が十分に文明国であると認められれば条約改正が可能になると期待していました。
しかし、最初に訪れたアメリカ合衆国との交渉の段階で、条約改正には国内の法制度整備や司法制度の近代化が前提になることがはっきり示され、短期間での改正は難しいことが分かりました。
その後に訪れたヨーロッパでも同じような反応が続き、条約の改正そのものは実現しませんでしたが、日本に何が足りず、どのような制度を整える必要があるのかを具体的に知ることができた点は大きな成果でした。
岩倉具視にとっても、この経験は日本が国際社会で対等な立場を得るためには、まず国内の仕組みを根本から変えなければならないという強い問題意識につながりました。
国内改革にどのように影響を与えたか
岩倉使節団の欧米視察で得られた経験は、帰国後の明治政府の政策に大きな影響を与えました。
とくに、岩倉や大久保利通らは、条約改正を実現するには、軍事力や産業だけでなく、教育制度や税制、司法制度など国内の仕組みを総合的に整えることが不可欠だと確信するようになりました。
その考え方は、1872年に公布された全国的な学校制度を定める学制や、近代的な税のしくみを整える地租改正、徴兵令による近代的な軍隊の整備など、一連の国内改革を進める際の重要な背景となりました。
また、使節団とともに渡航した若い留学生たちは、欧米で最新の知識を学び、帰国後に教育や女子教育、産業などの分野で活躍し、日本社会の近代化を担う人材として成長していきました。
岩倉具視の視点から見ると、岩倉使節団は条約改正に直接成功したわけではありませんが、日本がどのような国家を目指すべきかを具体的に描くきっかけとなり、その後の国内改革に方向性と現実的な目標を与えた出来事だったと言えます。
なぜ岩倉具視は重要視されるのか?
日本の近代化に与えた影響
岩倉具視が重要視される大きな理由は、日本が近代国家として歩み出す方向性を示し、その実現に深く関わったからです。
幕末から明治初期にかけて、岩倉は王政復古の大号令や新政府樹立に関わり、天皇を中心とする政治体制へと大きく舵を切る役割を果たしました。
明治新政府の成立後には、廃藩置県など中央集権国家をつくるための政策に関わり、日本を一つのまとまった国家として再編成する流れを支えました。
さらに岩倉使節団を率いて欧米諸国を巡った経験は、日本が不平等条約を改正するためには、憲法や議会をはじめとする近代的な制度を整える必要があるという認識を政府内に広めるきっかけになりました。
その結果、憲法構想や議会開設の動き、教育制度の整備など、近代国家への道筋が具体的な政策として進められていき、日本はアジアの中でも早い時期に近代化を進めた国として歩み始めました。
こうした一連の流れの中で、岩倉具視は単に一時期の政治家というだけではなく、日本の近代国家像を形づくるうえで方向性を示した指導者の一人として位置づけられています。
現在の評価と歴史的意義
岩倉具視の評価は、時代によって見方が分かれる部分もありますが、現在では明治維新と近代化を語るうえで欠かせない政治家として位置づけられています。
幕末当時には公武合体を進めたのちに倒幕側へ回ったことから、策謀家や裏方としてのイメージが強く批判的に見られることもありましたが、近年の研究では一貫して天皇中心の国家体制を目指していたという見方も示されています。
また、岩倉が旧500円札の肖像として長く用いられたことは、戦後日本においても岩倉具視が近代日本の形成に大きく貢献した人物と認識されてきたことの表れといえます。
現在の歴史教育や一般向けの解説では、岩倉具視は維新の元勲の一人として、王政復古、廃藩置県、岩倉使節団などに関わった中心人物として紹介されることが多く、その名は明治維新と近代化を象徴する存在の一人として定着しています。
こうした点から、岩倉具視の歴史的意義は、日本が封建的な政治から近代国家へと転換していくプロセスの中で、内政と外交の両面からその方向性を示し続けた指導者であったことにあるとまとめることができます。
岩倉具視の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1825年 | 文政8年 | 前権中納言堀河康親の第二子として京都に生まれる。幼名は周丸である。 |
| 1838年 | 天保9年 | 岩倉具慶の養子となり名を具視と改める。従五位下に叙せられ昇殿を許される。 |
| 1853年 | 嘉永6年 | 関白鷹司政通の下で歌道を学ぶ。この年ペリー来航があり、開国をめぐる情勢が緊迫していく。 |
| 1854年 | 安政元年 | 孝明天皇の侍従となる。従四位下に叙せられ、朝廷内での地位を固める。 |
| 1857年 | 安政4年 | 従四位上に昇進し、天皇の近習として政治の中枢に近づく。 |
| 1858年 | 安政5年 | 日米修好通商条約締結に反対し、意見書「神州万歳堅策」を孝明天皇に内奏する。条約勅許問題で尊攘派公家として存在感を強める。 |
| 1860年 | 万延元年 | 公武合体策として孝明天皇の妹和宮の将軍家への降嫁に賛成する上申書を提出する。朝廷と幕府の融和を図る公武合体路線を推進する。 |
| 1861年 | 文久元年 | 正四位下に叙せられ、和宮に随行して江戸へ下向する。 |
| 1862年 | 文久2年 | 朝廷内で尊攘派が台頭し、具視は辞官して出家し蟄居を命じられる。霊源寺、西芳寺を経て洛中追放となり、のちに洛北岩倉村の廃屋で幽棲生活に入る。 |
| 1864年 | 元治元年 | 岩倉村で大工藤吉の居宅を購入して移り住む。後に増築され、現在の岩倉具視幽棲旧宅の主屋となる。 |
| 1865年 | 慶応元年 | 政治活動を再開し、公卿中御門経之や薩摩・水戸・土佐藩士らと交流を深める。討幕運動への関与を強める。 |
| 1866年 | 慶応2年 | 近衛忠熙の関白復帰を画策するなど朝廷工作を活発化させる。幕府の命により桑名藩の監視対象となる。この年孝明天皇が崩御し、政局が一段と不安定化する。 |
| 1867年 | 慶応3年 | 坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通らが岩倉邸を訪れ、維新に向けた協議を重ねる。洛中帰住を許され、王政復古の大号令実現に尽力する。この年に大政奉還が行われる。 |
| 1868年 | 明治元年 | 明治新政府で議定兼輔相となり、新体制の中枢に位置する。 |
| 1871年 | 明治4年 | 外務卿および右大臣に任命される。同年、特命全権大使として岩倉使節団を率い、欧米各国を歴訪する。 |
| 1873年 | 明治6年 | 欧米視察から帰国し、太政大臣代理として政権を主導する。征韓論に反対し、西郷隆盛らの主張を退ける。 |
| 1874年 | 明治7年 | 赤坂喰違坂で暴漢に襲撃され負傷する。政府方針に対する反発の強さを象徴する事件となる。 |
| 1882年 | 明治15年 | 菊花大綬章を受章する。長年の国家への功績が高く評価された結果である。 |
| 1883年 | 明治16年 | 京都御所保存計画のため京都を訪れたのち病状が悪化し、東京に戻って治療に専念する。7月20日に死去し、国葬の礼をもって葬られる。没後、正一位太政大臣を追贈される。 |
まとめ:岩倉具視の功績を簡単に振り返り
岩倉具視が残したもの
岩倉具視が残した最大の功績は、江戸幕府から明治新政府への政権交代を朝廷側から主導し、日本が近代国家として歩み出す土台を形づくったことです。
公家出身でありながら、王政復古の大号令を通じて幕府の政治的権限を終わらせ、新政府の枠組みづくりに深く関わりました。
明治新政府では右大臣として版籍奉還や廃藩置県などの政策を支え、全国を中央政府のもとにまとめる体制の整備に貢献しました。
1871年から1873年にかけての岩倉使節団では特命全権大使として欧米諸国を歴訪し、不平等条約改正への道を探ると同時に、議会制度や教育制度、産業や交通など多くの分野で近代化のモデルを学び取りました。
帰国後には、欧米視察の経験を踏まえて、憲法制定や議会開設を見据えた政治体制の方向性を示し、国内の制度改革を後押ししました。
こうした内政と外交の両面における活動によって、日本は列強に対抗しうる近代国家としての基盤を整えていくことができました。
学習ポイントの整理
岩倉具視を学習するときは、まず「公家出身で明治新政府の中心に立った政治家」という立場を押さえておくと整理しやすくなります。
流れとしては、公武合体の推進、公家社会からの一時的失脚、王政復古の大号令への関与、明治新政府での要職就任、そして岩倉使節団の派遣という順番でたどると理解しやすくなります。
王政復古の大号令、維新の十傑、右大臣、岩倉使節団、不平等条約改正、近代国家の制度づくりといったキーワードを岩倉具視の名前と結びつけて覚えておくことがテスト対策でも有効です。
また、条約改正交渉そのものは成功しなかったものの、その経験が地租改正や学制、徴兵令などの国内改革の方向性に影響を与えた点も重要なポイントです。
岩倉具視は、封建的な政治体制から近代国家への転換期において、日本が国際社会で認められる国家になるための道筋を示した指導者であり、その生涯と功績を押さえておくことで明治維新から近代化への流れ全体が見えやすくなります。
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