榎本武揚は何をした人?簡単にわかる生涯と功績をやさしく解説

榎本武揚は何をした人?簡単にわかる生涯と功績をやさしく解説 日本の歴史

榎本武揚は、幕末から明治にかけて日本の転換期を生きた武士であり、海軍軍人・政治家・外交官として活躍した人物です。

江戸幕府の海軍を支え、戊辰戦争では旧幕府軍の中心として箱館戦争を指揮し、その後は明治政府に迎えられて外務大臣などを務め、日本の近代化と外交に大きな影響を与えました。

この記事では、榎本武揚が「何をした人なのか」を、生涯の流れとともにやさしく整理し、テストや教養としても覚えやすい形で解説していきます。

榎本武揚とはどんな人物?

生年月日・出身地・性格など基礎情報

榎本武揚は1836年10月5日に江戸幕府の武蔵国江戸下谷御徒町で生まれた人物です。

父は幕臣の榎本武規で榎本家の次男として育ち幼名は釜次郎といいました。

12歳で江戸の昌平黌に入り漢学などの教養を学びその後は長崎海軍伝習所で本格的に西洋式の海軍技術を身につけました。

やがてオランダへ留学して自然科学や法律国際法などを幅広く学び幕末日本でも有数の「海軍と国際法のエキスパート」として知られるようになります。

性格は正直で義理堅く情に厚い典型的な江戸っ子気質だったと伝えられています。

友人からは「友達としては最高だが仕事仲間としては少し扱いづらい人」と評されるほど人情に厚く面倒見のよい一面を持っていたとされています。

一方で新しい知識や技術を積極的に受け入れる柔軟さと冷静な判断力を備えた実務家タイプでもありました。

そのため武士でありながら洋装でシャンパンを飲むような近代的なスタイルも似合う知的で都会的な人物像として語られています。

幕末〜明治に活躍した背景

榎本武揚が活躍した幕末の日本はペリー来航以降列強の圧力にさらされ国を守るために近代的な海軍力を急いで整える必要がある時代でした。

幕府はオランダなどから蒸気船を購入し長崎海軍伝習所や海外留学を通じて海軍軍人を育てようとしており榎本はその最前線で学んだエリート士官でした。

その知識と経験を買われてやがて幕府海軍の中枢に抜擢され戊辰戦争では旧幕府側の切り札として期待される存在になります。

しかし徳川幕府は倒れ榎本は旧幕府軍を率いて箱館戦争で最後の抵抗を試みたものの敗北し投獄されることになりました。

その後語学力や国際法の知識技術への理解が新しい日本にも必要だと判断され明治政府は榎本を赦免して登用し外務大臣や農商務大臣などの要職を任せていきます。

西洋列強に対抗するため近代国家づくりを急ぐ日本にとって軍事技術と外交感覚の両方を持つ榎本は時代が求めた人材だったといえます。

榎本武揚は何をした人?主要な功績を簡単に解説

① 「開陽丸」でオランダ留学し最新技術を学んだ

榎本武揚は1862年ごろから幕府の留学生としてオランダに渡り海軍技術や造船学航海術国際法などを学びました。

このとき榎本は最新鋭軍艦である開陽丸の建造監督も兼ねており完成した開陽丸に乗って1867年に日本へ帰国しました。

開陽丸は当時の世界水準に匹敵する大型軍艦で榎本はその運用や技術を現場で身につけたことで日本でも一流の海軍専門家として評価されるようになりました。

西洋の海軍技術と国際法を直接学んだ経験は後の幕府海軍での活躍や明治政府での外交交渉にも大きく生かされました。

② 江戸幕府の海軍創設に深く関わった

榎本武揚は長崎海軍伝習所以来の海軍エリートとして江戸幕府の近代海軍づくりに中心メンバーとして関わりました。

帰国後は軍艦乗組頭取や海軍奉行などの役職に就き蒸気船の運用や海軍士官の育成海軍制度づくりに携わりました。

当時の日本は欧米列強から国を守るため海からの防備が急務となっており幕府はオランダ式海軍を手本に艦隊整備と人材育成を進めていました。

その中で榎本は最新型軍艦の運用だけでなく海軍組織の運営や教育にも携わり後の日本海軍へとつながる基礎づくりに大きな役割を果たしました。

③ 旧幕府軍のリーダーとして箱館戦争を指揮

1868年に戊辰戦争が始まると榎本武揚は幕府海軍副総裁として旧幕府側を支える立場に立ちました。

江戸城が明け渡されたあとも榎本は軍艦の引き渡しを拒み開陽丸などの艦隊を率いて北へ脱出し最終的に北海道の箱館に拠点を築きました。

箱館では五稜郭を中心とする拠点を押さえ仲間たちとともに蝦夷共和国と呼ばれる政権をつくり新政府軍に最後まで抵抗しました。

しかし1869年の箱館戦争で新政府軍に敗れ榎本は降伏して投獄され旧幕府軍の武力抵抗はここで終わりを迎えました。

この一連の戦いで榎本は優れた海軍指揮官としての能力と責任感を示し幕末の最後を飾る人物として歴史に名を残しました。

④ 明治政府に参加し外務大臣などを歴任

投獄された榎本武揚はその後特赦を受け明治政府に登用されました。

まず北海道開拓使として北海道の開拓行政に関わりその後はロシアへの特命全権公使として派遣され1875年の樺太千島交換条約の締結に関わりました。

帰国後も海軍卿逓信大臣農商務大臣文部大臣外務大臣など重要な役職を歴任し日本の海軍発展産業振興教育外交など幅広い分野で政策を担いました。

旧幕臣でありながら新政府の中枢で活躍した榎本は時代の変化を受け入れ自分の知識と経験を日本の近代化に生かした代表的な人物の一人といえます。

なぜ榎本武揚は評価されるのか?

日本の海軍発展に大きく貢献した点

榎本武揚が高く評価される理由の一つは日本の近代的な海軍づくりに深く関わったことです。

長崎海軍伝習所でオランダ人教官から直接指導を受けたうえでオランダに留学し造船学や航海術国際法などを学んだことで幕府内でも最先端の海軍エリートとして認められました。

開陽丸の建造監督と運用に携わった経験は日本が西洋列強に遅れずに蒸気軍艦を導入するうえで重要な意味を持ちました。

帰国後は幕府海軍副総裁などの要職に就き海軍組織の整備や人材育成を行いその蓄積は後の日本海軍の基盤の一部となりました。

戊辰戦争や箱館戦争では海軍力を生かした作戦を指揮し日本が海軍力を重視するべきだという意識を政治家や国民に印象づけた人物でもありました。

旧幕臣から明治政府要人へ転身した稀有な人物像

榎本武揚は戊辰戦争で旧幕府側の指導者として新政府軍と戦ったにもかかわらず明治維新後に政府の要職へ迎えられた点でも特別な存在です。

箱館戦争後に投獄されたものの語学力や国際法の知識近代的な海軍経験が新しい日本にとって必要だと判断され赦免されて政界に復帰しました。

その後榎本は開拓使の官僚として北海道開拓に従事しのちに逓信大臣農商務大臣文部大臣外務大臣などを歴任して明治政府の中枢で重要な役割を果たしました。

元「賊軍」の将が新政府の指導者として活躍した例は少なく時代の変化に合わせて自分の能力を生かした柔軟さと現実感覚が高く評価されています。

旧幕臣でありながら新しい国家づくりに貢献した姿は単なる勝者や敗者という枠をこえた近代日本の人材活用の象徴ともいわれます。

外交・開拓分野でも功績を残した理由

榎本武揚は海軍軍人としてだけでなく外交官や開拓行政の担当者としても重要な成果を挙げました。

特に1875年に結ばれた樺太千島交換条約では特命全権大使としてロシアのサンクトペテルブルクに赴き交渉の中心的役割を担いました。

この条約は日本が樺太の権利を放棄するかわりに千島列島全域の主権を得る内容であり北方の国境線を明確にするうえで大きな意味を持ちました。

また北海道開拓使としては北海道の開発や移民政策に関わり旧幕臣や士族の受け皿づくりにも貢献しました。

海軍技術国際法語学力に加え現場の開拓行政や外交交渉までこなした多才さが榎本武揚の評価をさらに高める要因になっています。

榎本武揚の生涯をわかりやすく年表でまとめ

幕末期(青年時代〜留学)

できごとポイント
1836年江戸の下谷御徒町に生まれる。幕臣の家に生まれた武士として育ちます。
1851年昌平坂学問所に入学する。武士としての教養である漢学を本格的に学び始めます。
1855年長崎海軍伝習所の聴講生となる。オランダ人教官から西洋式海軍技術を学ぶきっかけになります。
1857年長崎海軍伝習所第2期生として本格的に入学する。機関学や化学など最新の理系知識を身につけます。
1858年海軍伝習所を修了し築地軍艦操練所の教授となる。若くして海軍教育に携わる立場になり実務家として頭角を現します。
1862年開陽丸発注とともにオランダ留学のため日本を出発する。蒸気軍艦建造と留学を兼ねた長期の海外研修に向かいます。
1863年オランダのロッテルダムに到着する。ハーグで下宿し海軍技術や国際法など専門的な学びを深めます。
1866年〜1867年開陽丸の竣工に立ち会い1867年に開陽丸で横浜へ帰国する。最新鋭軍艦とともに帰国し日本有数の海軍エキスパートとなります。

榎本武揚の青年時代は江戸での学問と長崎海軍伝習所での実地教育を通じて西洋の知識を吸収していく時期でした。

とくにオランダ留学では軍艦建造の現場を見学しながら航海術や砲術国際法などを体系的に学んだことで後の海軍指導者外交官としての基礎が固まります。

この時期に培われた語学力と理系の素養が幕末日本の中でも際立った「理系エリート武士」としての榎本の特徴につながっていきます。

戊辰戦争・箱館戦争の時代

できごとポイント
1867年帰国後開陽丸艦長となり幕府艦隊の中心人物となる。最新鋭軍艦を任され幕府海軍を引っ張る立場になります。
1868年初め阿波沖海戦で新政府側の艦隊と交戦し勝利する。海戦での指揮能力を示し海軍指揮官として評価されます。
1868年春〜夏江戸開城後も艦隊の引き渡しを拒み旧幕府艦隊を掌握する。徹底抗戦を主張し艦隊を率いて北へ向かう決断をします。
1868年秋奥羽越列藩同盟を支援したのち蝦夷地へ向かう。東北諸藩を支援しつつ最終的な拠点を蝦夷地に求めます。
1868年末〜1869年蝦夷地に上陸し五稜郭を中心に蝦夷共和国を樹立する。近代的な共和政を掲げた政権をつくり自ら総裁となります。
1869年箱館戦争で新政府軍と戦うが敗れて降伏し投獄される。戊辰戦争の最後の戦いを指揮したのちおよそ2年半の投獄生活に入ります。

戊辰戦争から箱館戦争の時代は榎本武揚が旧幕府側の海軍指導者として最前線に立った激動の時期でした。

開陽丸を中心とする旧幕府艦隊を率い東北諸藩を支援しながら蝦夷地に渡った榎本は五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立し新政府に最後まで抵抗します。

最終的には箱館戦争で敗北して降伏し投獄されますがこの経験がのちに明治政府側からも「責任感の強い人物」として一目置かれる背景にもなりました。

明治政府での政治家としての活躍

できごとポイント
1872年特赦により出獄し開拓使四等出仕として北海道調査に従事する。敵方であった榎本の能力が評価され明治政府に登用されます。
1874年駐露特命全権公使に任命されロシアとの交渉にあたる。語学力と国際法の知識を生かし本格的な外交の最前線に立ちます。
1875年樺太千島交換条約を締結する。北方の国境画定に大きく関わり日本の領土問題に重要な成果を残します。
1880年海軍卿に就任する。海軍行政のトップとして海上法規などの整備を進めます。
1885年内閣制度発足とともに初代逓信大臣となる。通信や郵便鉄道航路などインフラ整備に関わり近代国家づくりを支えます。
1889年文部大臣に就任する。教育行政にも関わり学校制度や教育政策に影響を与えます。
1891年〜1892年外務大臣として条約改正など外交問題に取り組む。不平等条約の是正を視野に入れた外交を担います。
1894年〜1897年農商務大臣として産業や農業政策に携わる。通信教育外交に続き産業分野でも政策を担当することになります。
1908年東京で死去する。幕末から明治の長い転換期を生き抜いた生涯を閉じます。

明治期の榎本武揚は旧幕臣という立場をこえ北海道開拓外交海軍行政通信行政教育産業政策など幅広い分野で活躍しました。

とくに樺太千島交換条約の締結や初代逓信大臣としての仕事は国境問題や近代国家のインフラ整備に直接つながる重要な業績です。

敗れた側の将軍でありながら能力を買われて明治政府の要職を歴任した点に榎本武揚という人物の柔軟さとスケールの大きさがよく表れています。

まとめ|榎本武揚はさまざまな時代で活躍した多才な人物

歴史に残った理由のおさらい

榎本武揚が歴史に名を残した大きな理由は幕末から明治にかけて日本の転換期に海軍軍人政治家外交官として多方面で活躍したからです。

幕末には長崎海軍伝習所やオランダ留学で学んだ最新の海軍技術と国際法の知識を生かして幕府海軍の中心的人物となり開陽丸をはじめとする艦隊の運用に関わりました。

戊辰戦争から箱館戦争にかけては旧幕府軍を率いて五稜郭を拠点とする蝦夷共和国を樹立し最後まで新政府軍に抵抗したことで責任感の強い指導者としての姿が語り継がれています。

明治期には赦免されて北海道開拓やロシアとの交渉樺太千島交換条約の締結海軍卿逓信大臣文部大臣外務大臣農商務大臣などを歴任し新しい日本の国づくりに大きく貢献しました。

敗れた旧幕臣でありながら能力を買われて明治政府の要職を次々と任された稀有な経歴こそが榎本武揚という人物を特別な存在にしているポイントです。

初心者でも覚えておきたいポイント

榎本武揚を一言で表すなら「幕末には幕府海軍の中心人物として戦い明治には政府の要人として国づくりに参加した多才な武士」です。

覚えておきたいポイントは西洋の海軍技術と国際法を学ぶためにオランダへ留学し開陽丸の建造と運用に関わったこと箱館戦争で旧幕府軍のリーダーとして五稜郭を拠点に戦ったこと樺太千島交換条約などを通じて外交や開拓にも貢献したことです。

また敵味方が入れ替わる激動の時代にあって立場を超えて能力で評価され幕臣から明治政府の大臣へと転身した点も忘れずに押さえておきたい特徴です。

試験や勉強では「開陽丸」「箱館戦争と蝦夷共和国」「樺太千島交換条約」「外務大臣など明治政府での活躍」という四つのキーワードをセットで思い出せるようにしておくと榎本武揚がどんな人物かを簡単に説明できるようになります。

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