奈良時代に日本の政治や学問の発展に大きく貢献した「吉備真備(きびのまきび)」。
彼は唐に渡って多くの知識を学び、日本に持ち帰ったことで、律令制度や教育の発展に深く関わりました。
この記事では、「吉備真備とはどんな人か?」「何をした人なのか?」を、歴史が苦手な人でもわかりやすく解説します。
さらに、彼の功績や面白いエピソードを通じて、学び続けることの大切さも紹介します。
吉備真備とはどんな人?
奈良時代に活躍した政治家・学者
吉備真備(きびのまきび)は、奈良時代の学者・政治家として知られ、氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣とされます。
備中国(現在の岡山県)出身とされ、695年ごろの生まれ、775年頃に没したと伝えられています。彼は若くして学問に秀で、朝廷において重要な役割を果たした人物です。
吉備真備は、最終的に右大臣にまで昇りつめた数少ない学者官僚の一人であり、古代日本の律令制度整備や文化・学問の導入において大きな足跡を残しました。
近年では、彼が〈学び・交流・制度構築〉の三つを柱に活動した「天才官僚」として再評価されています。
藤原仲麻呂や玄昉とともに遣唐使として活躍
吉備真備は若き日に、遣唐使(日本から唐に派遣された使節)の留学生として唐(中国)に渡りました。特に、あの 阿倍仲麻呂 や僧侶の 玄昉 とともに、先進文化を学び、帰国後その知識を日本に持ち帰るという大きな使命を帯びていたことが知られています。
当時、唐は世界的に最も文化・制度の先進国とみなされており、その知識を取り入れることは日本の国づくりや政策において非常に価値あるものでした。吉備真備はその役割を担った代表的な人物の一人です。
吉備真備が「何をした人」なのか簡単に解説
唐で最新の学問や制度を学び、日本に持ち帰った
若き日の 吉備真備 は、養老元年(717年)に留学生として唐(中国)へ渡り、儒教・天文学・兵学・律令制度など幅広い学問を学びました。
帰国後には、唐で習得した知識をもとに『唐礼』などの儀礼書や暦法を朝廷に献上し、制度・文化の導入に大きく寄与しました。
律令制度や国の仕組みづくりに貢献した
帰国後、真備は律令体制の整備に深く関わりました。彼は儒教の礼儀を定める「釈奠(せきてん)」を改善し、また暦法を『大衍暦』に改めることで、天文・暦学を通じて国の時間・暦の仕組みを整備しました。
また、朝廷において要職を歴任し、国政の中心で仕組みづくりに携わったことで、地方豪族出身ながら異例の出世を遂げました。
日本の教育・文化発展に大きな影響を与えた
吉備真備は、唐から持ち帰った知識を単に制度に組み込むだけでなく、教育・文化分野にも働きかけました。彼は皇太子の学士として『漢書』や『礼記』を教え、また学問の普及と儒教教育の強化に力を入れました。
さらに、唐から伝わった楽器・弓矢・測量器具などが日本に紹介されたことも記録されており、文化・技術面でも影響を与えたことが分かっています。
吉備真備の主な功績まとめ
① 儒教・法律・天文学など多くの知識を伝えた
吉備真備は、若年期に唐(中国)へ渡り、儒教の経典・律令制度・天文学・兵学など幅広い学問を修めて帰国しました。
帰朝時には『唐礼』130巻、『大衍暦経』『大衍暦立成』などの暦書、測量器具・楽器・武具などを献上しており、唐の先端知識を日本へと持ち帰ったという記録が残っています。
そのため、朝廷・学問界ともに大きなインパクトを与え、以降の制度や教育の基盤整備に貢献しました。
② 政治家として朝廷を支えた
帰国後、吉備真備は朝廷内で数々の重要な役職を歴任し、最終的には右大臣・正二位にまで昇進しました。
また、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧などにも貢献しており、国家の危機においても重要な役割を果たしたと伝わっています。
このように、学者出身ながら実務・政治の場でも活躍した点が、彼を「天才官僚」として語る所以です。
③ 学問の発展に尽力し、後の世代に影響を与えた
吉備真備は、唐で得た知識・制度・文物をただ導入するだけでなく、それらを教育・文化の文脈においても活かしました。
例えば、儒教の礼儀典礼(釈奠)や暦法などを改善し、朝廷の儀式・時刻制度を整備しました。
また、書道・音楽・天文学など「多芸にわたる学知」の実践者として、書迹が今でも注目されるほどで、唐代書法の影響を色濃く受けたその筆跡が中国で公開されたという史料もあります。
こうした活動を通じて、日本の古代学問・文化の発展に影響を残しました。
吉備真備にまつわる面白いエピソード
阿倍仲麻呂との友情エピソード
奈良時代において、吉備真備と阿倍仲麻呂 はともに唐へ渡った遣唐留学生でした。真備が養老元年(717年)に入唐したとき、仲麻呂もまた同じ船団の一員として渡航しています。
この二人が留学先で親しく学び合ったという記録は、友情という面からも日本史ファンの興味を惹きます。
真備が唐で様々な制度や学問を学んだ折、仲麻呂の存在が精神的な支えになったという伝承も伝わっています。
ただし二人のその後の運命は大きく異なり、真備は帰国に成功して日本の官僚・学者として活躍しましたが、仲麻呂は唐に留まり続け、帰国叶わず日本に戻ることはなかったとされています。
唐からの帰国時の伝説や逸話
吉備真備には、史実以上にドラマチックな「伝説」が多く残されています。
例えば、平安時代末期の絵巻物『吉備大臣入唐絵巻』では、真備が入唐後に唐の役人から様々な試練を課され、囲碁の勝負や詩文の試験に挑み、さらには「鬼」と表現された仲麻呂の助けによって危機を切り抜けるという筋書きが描かれています。
また、伝説では真備が囲碁の対決で相手の碁石を飲み込んだり、魔術的に太陽や月を隠して試験を切り抜けたという逸話も見られます。
これらはあくまで「伝承」の域を出ないものの、当時から真備の才覚や異文化での活躍が人々の間で語り草になっていたことを示しています。
吉備真備の功績から学べること
学び続ける姿勢の大切さ
奈良時代に活躍した 吉備真備 は、若くして大陸に渡り、先端の学問や制度を学んで帰国しました。
長期間にわたる留学を通じて、儒教・天文学・制度論・文化技術など多岐にわたる知識を自ら修め、帰国後もそれを活かし続けました。
このように、年齢や立場に関わらず学びを止めず、自分をアップデートし続ける姿勢は、現代においても強く価値あるものであるといえます。
異文化交流が日本を豊かにしたこと
吉備真備は、当時の日本よりも進んでいた唐(中国)の制度や文化を積極的に取り入れ、日本の律令制度・学問・技術の発展に大きく貢献しました。
このように、異なる国・地域の文化や知識を「学び」「翻訳し」「自国に活かす」という姿勢は、ただ知識を持ち帰るだけでなく、日本の風土・制度・文化に適応させることが重要だったことを示しています。
現代社会においても、グローバルな視点と国内の事情を両立させることの重要性を、彼の生涯から学ぶことができます。
まとめ|吉備真備は「学問と政治の天才」だった!
日本史の重要人物として今も語り継がれる理由
奈良時代において、吉備真備は、ただの学者や官僚ではなく、唐(中国)という当時の東アジアの最先端文化圏から最新の学問や制度を学び、それを日本に持ち帰って実践できた。まさに「知を行動に移せる人材」でした。
その意味で、彼は「学問の天才」であると同時に、「政治・制度の天才」としても評価されます。
例えば、律令制度の整備や暦・天文学の導入、さらに教育や文化面での波及効果など、当時としては画期的な仕事を多数担ってきたからこそ、今日においても日本史の教科書・資料・地域伝承などで頻繁に取り上げられています。
吉備真備の年表
吉備真備の生涯を簡潔に年表形式でまとめます。
| 西暦/年齢(目安) | 出来事 |
|---|---|
| 695年(出生) | 備中国(現在の岡山県)に生まれる。 |
| 716年ごろ(約21歳) | 遣唐留学生として唐へ渡る準備を始める。 |
| 717年(入唐) | 唐に入唐し、儒教・暦法・制度・文化技術などを学ぶ。 |
| 735年(帰国) | 日本へ帰国し、学んだ内容を朝廷に反映し始める。 |
| 746年 | 「吉備朝臣」の姓を賜る。 |
| 752年(遣唐副使) | 再び唐へ渡る遣唐副使として活躍。 |
| 764年 | 造東大寺長官に任じられ、大きな宗教・建築プロジェクトも統括。 |
| 766年 | 右大臣に任じられ、晩年の官位を得る。 |
| 775年(没) | 宝亀6年10月2日(宝亀6年=775年)に他界。享年約80余。 |
以上のように、吉備真備の人生は「学び、海外で吸収し、それを制度・文化として帰国後に社会に定着させる」という流れをたどっています。
この流れこそが、彼が「学問と政治の天才」と称される所以であり、現在もその生き方や業績が日本史の重要な一幕として語り継がれている理由です。

