ペリーは何をした人?簡単にわかる黒船来航と日本への影響を解説

ペリーは何をした人?簡単にわかる黒船来航と日本への影響を解説 日本の歴史

ペリーは幕末の日本に黒船を率いて来航し、江戸幕府に開国を迫ったアメリカ海軍の軍人です。

この記事では、ペリーがどのような人物だったのか、なぜ日本へやって来たのかを、歴史があまり得意でない方にもわかりやすく説明します。

黒船来航の流れやその後の日本社会への影響までを順を追って整理し、「ペリーは何をした人なのか」を短時間で理解できることを目指します。

ペリーとはどんな人物だったのか

アメリカ海軍士官としての経歴

ペリーの正式な名前はマシュー・カルブレイス・ペリーといい、1794年4月10日にアメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートで生まれました。

父親は海軍士官で、ペリーもその影響を受けて若いころから海軍の道を進みました。

1809年におよそ15歳でアメリカ海軍に入隊し、1812年からの米英戦争などに参加しながら経験を積んでいきました。

その後は造船や海軍基地の運営にも関わり、1830年代には蒸気船フリゲート艦の建造を指導するなど、新しい技術を取り入れた海軍づくりの中心人物になりました。

蒸気船を活用した海軍力の強化や士官教育に尽力したことから、ペリーは「蒸気船海軍の父」と呼ばれるようになりました。

1840年代にはメキシコ湾で行われた米墨戦争に参加し、上陸作戦を指揮する司令官としても活躍しました。

このようにペリーは実戦経験と組織運営の両方に優れたベテラン将校であり、その実績が後に日本への遠征を任される大きな理由になりました。

日本へ派遣された背景と目的

19世紀の半ば、アメリカは太平洋を越えてアジア方面への貿易や進出を強めようとしていました。

当時のアメリカの捕鯨船や商船は太平洋を航海する際、日本近海を通ることが多く、途中で石炭や食料を補給できる港を必要としていました。

また航海の途中で遭難した船や乗組員を保護するための取り決めも求められていました。

一方で日本は江戸時代の鎖国政策によって、長崎など限られた場所以外では外国船との交渉をほとんど認めていませんでした。

アメリカ政府はこうした状況を変えるため、日本との間に友好関係を結び、日本の港を補給地や避難港として利用できるようにしたいと考えました。

当時のアメリカ合衆国大統領フィルモアは、日本との間で友好と通商、アメリカ船への石炭と食料の供給、難破船乗組員の保護などを求める国書を作成しました。

その国書を日本に届けて交渉を進める特使として選ばれたのが、経験豊富で指揮能力にも優れた海軍代将ペリーでした。

こうしてペリーはアメリカ東インド艦隊を率いる指揮官として任命され、黒船と呼ばれた蒸気船を中心とする艦隊を率いて日本へ向かうことになりました。

ペリーは日本で何をした人なのか(簡単に説明)

ペリーはアメリカの軍艦を率いて日本にやって来て、江戸幕府に対して鎖国をゆるめて港を開くように求めた人物です。

黒船と呼ばれた蒸気船の軍艦で浦賀に現れ、日本に開国を迫ることで、その後の日本の歴史を大きく動かしました。

黒船を率いて浦賀に来航した理由

ペリーが黒船を率いて浦賀に来航したのは1853年のことです。

当時アメリカは太平洋で捕鯨や貿易を盛んに行っており、日本の近くを多くの船が航行していました。

長い航海を安全に続けるためには、途中で石炭や食料、水を補給できる港が必要でした。

さらに遭難した船や乗組員を助けるための取り決めも求められていました。

しかし江戸時代の日本は鎖国政策を続けており、限られた場所以外では外国船を受け入れていませんでした。

そこでアメリカ政府は日本に港を開かせ、補給地や避難港として利用できるようにすることを目標にしました。

この目的を果たすための特使として選ばれたのがペリーであり、彼は蒸気船を含む軍艦を率いて浦賀に姿を現しました。

日本に開国を求めた交渉のポイント

浦賀に来航したペリーは、日本の開国を求めるアメリカ大統領フィルモアの国書を江戸幕府に渡しました。

国書では、日本の港をアメリカ船の石炭や食料の補給地として利用することや、遭難した船員の保護などを求めていました。

ペリーは当初から長崎ではなく江戸に近い浦賀での交渉にこだわり、日本側に強い印象を与えようとしました。

蒸気船を含む軍艦を湾内に並べ、大砲を備えた黒船の姿を見せることで、アメリカの軍事力と技術力を誇示しました。

一方で、ペリーは日本と友好的な関係を結びたいという姿勢も示し、条約によって互いに利益を得られることを強調しました。

幕府はすぐに決断できず、返事は翌年にすると伝えたため、ペリーはいったん日本を離れ、のちに再び来航して条約締結の交渉を進めることになりました。

ペリー来航が当時の日本にもたらした驚き

黒船来航の知らせは、江戸幕府や庶民に大きな衝撃を与えました。

蒸気の力で動く大型の軍艦が煙をあげて進む様子は、それまでの日本人にとって見たこともない光景でした。

日本側の船や大砲では太刀打ちできないほどの軍事力を目の当たりにし、多くの人が外国の力を実感しました。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が生まれたことからも、人々の不安と動揺の大きさがうかがえます。

江戸幕府の内部でも、これからの対外政策をどうするべきかをめぐって意見が分かれ、開国か攘夷かをめぐる議論が一気に広がりました。

ペリー来航は、長く続いた鎖国体制が揺らぎ始めるきっかけとなり、日本が世界との関わりを本格的に考えざるをえない出来事だったといえます。

黒船来航の流れをわかりやすく解説

最初の来航(1853年)で起きたこと

ペリーが最初に日本へ来航したのは1853年のことです。

1853年7月にアメリカ東インド艦隊司令長官だったペリーは4隻の軍艦を率いて江戸湾入り口の浦賀沖に姿を現しました。

黒く塗られた蒸気船を含む軍艦は、日本の人々から「黒船」と呼ばれました。

江戸幕府は長崎での応対を求めましたが、ペリーは江戸に近い場所での交渉にこだわりました。

その結果、浦賀に近い久里浜に上陸することが認められました。

久里浜では、ペリーがアメリカ大統領フィルモアの国書を幕府側の代表に手渡しました。

国書では、日本に港を開かせ、アメリカ船への補給や難破船員の保護などを求めていました。

しかし幕府は重要な決定を急いですることができず、すぐにはペリーの要求に答えられませんでした。

幕府は、返答は翌年に行うので再来航するようにと伝えました。

ペリーは交渉の続きは次の来航に持ち越すことにし、浦賀沖から一度日本を離れました。

再来航(1854年)で日米和親条約が結ばれるまで

ペリーは約束どおり1854年に再び日本へやって来ました。

1854年2月、前回よりも多い艦隊を率いて再来航したペリーは、再び江戸湾に入りました。

黒船の数が増えたことで、幕府側の緊張と不安はさらに高まりました。

幕府はこれ以上の軍事的な緊張を避けるため、正式な交渉の場を設けることを決めました。

交渉の場所には、当時神奈川の一部であった横浜村が選ばれました。

横浜では、日本側とアメリカ側の代表が向かい合い、条約の内容について話し合いを続けました。

交渉の結果、1854年3月に日米和親条約が結ばれました。

この条約は「神奈川条約」とも呼ばれます。

条約によって、日本は下田と箱館の2つの港をアメリカ船に開くことを約束しました。

さらに、アメリカ船への燃料や食料の供給、遭難した船員の保護なども取り決められました。

また、後にアメリカ領事が日本に駐在することも認められました。

この条約はすぐに自由な貿易を始める通商条約ではありませんでしたが、日本が鎖国政策を見直し、外国に対して門戸を開く大きな転機となりました。

ペリー来航が日本に与えた影響

日本の開国と国際関係の変化

ペリーの来航によって日本は長く続けてきた鎖国政策を見直さざるをえなくなりました。

1854年に結ばれた日米和親条約によって日本は下田と箱館の港をアメリカ船に開き補給や寄港を認めることになりました。

その後日本はイギリスロシアオランダなどとも同じような和親条約を結び欧米列強との外交関係を次々と開いていきました。

さらに1858年の日米修好通商条約によって日本は本格的な貿易を始める一方で関税自主権を失い領事裁判権など不平等な条件を受け入れることになりました。

この通商条約をきっかけに生糸や茶などが大量に輸出される一方で安価な綿織物などが輸入され国内の物価高騰や産業への打撃も生まれました。

ペリー来航は日本が世界経済と外交の枠組みに組み込まれていく出発点となり国際関係のあり方を大きく変えた出来事だったといえます。

その後の幕末の動きへの影響

黒船来航は一般に幕末の始まりとされ江戸幕府の権威を大きく揺るがしました。

開国か攘夷かをめぐって幕府の中でも諸藩の中でも意見が分かれ政治的な対立が一気に表面化しました。

外国の圧力に十分対抗できない幕府への不信感が広がり朝廷を尊び外国を打ち払おうとする尊王攘夷の考え方が全国に広まっていきました。

長州藩や薩摩藩などでは外国勢力に対抗できる軍事力と財政力を身につけようと藩の改革と洋式軍備の導入が進められました。

こうした動きの中で幕府に代わって新しい政治体制をつくろうとする志士たちが登場し討幕運動が活発になりました。

最終的にこれらの流れは1868年の明治維新へとつながり徳川幕府の終わりと天皇中心の新政府の成立という大きな政治変革を生み出しました。

技術・文化・軍事への刺激と変化

黒船が見せた蒸気で動く大きな軍艦と強力な大砲は日本人に西洋の軍事技術の高さを強く印象づけました。

その結果日本では幕府や各藩が西洋式の軍艦や大砲小銃を導入し自らも蒸気船や洋式船の建造に取り組むようになりました。

ペリーは再来航の際に蒸気機関車の模型や電信機武器などを贈り実際に走行や実演を行って日本側に最新技術を体験させました。

この体験は鉄道や電信といった近代的なインフラを日本が短期間で受け入れる土台となり後の近代化を後押ししました。

またペリー艦隊には軍楽隊が同行しており浦賀上陸の際に洋楽を演奏したことで多くの日本人が初めて本格的な西洋音楽に触れたとされています。

黒船来航をきっかけに日本には洋服鉄砲軍楽隊など西洋風の文化や軍事スタイルが徐々に広まり幕末から明治にかけての文明開化へとつながっていきました。

ペリーの年表

西暦和暦主な出来事
1853年嘉永6年ペリーが黒船4隻を率いて浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国と条約交渉開始を要求した出来事である。
1854年嘉永7年ペリーが再来航し、神奈川での交渉を経て日米和親条約が締結され、日本が下田と箱館を開港することを約した年である。
1857年安政4年日米追加条約(下田協約)が締結され、下田と箱館におけるアメリカ人の居住や領事裁判権などが具体的に定められた年である。
1858年安政5年日米修好通商条約が調印され、本格的な通商開始と複数港の開港が決まり、同年中にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも安政五カ国条約が結ばれた年である。
1860年万延元年日米修好通商条約の批准書交換のため万延元年遣米使節が派遣され、日本人代表団が公式にアメリカ合衆国を訪問した年である。
1868年慶応4年/明治元年戊辰戦争と王政復古を経て明治新政府が成立し、江戸幕府体制が終焉して日本が近代国家としての歩みを本格的に進め始めた年である。

まとめ|ペリーが「何をした人」かを簡単に振り返る

ペリーはアメリカ海軍の司令官として黒船を率いて日本に来航し江戸幕府に開国と条約締結を求めた人物です。

1853年の浦賀来航では大統領の国書を手渡し翌年に返答するよう迫り1854年の再来航で日米和親条約が結ばれ日本は下田と箱館の港を開くことになりました。

この条約をきっかけに日本はアメリカだけでなくイギリスロシアオランダなどとも次々に条約を結び長く続いた鎖国政策は大きく方向転換していきました。

一方でペリー来航は幕府の弱さを露わにし開国か攘夷かをめぐる対立を激しくさせ最終的には幕府の権威低下と明治維新につながる政治の大きなうねりを生み出しました。

黒船が見せた蒸気船や大砲電信機などの技術は日本に強い衝撃を与え西洋式の軍事技術や科学技術鉄道や電信といった近代的な仕組みを取り入れる動きを加速させました。

つまりペリーは日本に開国を迫り国際社会とのつながりを開くきっかけをつくると同時に幕末の政治変動や近代化の流れを早めた人物だとまとめることができます。

ペリーが何をしたのかを整理すると黒船で来航して日本に開国を求めたこと日米和親条約で港を開かせたことそしてその出来事が日本の外交政治社会や技術のあり方を大きく変えたことがポイントだといえます。

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