伊藤博文は、日本で初めて内閣総理大臣となり、明治時代の政治や国づくりを大きく動かした人物です。
本記事では、「伊藤博文は何をした人なのか?」という疑問に答えながら、憲法制定や近代国家のしくみづくりなど、教科書では分かりにくいポイントをやさしく解説します。
生い立ちから明治維新での活躍、総理大臣としての功績、韓国統監としての一面、そして評価と批判までを順番に整理することで、伊藤博文の役割を立体的に理解できるようになります。
伊藤博文とはどんな人物?
伊藤博文の生い立ちと若い頃の経歴
伊藤博文は1841年に現在の山口県にあたる周防国熊毛郡で生まれました。
もともとは農家の出身でしたが父が下級武士の家を継いだことで武士の身分となりました。
幼い頃から学問に励みやがて長州藩の志士たちと交流するようになります。
若い頃の伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で学び高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加しました。
1862年には仲間とともにイギリス公使館の焼き討ちに加わるなど過激な行動もとりました。
その一方で1863年には藩命によりイギリスへ留学しロンドンで西洋の政治や軍事力の実情を目の当たりにしました。
この留学経験から伊藤博文は攘夷ではなく開国と近代化こそが日本の生きる道だと考えるようになりました。
帰国後は長州藩の中で対外交渉を担当し新しい時代を見据えた若手の有力者として頭角を現していきました。
明治維新で果たした役割とは?
伊藤博文は長州藩の一員として幕末の動乱期に倒幕運動に深く関わりました。
第一次長州征伐の際には藩の方針に反発し高杉晋作らとともに挙兵して藩内の主導権を握る側に回りました。
こうした動きは長州藩が倒幕へ大きく舵を切るきっかけの一つとなりました。
その後の戊辰戦争では新政府軍側として活動し新しい政権づくりに参加していきます。
明治新政府が成立すると外務や財政に関わる役職を歴任し特に外国との交渉や条約問題に携わりました。
伊藤博文は長州出身の政治家たちとともに明治政府の中心を担い明治維新後の政治体制づくりに重要な役割を果たしました。
倒幕の志士から新政府の指導者へと立場を変えながら近代国家への道筋をつけたことが伊藤博文の大きな特徴といえます。
伊藤博文が何をした人なのか簡単に解説
日本初の内閣総理大臣としての功績
伊藤博文は1885年にそれまでの太政官制をやめて内閣制度を導入し日本で初めて内閣総理大臣に就任した人物です。
それまでの政治は役割分担があいまいで意思決定の流れも分かりにくいものでしたが伊藤博文は欧米の制度を参考にしながら首相を中心とする内閣という形を整えました。
各省庁の役割を分け大臣を配置する仕組みをつくったことで誰がどの分野を担当しているのかがはっきりし近代的な行政組織への第一歩となりました。
この内閣制度は名前や細かな仕組みを変えながらも現在の日本の政治の基本的な形として受け継がれています。
憲法制定に深く関わった理由とは?
伊藤博文が憲法制定に深く関わった背景には若い頃から外国で政治制度を学び日本を近代国家として国際社会に認めさせたいという強い思いがありました。
明治政府は列強諸国と対等な関係を築くためにも近代的な成文憲法を持つことが重要だと考え伊藤博文は憲法づくりの中心人物に任命されました。
伊藤博文はヨーロッパに渡って特に立憲君主制をとるドイツやオーストリアの憲法を詳しく調査し日本に合う形を研究しました。
帰国後は専門家たちとともに草案作成を進め枢密院議長として最終的な審議を主導し1889年に大日本帝国憲法の公布へとつなげました。
こうした経緯から伊藤博文は日本の近代憲法体制を築いた中心人物の一人とされています。
近代国家づくりにおける重要な働き
伊藤博文は単に内閣をつくり憲法を整えただけでなく日本を近代国家として運営するための枠組みづくりに広く関わりました。
憲法に基づいて貴族院と衆議院からなる帝国議会を開く体制を整え国民の代表が政治に参加する仕組みを導入しました。
同時に行政組織や法律の整備も進め官僚制度や地方制度など現在につながる多くの制度の土台を固めました。
伊藤博文は天皇の権威を保ちつつも近代的な立憲政治を取り入れるというバランスを目指し日本が急速に近代国家として成長していく基礎をつくったといえます。
伊藤博文の代表的な功績まとめ
大日本帝国憲法の起草と公布
伊藤博文の最大の功績の一つは近代国家の土台となる大日本帝国憲法の起草と公布に深く関わったことです。
伊藤博文はヨーロッパ諸国に渡り特にドイツやオーストリアの憲法を調査して日本に適した立憲君主制のあり方を研究しました。
帰国後は法制官僚らとともに草案作成を進め枢密院議長として最終的な審議を主導しました。
その結果大日本帝国憲法は1889年2月11日に発布され翌1890年11月29日に施行されました。
この憲法は天皇主権を前提としつつも帝国議会や臣民の権利規定を設けた点で日本の近代的な憲法体制の出発点となりました。
伊藤博文は自ら憲法の解説書もまとめてその理念や仕組みを広く示し後の立憲政治の方向性に大きな影響を与えました。
初代・第5代・第7代・第10代の総理大臣を歴任
伊藤博文は1885年に創設された内閣制度のもとで日本初の内閣総理大臣となりその後も合計4回にわたって内閣を組織しました。
第1次伊藤内閣では太政官制から内閣制への移行を進め各省庁を再編成して近代的な行政組織の枠組みを整えました。
第2次伊藤内閣の時期には日清戦争後の講和条約である下関条約の締結に関わり日本の国際的地位の変化に対応する外交を担いました。
第3次第4次内閣期には貴族院や政党勢力との調整を行い日本における政党政治のあり方を模索しました。
特に第4次伊藤内閣の前後には立憲政友会を結成し政党を基盤とする内閣運営の道を開いた点が重要だと評価されています。
このように伊藤博文は複数回にわたり政権を担うことで明治国家の政治運営のスタイルを形づくる役割を果たしました。
韓国統監としての役割と時代背景
伊藤博文は日露戦争後の1905年に結ばれた第二次日韓協約を受けて設置された韓国統監府の初代韓国統監に就任しました。
韓国統監府は大韓帝国の外交権を日本が掌握したのち韓国に対する日本の指導と監督を行う機関として位置づけられました。
伊藤博文は1906年から韓国に赴任し韓国政府への助言や行政改革を進める一方で日本の影響力を強める政策を推進しました。
その活動は鉄道やインフラ整備など近代化とされる側面を持ちながら同時に韓国の主権を制限し将来的な韓国併合へとつながる支配体制の基礎を築くことにもなりました。
こうした政策は当時の日本政府にとっては対外戦略の一環と位置づけられましたが韓国側からは主権侵害として強い反発を招きました。
伊藤博文は韓国統監としての存在ゆえに反日運動の標的ともなり1909年にハルビン駅で韓国の独立運動家安重根に暗殺される結果となりました。
伊藤博文が日本に与えた影響
政治制度への長期的な影響
伊藤博文が日本にもたらした最大の影響の一つは立憲君主制と議会制度を中心とした近代的な政治体制の基礎を築いたことです。
伊藤博文は大日本帝国憲法の制定を主導し天皇を国家の中心に据えつつも帝国議会や内閣制度を整えることで権力の働き方に一定のルールを与えました。
その結果日本では憲法と法律に基づいて政治を行うという考え方が根付き後の政党政治や議会政治の発展につながりました。
また伊藤博文は貴族院や華族制度の構想にも関わり政党勢力だけに偏らない二院制の枠組みをつくろうとしました。
これにより衆議院と貴族院の均衡をとりつつ政治を安定させることが目指され近代日本の統治構造の基本的な形が形づくられました。
こうした制度設計は戦前期を通じて日本の政治運営の枠組みとして機能し戦後の議会制民主主義にも一定の影響を残したと評価されています。
近代化政策における貢献点
伊藤博文は政治制度だけでなく日本の近代化全体にも大きな影響を与えました。
明治初期には岩倉使節団の副使として欧米各国を視察し近代的な産業や教育制度軍事制度などを直接見聞した経験をもとに日本の近代化政策に関わりました。
内務卿や各種要職を務めた時期には官僚制度の整備や地方制度の見直しを進め中央政府が全国を統一的に統治できる仕組みづくりに力を注ぎました。
また外交面では不平等条約の改正や列強との関係調整に取り組み国際社会の中で日本が近代国家として認められることをめざしました。
さらに韓国統監としての活動を含め東アジアにおける日本の影響力を高める政策にも関与し結果として帝国としての日本の姿を形づくる一因となりました。
これらの点から伊藤博文は制度面と外交面の両方で近代国家日本の方向性を決定づけた人物の一人だといえます。
伊藤博文についてよくある質問
なぜ暗殺されたのか?理由を簡単に解説
伊藤博文は1909年10月26日にロシアのハルビン駅で韓国の独立運動家である安重根に銃撃されて死亡しました。
当時伊藤博文は初代韓国統監や枢密院議長を務め大韓帝国に対する日本の支配を進めてきた中心人物とみなされていました。
日露戦争後日本は日韓協約を結び韓国の外交権や内政の多くを掌握しており韓国側では主権を奪われたという強い反発が高まっていました。
安重根は伊藤博文を韓国の独立を妨げ東アジアの平和を乱す存在だと考え自らの政治的信念から暗殺を実行したとされています。
日本側では伊藤博文は列強との協調を重んじ併合には慎重だったと評価される一方韓国では植民地支配を進めた象徴的な人物として厳しく批判されています。
このため伊藤博文暗殺は一人の政治家の死であると同時に日韓関係や植民地支配への評価の違いを象徴する出来事として現在まで議論され続けています。
伊藤博文が評価されるポイント・批判されるポイント
伊藤博文が評価される点としてまず挙げられるのは内閣制度の創設と大日本帝国憲法の制定を通じて日本の近代的な統治機構を整えたことです。
内閣総理大臣を頂点とする行政組織や帝国議会の制度づくりに深く関わり立憲君主制にもとづく政治運営の枠組みを形づくった点は日本国内で高く評価されています。
また岩倉使節団やヨーロッパ視察などで学んだ知見を生かし近代国家として列強に対抗できるよう外交や制度改革を進めたことも功績として語られます。
一方で批判される点としては韓国統監として日韓協約を進め韓国の主権を大きく制限しやがて韓国併合へとつながる道筋をつけたことが挙げられます。
韓国やアジア諸国からは日本の植民地支配を進めた中心人物の一人として見られその評価は非常に厳しいものとなっています。
さらに大日本帝国憲法は天皇大権を強く位置づけ国民の権利保障や議会の権限には限界があったため後の軍部の台頭を許す土台になったという批判もあります。
このように伊藤博文は日本の近代国家建設の立役者として高く評価される一方で植民地支配や戦前体制との関わりから厳しい批判も受ける存在でありその評価は立場や地域によって大きく異なっています。
伊藤博文の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1841年 | 天保12年 | 周防国熊毛郡束荷村(現・山口県光市)に林利助として生まれる。 |
| 1854年 | 嘉永7年 | 父・十蔵が伊藤家の養子となり姓を伊藤に改める。 |
| 1857年 | 安政4年 | 吉田松陰の松下村塾に入門し高杉晋作らとともに学ぶ。 |
| 1862年 | 文久2年 | 尊王攘夷運動の中で高杉晋作らと英国公使館焼き討ち事件に参加する。 |
| 1863年 | 文久3年 | 長州五傑の一人としてイギリスへ密航しロンドンで欧米の実情を視察する。 |
| 1864年 | 元治元年 | 帰国後に外国艦隊との講和に奔走し高杉晋作の功山寺挙兵に参加する。 |
| 1868年 | 明治元年 | 明治新政府で外国事務掛や兵庫県知事となり新政権の一員として働く。 |
| 1871年 | 明治4年 | 岩倉使節団の副使として欧米各国を歴訪し近代国家の制度や文化を視察する。 |
| 1873年 | 明治6年 | 参議兼工部卿となり殖産興業政策を推進して近代産業の基盤づくりに関わる。 |
| 1878年 | 明治11年 | 内務卿に就任し地方制度や警察制度の整備など国内行政の基礎づくりを進める。 |
| 1882年 | 明治15年 | 憲法制定調査のためヨーロッパに派遣されドイツやオーストリアの憲法を中心に研究する。 |
| 1885年 | 明治18年 | 太政官制を廃止して内閣制度を創設し日本初の内閣総理大臣(第1次伊藤内閣)に就任する。 |
| 1889年 | 明治22年 | 枢密院議長として審議を主導し大日本帝国憲法の公布にこぎつける。 |
| 1892年 | 明治25年 | 第2次伊藤内閣を組閣し帝国議会開設後の政党勢力と向き合いながら政権運営を行う。 |
| 1898年 | 明治31年 | 第3次伊藤内閣を組閣し政党との協調や対立の中で内閣を運営する。 |
| 1900年 | 明治33年 | 立憲政友会を結成し同党を基盤とする第4次伊藤内閣を発足させ政党内閣の先駆けとなる。 |
| 1905年 | 明治38年 | 初代韓国統監に就任し韓国統監府を通じて大韓帝国への日本の支配と干渉を強める。 |
| 1909年 | 明治42年 | ロシア帝国領ハルビン駅で韓国の独立運動家安重根に銃撃され死亡する。 |
伊藤博文は何をした人なのか?まとめ
伊藤博文は日本で初めて内閣総理大臣となり内閣制度と大日本帝国憲法の制定を通じて近代国家としての日本の政治の形をつくった人物です。
長州藩の下級武士の家に生まれ尊王攘夷運動や倒幕運動に関わりながらも若い頃の海外経験から開国と近代化の必要性を強く意識するようになりました。
明治維新後は新政府の中枢として内閣制度の創設憲法制定議会制度づくり官僚制度や地方制度の整備など国家の仕組みづくり全般に深く関わりました。
その結果日本は天皇を中心としながらも憲法と法律に基づいて政治を行う立憲君主制国家として国際社会に認められるようになりました。
一方で伊藤博文は韓国統監として日韓協約を進め韓国の主権を制限し最終的な韓国併合へとつながる道筋の一部を形づくった人物でもあります。
そのため日本では近代国家建設の立役者として高く評価される一方韓国やアジアでは植民地支配を進めた責任者として厳しく批判され評価は大きく分かれています。
伊藤博文という人物を理解するには日本の近代化を支えた制度づくりの功績と植民地支配に関わった側面という両方の面から歴史を見つめることが大切だといえます。
この記事を読むことで伊藤博文が「日本初の首相として何をした人なのか」を押さえたうえでその功績と問題点を自分なりに考えるきっかけとしていただければ幸いです。
- 伊藤博文 – Wikipedia
- 伊藤博文とは? – コトバンク
- 長州藩 – コトバンク
- 伊藤博文|近代日本人の肖像(国立国会図書館)
- 伊藤 博文(いとう ひろぶみ)|人物編|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典
- 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典(トップページ)
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- 明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(国立国会図書館サーチ)
- 帝国議会の貴族院(国立国会図書館 レファレンス)
- 大日本帝国憲法 – Wikipedia
- 大日本帝国憲法をつくる(国立公文書館)
- 大日本帝国憲法を発布する(国立公文書館)
- 1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日(国立公文書館)
- 大日本帝国憲法(御署名原本)|国立公文書館デジタルアーカイブ
- 伊藤博文の生涯年表を簡単に!功績を時系列で分かりやすく(REAL塾)
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- 第二次日韓協約 – Wikipedia
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- 伊藤博文暗殺事件 – Wikipedia
- 安重根 – Wikipedia
- 日朝関係史 – Wikipedia

