徳川家治とは?何をした人かを簡単にわかりやすく解説【初心者向け】

徳川家治とは?何をした人かを簡単にわかりやすく解説【初心者向け】 日本の歴史

徳川家治は江戸幕府第10代将軍で、1760年から1786年まで政治の中心に立った人物です。

側用人の田沼意次を重用して経済政策や流通の活性化を進めた一方で、飢饉や財政難にも直面した時代でもあります。

この記事では、生い立ちや人柄から、田沼政治の特徴、庶民の暮らしへの影響、後の寛政の改革との関係まで、初心者にも分かるようにやさしく解説します。

歴代将軍の中でやや印象の薄い家治ですが、江戸幕府の転換点となった重要な時期を担ったことを知ることで、日本史全体の流れも理解しやすくなります。

徳川家治とはどんな人物?

徳川家治の基本プロフィール

徳川家治(とくがわいえはる)は、江戸幕府第10代将軍です。

1737年に江戸城西の丸で第9代将軍徳川家重の長男として生まれました。

幼名は家康以来の伝統を受け継いだ「竹千代」で、幼いころから将軍家の後継ぎとみなされていました。

1760年に将軍職を継ぎ、1786年に亡くなるまでおよそ26年間、江戸幕府の頂点に立ちました。

在位中の日本は人口や経済が成長する一方で、財政難や飢饉などの問題も表面化し始めた時期でした。

生い立ちと将軍就任までの経緯

家治は幼いころから祖父の8代将軍徳川吉宗に特別にかわいがられました。

吉宗は将軍としての心得や政治の考え方だけでなく、学問や武芸まで自ら教えたと伝えられています。

1741年に元服して「家治」と名乗り、公家として高い官位である権大納言に任じられました。

その後も江戸城西の丸で吉宗のそばに仕えながら、次の将軍としての教育を受け続けました。

1754年には皇族である閑院宮家の五十宮倫子を正室に迎え、公家社会とのつながりも強めました。

1760年に父の家重が隠居すると、家治は徳川宗家の家督を継ぎ、同じ年に正式に第10代将軍として宣下を受けました。

将軍就任にあたっては、諸国巡見使の派遣や武家諸法度の公布など、代替わりに伴う重要な儀式や手続きが滞りなく行われました。

家治の性格や人柄について

家治は学問や芸術を好み、書画や和歌にも親しんだ教養豊かな人物と伝えられています。

特に将棋が大好きで、自ら詰将棋の作品集を作るほど熱心な愛好家でした。

一方で、日常生活は質素で、将軍としての暮らしの無駄を減らすよう努めたといわれます。

大奥の費用を抑えるなど倹約に気を配りながらも、家臣や周囲の人には思いやりのある温かい態度で接したとする逸話も多く残っています。

正室の五十宮倫子を大切にした愛妻家としての側面もあり、将軍としては珍しく夫婦仲が良かったことでも知られています。

その一方で、政治の細かな運営は信頼する家臣に任せ、自分は表に出にくい性格だったと評されることもあります。

文化や趣味の分野で才能を発揮しながら、控えめで温和な性格の持ち主だったと考えられます。

徳川家治は何をした人?主要な功績を簡単に解説

田沼意次を重用し改革を進めたこと

徳川家治の政治で最も大きな特徴は、有能な家臣と見なされた田沼意次を重用して、実際の政治運営を任せたことです。

家治は父である徳川家重の遺言に従い、田沼意次を側用人に登用し、その働きを評価して老中にまで引き上げました。

田沼意次が政治の中心に立ったことで、それまでの緊縮と倹約を重んじた方針から、経済の活性化を目指す積極的な政策へと転換が進みました。

将軍は家治でありながら、実権は田沼意次が大きく握っていたため、この時代は後に「田沼時代」と呼ばれるようになりました。

家治は細かな政治にはあまり口を出さず、田沼意次の方針を基本的に承認しながら、全体を上から支える立場に回ったと考えられます。

財政政策や経済改革の特徴

家治と田沼意次の時代は、慢性的な財政難を打開するために、年貢だけに頼らず新しい収入源を求めたことが特徴です。

田沼意次は商人たちの同業組合である株仲間を積極的に公認し、専売の特権を与える代わりに運上金や冥加金と呼ばれる税を納めさせました。

この仕組みによって、幕府は現金収入を増やしつつ、流通や物価を一定の範囲でコントロールしようとしました。

さらに、新田開発や干拓工事などを進めて耕地を広げ、農業生産と商品作物の栽培を拡大しようとした点も重要な試みでした。

長崎貿易の立て直しや蝦夷地調査の計画などを通じて、対外貿易や北方開発にも関心を向けたことが、従来の消極的な政策との大きな違いでした。

こうした政策は、武士の生活を支える石高中心の仕組みから、貨幣や商業が重みを増す経済へと、幕府自身が対応しようとした動きだといえます。

文化振興と学問への支援

家治と田沼意次の時代は、政治的には批判も多い一方で、学問や文化の世界では新しい動きが活発になった時期でもあります。

田沼意次は身分にこだわらず才能のある人物を登用し、平賀源内のような学者兼発明家とも交流を持ち、学問や技術の発展を後押ししました。

この自由な空気の中で、西洋の学問である蘭学が本格的に広がり、1774年には杉田玄白や前野良沢らがオランダ医学書を翻訳した『解体新書』を刊行しました。

『解体新書』は人体のしくみを図入りで詳しく紹介した書物で、日本の医学に科学的な視点を取り入れる大きなきっかけとなりました。

また、大槻玄沢らが蘭学塾を開いたことで、江戸には西洋の知識を学ぼうとする人々が集まり、新しい学問を求める動きが広がりました。

都市では町人文化がますます発展し、戯作や浮世絵などの庶民文化が豊かになったことも、この時代の特徴として後世から高く評価されています。

徳川家治の治世における課題と背景

財政難の時代背景

徳川家治が将軍を務めた18世紀後半の江戸幕府は、慢性的な財政難に悩まされていました。

米や金の収支は18世紀半ばから赤字基調となり、明和年間には米も金も赤字が続く状態になっていました。

そこで幕府は倹約令を何度も出して支出を抑えようとしましたが、根本的な財政の立て直しにはなかなか結び付きませんでした。

さらに1780年代には冷害や凶作が相次ぎ、1782年から1788年にかけて天明の大飢饉が日本各地を襲いました。

この大飢饉は特に東北地方で被害が深刻で、農村の荒廃と多数の餓死者を生み、幕府財政にも大きな打撃を与えました。

一方で幕府は備蓄米の制度を縮小していたため、飢饉への備えが十分でなく、危機対応のまずさも批判される結果となりました。

このように家治の治世は、構造的な財政赤字と自然災害による打撃が重なった厳しい時代背景のうえに成り立っていました。

田沼政治への評価と批判

家治期の政治を語るとき、中心となるのが田沼意次が主導したいわゆる田沼政治です。

田沼意次は、株仲間の公認や運上金・冥加金による財源確保など、商品経済を利用して幕府財政を立て直そうとしました。

しかし特権を与えられた商人が巨利を得る一方で、一般の庶民には物価高騰として跳ね返り、不満が高まっていきました。

また役人への賄賂や口利きが横行したとされ、当時の戯作や風刺作品では田沼政権の汚職体質がしばしば皮肉られました。

こうした事情から、後世の教科書などでは長く「田沼=賄賂政治」というイメージで語られてきました。

一方で近年の歴史研究では、田沼意次が時代の変化に合わせて商業や貨幣経済を積極的に取り込もうとした点を評価する見方も強まっています。

つまり家治の時代の政治は、腐敗した面と先進的な試みの両面を併せ持つ、転換期の揺れを象徴するものだったといえます。

庶民生活への影響

家治の治世に進んだ経済政策や財政難のしわ寄せは、最終的に庶民の生活を直撃しました。

農民は年貢の負担を抱えたまま商品経済に組み込まれ、凶作が起きるとたちまち生活基盤が崩れてしまう危うい状況に置かれていました。

天明の大飢饉の時期には多くの村で飢餓と流民が生まれ、村単位で年貢の軽減を求める一揆や騒動が各地で頻発しました。

都市部でも米価や物価の高騰が続き、江戸や大阪などでは富裕な商人の蔵や家を破壊する打ちこわしが相次ぎました。

特に1787年の天明の打ちこわしは江戸を中心に全国各地で同時多発的に起こり、江戸時代を通じて最大規模の都市暴動となりました。

この大規模な打ちこわしは、田沼政権に対する不満や、飢饉と物価高に苦しむ人々の怒りが爆発した出来事として、家治末期の象徴とされています。

庶民の暮らしはこの時代に大きく揺さぶられ、その不安定さが後の寛政の改革へとつながる背景の一つになりました。

徳川家治の時代が後世に与えた影響

後の松平定信による寛政の改革との関係

徳川家治が1786年に亡くなったあと、後継の徳川家斉のもとで政治の主導権は松平定信に移り、1787年から寛政の改革が始まります。

寛政の改革は、田沼意次の政治を「ぜいたくと腐敗の象徴」とみなし、その反省から倹約や質素を重んじる路線へ大きく舵を切った政策として知られています。

具体的には、旗本や庶民に対する倹約令、風俗取締り、朱子学を重視する思想統制など、道徳と秩序の立て直しを目指す施策が多く打ち出されました。

一方で近年の研究では、経済政策の面では株仲間や冥加金など、田沼時代に始まった仕組みの多くがそのまま受け継がれていたことが指摘されています。

表向きは田沼政治を全面否定しながらも、実際には家治と田沼が始めた経済システムに依存せざるをえなかった点に、時代の連続性が見て取れます。

その意味で、家治の時代は寛政の改革を生む直接のきっかけであると同時に、その土台ともなった重要な準備期間だったといえます。

経済・政治に残した課題

家治の治世末期には天明の大飢饉が起こり、農村は深刻な打撃を受け、農業人口は大きく減少しました。

飢饉への対応や将軍家治の葬儀などで幕府の支出が増えた結果、幕府財政はおよそ100万両規模の赤字が予想されるほど逼迫していたと伝えられています。

田沼意次の政策は新たな財源確保や経済活性化を目指した意欲的なものでしたが、財政赤字を根本的に解消するところまでは到達できませんでした。

また、商業や貨幣経済を重視する一方で、幕府支配の基盤である石高制や農村社会の仕組みはそのまま残り、古い制度と新しい経済のギャップが拡大しました。

このギャップは、農村の疲弊や都市と農村の格差、武士階級の生活難といったかたちで表面化し、後の時代にも尾を引く構造的な問題となりました。

寛政の改革はこうした課題を道徳と規律の面から立て直そうとしましたが、家治の時代に生じた経済構造のひずみそのものを解決することは難しかったといえます。

歴史的評価の変化

かつて家治と田沼意次の時代は、賄賂と汚職が横行した「悪い政治」の時代として語られることが多く、教科書でも否定的な評価が中心でした。

しかし近年では、田沼時代は幕藩体制が大きく揺らぎ始めた転換期であり、商業や貨幣経済を積極的に取り込もうとした先進的な試みが評価されるようになっています。

株仲間の公認や貿易・新田開発などの政策は、問題点を抱えつつも、従来の農本主義一辺倒の政策から一歩踏み出した挑戦だったと見直されています。

また、蘭学や洋学が広がり、後の近代化にもつながる知の蓄積が進んだのも家治の時代であり、文化面での功績も重視されるようになりました。

そのため現在では、徳川家治の時代は「失敗した腐敗政治」の一言で片付けられるものではなく、危機と変化が入り混じる過渡期としてバランスよく評価すべきだと考えられています。

家治の治世を理解することは、江戸幕府がどのように近世社会の限界に直面し、明治維新へとつながる長い変化の道筋をたどったのかを知る手がかりになります。

徳川家治の年表

西暦和暦主な出来事
1737年元文2年徳川家治が江戸城西の丸で徳川家重の長男として誕生する。
1741年寛保元年元服して「家治」と名乗り、従二位権大納言に叙任される。
1754年宝暦4年閑院宮直仁親王の第6王女・五十宮倫子と結婚し、御台所を迎える。
1760年宝暦10年父徳川家重が隠居し、家治が徳川宗家の家督を継ぐ。同年に征夷大将軍宣下を受け、第10代将軍に就任する。
1767年明和4年田沼意次が側用人に昇進し、家治政権の中枢に参画する。のちに田沼時代と呼ばれる政治期の本格的な始まりとされる。
1772年安永元年田沼意次が老中に就任し、幕政の実権を握る。株仲間公認など重商主義的な政策が本格化する。
1782年天明2年天明の大飢饉が始まり、東北地方を中心に凶作と飢餓が広がり始める。
1783年天明3年浅間山が大噴火し、天明の大飢饉がさらに深刻化する。幕府財政と農村社会への打撃が決定的となる。
1786年天明6年天明の洪水など自然災害が続き、飢饉と社会不安が高まる。同年、田沼意次が失脚し、家治も江戸城で死去する。
1787年天明7年江戸や大坂などで天明の打ちこわしが起こり、都市暴動が多発する。徳川家斉が第11代将軍に就任し、松平定信が老中となって寛政の改革を開始する。
1787年〜1793年天明7年〜寛政5年松平定信主導の寛政の改革が実施される。田沼時代の反省から倹約と統制を重視する政策が進められ、家治・田沼期の政治が批判と見直しの対象となる。

まとめ:徳川家治は何をした人か簡単におさらい

功績のポイントまとめ

徳川家治は江戸幕府第10代将軍として1760年から1786年まで在位し、父の遺言を受けて田沼意次を重用しながら政治を進めた人物です。

家治は田沼意次を側用人から老中へと引き立て、株仲間の公認や運上金・冥加金による財源確保など、従来とは異なる経済政策が行われる土台をつくりました。

その結果、田沼政治と呼ばれる重商主義的な改革が進められ、商品流通の活性化や新田開発、貿易強化、蝦夷地の調査などが試みられました。

一方で天明の大飢饉や財政赤字の深刻化、物価高騰や打ちこわしの頻発など、多くの課題も家治の治世に噴き出しました。

家治の時代には蘭学をはじめとする新しい学問が広がり、『解体新書』の刊行や町人文化の発展など、文化や学問の面でも大きな進展が見られました。

家治の死後、松平定信による寛政の改革が行われ、表向きは田沼政治の反省として倹約と統制が強調されましたが、経済面では田沼時代の仕組みが受け継がれるなど、家治の時代は後の政策に大きな影響を残しました。

初心者でも理解しやすい重要ポイント

初心者が押さえておきたいのは、徳川家治が「田沼意次を登用して新しいタイプの政治を進めた将軍」だという点です。

家治自身は温和で文化や趣味を好む性格で、日常生活も質素でしたが、その代わりに実務に長けた田沼意次に政治を任せました。

田沼意次の政治は賄賂や腐敗で批判も多かった一方で、商業や貨幣経済を活用しようとした先進的な試みとして、今では再評価も進んでいます。

しかし天明の大飢饉や財政難によって庶民の暮らしは不安定になり、一揆や打ちこわしが頻発するなど、社会の不満も大きく高まりました。

その反動として松平定信の寛政の改革が始まり、質素倹約や道徳を重んじる政治が打ち出されたことからも、家治の時代が大きな転換点だったことが分かります。

つまり徳川家治の治世は、江戸幕府が古い仕組みのままでは立ちゆかなくなり、新しい経済や社会の動きを取り込もうとして大きく揺れ動いた過渡期であり、その姿を知ることで江戸時代後期から幕末へ続く流れを理解しやすくなります。

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