支倉常長(はせくらつねなが)は、江戸時代初期にヨーロッパまで渡った日本人として知られています。
彼は伊達政宗の家臣として、「慶長遣欧使節」という壮大な海外使節団を率い、当時のスペインやローマにまで赴きました。
この記事では、支倉常長がどんな人物で、何のために海を越え、どのような功績を残したのかを、わかりやすく解説します。
日本とヨーロッパをつないだ先駆者の生涯を、簡単に理解できるように紹介していきましょう。
支倉常長とはどんな人?
支倉常長の生まれと背景
支倉常長は1571年に生まれたとされる伊達家の家臣で、日本とヨーロッパの交流史に名を残す人物です。
出生地については諸説がありますが、陸奥国で育ち、のちに伊達政宗のもとで才能を認められていきます。
生涯の終期については、1621年と1622年の両説が伝わっており、いずれにせよ江戸初期にかけて活躍した武士であったことは確かです。
伊達政宗に仕えた武士としての経歴
常長は仙台藩で600石を与えられ、鉄砲や足軽の組頭として実務を担いました。
文禄・慶長の役で海外遠征を経験したとされ、実戦と渡海の経験がのちの使節任命の背景になったと理解されています。
一時は父の不祥事に連座して処分を受けたものの、力量を買われて復帰し、1613年に伊達政宗の命で慶長遣欧使節の中心人物として抜擢されました。
支倉常長が「何をした人」なのか簡単に解説
ヨーロッパへ渡った「慶長遣欧使節」とは?
慶長遣欧使節は1613年に仙台藩主伊達政宗が派遣した外交使節団で、新イスパニアと呼ばれたメキシコとの通商とローマからの宣教師招聘を目的としていました。
使節を率いたのが政宗の家臣である支倉常長で、仙台藩で建造した洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を渡り、メキシコを経由してスペインに向かい、さらにローマへ至りました。
一行は1614年にスペインへ到着し、翌1615年にはスペイン国王フェリペ3世に謁見しています。
支倉常長が果たした3つの重要な役割
第一に、常長は使節の大使として公式の国書を奉呈し、スペイン国王とローマ教皇に直接謁見するという前例のない外交を担いました。
第二に、常長は通商交渉の推進役として、メキシコとの直接貿易開設を求める政宗の方針を欧州側に伝え、具体的な要請を行いました。
第三に、常長は宗教外交の窓口として、ローマからの宣教師派遣を求める交渉を進め、自身も1615年2月にマドリードで洗礼を受けて信頼醸成に努めました。
ローマ教皇との謁見とその意義
常長は1615年10月にローマへ入市し、11月3日に教皇パウロ5世に拝謁して伊達政宗の書状を手渡し、宣教師派遣とメキシコとの貿易実現に向けた支援を要請しました。
ローマでは常長の品位が高く評価され、常長らにはローマ市の市民権が授与されるなどの厚遇が示され、日本と欧州の正式な交流の端緒として歴史的意義を残しました。
しかし日本側の宗教政策の変化により所期の目的は果たされず、一行は1620年に帰国することになりました。
なぜ支倉常長はヨーロッパへ行ったのか?
伊達政宗の思惑と貿易の狙い
伊達政宗は仙台藩の発展のために新たな交易ルートを開くことをめざし、支倉常長を大使として派遣しました。
狙いは新イスパニアと呼ばれたメキシコとの直接貿易の権益を獲得することで、仙台領で建造した洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号によって太平洋を横断し、現地で交易交渉の足場を築く構想でした。
当時のスペイン帝国はメキシコとフィリピンを結ぶマニラ・ガレオン交易で巨利を得ており、政宗はこのネットワークへの参入を通じて銀や工芸品の輸出、絹織物や香料などの輸入を見込んでいました。
政宗は国内政治の制約を踏まえつつも、対外関係の開拓で藩の自立性と国際的な存在感を高める意図を持っていました。
キリスト教との関係と時代背景
慶長遣欧使節のもう一つの目的はローマからの宣教師招聘であり、政宗は布教容認と引き換えに通商を実現する方策を探りました。
しかし日本国内では1612年に幕府直轄領で禁教令が出され、1614年には全国に及ぶなどキリスト教政策が急速に厳格化しており、外交交渉は不利な環境に置かれていました。
支倉常長は信頼醸成のためにスペインで洗礼を受けるなど誠意を示しましたが、禁教と対外政策の硬化により通商や宣教師派遣の実現は困難となりました。
やがて1624年にはスペイン船の来航が禁じられ、日本とイベリア世界の往来は長く途絶し、使節の構想は時代の大きな転換の中で挫折することになりました。
支倉常長の帰国後とその後の運命
帰国後に待ち受けた現実とは?
支倉常長は1620年に長い航海を終えて日本へ戻りました。
サン・ファン・バウティスタ号はマニラでスペイン側に買収されていたため、一行は便船で長崎へ帰着し、その後に仙台へ向かいました。
1620年9月には仙台に到着して伊達政宗に報告しましたが、その直後に仙台藩内でキリスト教の禁止が徹底され、取り締まりが強化されました。
日本全体でも1612年以降に禁教が段階的に進み、1624年にはスペイン船の来航が禁止されるなど、使節の構想を取り巻く環境は急速に不利になっていました。
ルイス・ソテロは日本再入国後に捕縛され、1624年に大村で火刑に処されました。
常長が欧州で積み上げた交渉の成果は国内情勢の変化により結実せず、帰国の報は大きく顕彰されることなく受け止められました。
支倉常長の功績と評価
支倉常長は1615年にローマで市民権の授与を受け、日本人が正式な外交儀礼の場で評価を得た先例を作りました。
常長が将来した書状や肖像画、聖具類などは仙台藩の管理下で保存され、のちに「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定されました。
これらの資料の中核であるローマ市公民権証書や支倉常長像、ローマ教皇パウロ5世像は2013年にユネスコ「世界の記憶」に登録され、国際的にも歴史価値が確認されました。
一方で常長自身は1622年に没したとされ、家は子の常頼の代に禁教政策の余波を受けて1640年に一時断絶し、1668年に再興されました。
常長の渡欧は通商や宣教師招聘という当初目的こそ果たせなかったものの、日本とヨーロッパを直接に結んだ先駆的試みとして、今日では地域と国の文化財を通じて高く評価されています。
支倉常長の年表
支倉常長の生涯と慶長遣欧使節の旅程を、日本側の公的資料や博物館資料に基づいて年表にまとめます。
年や日付には可能な限り精確な西暦を示し、史料上の幅がある場合は注記で補足します。
| 西暦 | 和暦 | できごと | 注記 |
|---|---|---|---|
| 1570年ごろ | 元亀元年 | この頃に支倉常長が生まれました。 | 生年は1570年ごろとされます。 |
| 1577年 | 天正5年 | 常長が伯父の支倉時正の養子になったとされます。 | 家中での位置づけが固まりました。 |
| 1608年11月29日 | 慶長13年10月22日 | 常長が小山村ほかの知行約60貫文を与えられました。 | 伊達家臣としての役目が強まりました。 |
| 1613年10月28日 | 慶長18年9月15日 | 月浦からサン・フアン・バウティスタ号で出帆し、慶長遣欧使節が太平洋横断に出発しました。 | 出帆地は月浦と雄勝の説があり、月浦説が有力です。 |
| 1614年1月29日 | 慶長18年12月20日 | アカプルコに入港しました。 | 25日または28日とする記録もあります。 |
| 1614年3月24日 | 慶長19年2月14日 | メキシコ市に到着しました。 | 新大陸側での歓迎を受けました。 |
| 1614年6月10日 | 慶長19年5月3日 | ベラクルスからスペイン艦隊に便乗し大西洋を渡航しました。 | 途中ハバナに寄港しました。 |
| 1614年10月5日 | 慶長19年9月1日 | スペインに上陸しました。 | コリア・デル・リオやセビリアを経由しました。 |
| 1615年1月30日 | 慶長20年1月2日 | マドリードでスペイン国王フェリペ3世に謁見しました。 | 伊達政宗の書状と贈物を奉呈しました。 |
| 1615年2月17日 | 慶長20年1月20日 | 常長が洗礼を受けました。 | 洗礼名はフェリペ・フランシスコと伝わります。 |
| 1615年10月18日 | 元和元年8月26日 | イタリアのチヴィタヴェッキアに入港しました。 | ローマ入市準備が進みました。 |
| 1615年10月29日 | 元和元年9月7日 | ローマ入市式が行われました。 | 盛大な行列で迎えられました。 |
| 1615年11月3日 | 元和元年9月12日 | サン・ピエトロ宮でローマ教皇パウロ5世に謁見しました。 | 宣教師派遣と通商の支援を要請しました。 |
| 1615年11月23日 | 元和元年10月3日 | 常長ら8名にローマ市公民権が授与されました。 | 厚遇を示す出来事でした。 |
| 1616年1月7日 | 元和元年11月18日 | 一行がローマを発ちました。 | スペイン側の返答を待つためでした。 |
| 1617年7月4日 | 元和3年6月2日 | セビリアを出発して帰途につきました。 | 交渉は目的を果たせませんでした。 |
| 1618年4月2日 | 元和4年3月7日 | 迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出帆しました。 | 太平洋方面への帰路に入りました。 |
| 1618年8月10日 | 元和4年6月20日 | マニラに到着しました。 | 以後の船はスペイン側に買収されました。 |
| 1620年8月 | 元和6年7月 | 便船で長崎に帰着しました。 | ルイス・ソテロはマニラに残留しました。 |
| 1620年9月20日または22日 | 元和6年8月24日または26日 | 常長が仙台に帰着して政宗に報告しました。 | 直後に仙台領で禁教が徹底されました。 |
| 1621年から1622年 | 元和7年から8年 | 常長が病没しました。 | 支倉家年譜では1622年8月7日没と伝わります。 |
| 2001年6月22日 | 平成13年6月22日 | 「慶長遣欧使節関係資料」が国宝に指定されました。 | 所有者は仙台市で所蔵先は仙台市博物館です。 |
| 2013年6月 | 平成25年6月 | 同資料のうち三点がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。 | ローマ市公民権証書と二つの肖像画が登録対象でした。 |
まとめ|支倉常長は「日本と世界をつないだ先駆者」だった
簡単に言うと、どんなことをした人?
支倉常長は1613年に伊達政宗の命で大使として太平洋を渡り、メキシコとスペインを経てローマに至り、通商と宣教師派遣を求めて公的な外交交渉を行った人物です。
1615年にはスペイン国王とローマ教皇に謁見し、ローマでは市民権の授与などの厚遇を受け、日本人が欧州の公式儀礼の場で評価を得た先例を作りました。
航海と交渉の成果は国内の禁教強化により結実しませんでしたが、日本人が自力で造った洋式帆船で外洋を往復し、欧州中枢と直接交渉した事実は日本の外交史における画期でした。
今も語り継がれる理由とは?
支倉常長が持ち帰ったローマ市公民権証書や肖像画などは「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定され、2013年にはユネスコ「世界の記憶」に登録されるなど、その歴史的価値が国際的に認められています。
宮城県のサン・ファン館をはじめ各地で関連展示や研究が続けられ、一次資料に基づく検証と発信が進んでいることも、物語が現在まで生きている理由です。
異文化を直接つなごうとした意思と実行力は、現代の国際交流や地域から世界へ挑む姿勢の手本となり、支倉常長は日本と世界を結ぶ先駆者として語り継がれています。

