後白河天皇とは?何をした人なのかを簡単に解説!【超わかりやすく】

後白河天皇とは?何をした人なのかを簡単に解説!【超わかりやすく】 日本の歴史

後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、平安時代の終わりに活躍した天皇であり、日本史の大きな転換点である「院政時代」を象徴する人物です。

平清盛との激しい政治対立や、文化的な功績で知られ、後の鎌倉時代の成立にもつながる重要な存在でした。

この記事では、後白河天皇が「何をした人なのか」を、政治・文化・時代背景の3つの視点からわかりやすく解説します。

後白河天皇とはどんな人?

生まれと時代背景(平安時代末期)

後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年〜1192年)は、平安時代末期にあたる動乱の世に生まれた第77代天皇です。

父は鳥羽天皇、幼名(諱)は雅仁(まさひと)親王で、兄の近衛天皇の急逝を受けて1155年に即位しました。

平安末は、摂関家の力が相対的に弱まり、上皇が院政で実権を握る一方、源氏・平氏に代表される武士勢力が政治の表舞台へ進出していく過程にありました。

後白河天皇は、まさにこの権力構造の転換期に生き、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)に連なる政治・軍事的緊張のただ中で、王権の再建を模索した人物として位置づけられます。

項目内容
生没年1127年〜1192年
在位1155年〜1158年(第77代)
鳥羽天皇
諱(いみな)雅仁(まさひと)
時代背景摂関政治の後退と院政の進展、武士勢力の台頭(源氏・平氏)

どんな立場の天皇だったのか

後白河天皇は在位わずか3年で二条天皇に譲位しますが、その後は上皇・法皇として三十数年にわたり院政を主導しました。

譲位後の1169年に出家して法皇となり、院庁を拠点に人事・財政・寺社政策に影響力を行使し、王権の回復と維持に努めました。

ときに平清盛ら平氏政権と協調し、ときに対立しながら、朝廷内外の有力者を巧みに組み合わせる政略で均衡を図った点が特徴です。

結果として、平安から鎌倉へと移る大転換期において、天皇家の権威をつなぎとめ、後の政治秩序の形成にも間接的に関わった存在だと評価されます。

後白河天皇が「何をした人」なのかを簡単に解説

平清盛との関係と政治の対立

後白河天皇は、譲位後に上皇・法皇として院政を主導しつつ、平清盛と緊張と協調を交錯させる関係を築きました。

保元・平治の争乱後、平氏が台頭すると、院政の実権をめぐって両者は徐々に対立を深めます。

1177年の鹿ケ谷の陰謀では、平氏打倒の動きが露見して関係が悪化し、1179年には清盛が強硬手段に出て院政の中枢を制圧し、後白河法皇を幽閉する「治承三年の政変」が起こりました。

清盛の死後も情勢は不安定で、1180年以降の源平合戦では、後白河法皇は源頼朝・義仲ら源氏勢と連絡を取りつつ平氏追討を進め、最終的に壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏は滅亡に至ります。

こうした経緯から、後白河法皇は平氏を牽制しつつ源氏を巧みに起用し、情勢に応じて権力の均衡を図った政治家として位置づけられます。

院政を通じて行った政治の特徴

後白河院の政治は、譲位後もなお上皇が実権を握る「院政」に典型が見られます。

院庁という独自の政治拠点を通じて人事・財政・寺社関係に影響を及ぼし、天皇家の権威の維持を図りました。

平氏が専横化すると、法皇は宣旨や院宣を駆使して源氏の動員や権限承認を進め、1183年には東国の統治権を頼朝に事実上認める動きが現れます。

結果として、武家権力を政治の相 partner として制度化する流れが強まり、鎌倉幕府の成立へとつながる枠組みが整いました。

すなわち、院政は旧来貴族勢力と新興武士勢力の間で権限配分を調整する機能を持ち、後白河院はその舵取りを担ったのです。

文化面での功績(『梁塵秘抄』など)

後白河法皇は、当時の流行歌である今様(いまよう)に深く傾倒し、その詞章と歌唱伝承を収めた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編んだことで知られます。

これは歌詞集(歌詞集)と秘伝・唱法を伝える口伝集からなる大部の撰集で、貴族文化の枠にとどまらない民衆的・宗教的世界を映し出す貴重な史料です。

また、京都の蓮華王院(三十三間堂、1164年創建)は後白河院の帰依と祈願を背景に整備が進み、千体千手観音像で知られる信仰空間として後世に伝わりました。

政治のただ中にありながら、法皇は音曲と信仰芸能の保護・記録に務め、院政期の文化的多様性を後世に残したのです。

後白河天皇の生涯をざっくりまとめる

保元の乱・平治の乱に関わった背景

1156年(保元元年)に起きた 保元の乱 は、崇徳上皇 と 後白河天皇 の皇位継承および摂関家内の権力争いが発端でした。

武士である 平清盛・源義朝 らが参戦し、後白河天皇側が勝利を収めたことで武士の政治介入が明確になりました。

そのわずか3年後、1159年(平治元年)には 平治の乱 が起こります。

これは院政下で後白河上皇(後白河天皇)の近臣の対立が契機となり、平氏と源氏が本格的に衝突を起こした事件で、平清盛が勝利を収めて武士政権の基盤が一層強まる転換点となりました。

院政と平氏の台頭の関係

譲位後、後白河天皇は法皇として院政を行い、内裏を離れても実質的な政治権力を維持しました。こうした態勢と並行して、平氏政権が台頭していきます。

特に平治の乱以降、平氏が中央政界で影響力を拡大し、1167年には平清盛が太政大臣となりました。

このように、後白河法皇の院政と武士勢力の興隆が同時進行していった時代に、院政機構と武家政権という二つの柱が交錯する構図が生まれ、結果的に鎌倉幕府へとつながる政治構造へ移行していきました。

晩年とその後の影響

晩年の後白河法皇は、法皇として寺社・文化政策にも力を入れつつ、1185年の壇ノ浦の戦いにより 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、武家による政権(鎌倉幕府)の成立を間近に見届ける立場となりました。

そして1192年、源頼朝が征夷大将軍に任じられたことで実質的な武家政権が確立され、後白河院政期に形成された制度的・人脈的枠組みが、新たな時代の礎となりました。

後白河天皇の功績と日本史への影響

政治的な影響:院政と武士の台頭

後白河天皇は在位を早くに終えた後も上皇・法皇として院政を主導し、朝廷と新興武士勢力との力関係を調整しました。

平氏の台頭と源平合戦の進展の中で、法皇は宣旨や院宣を通じて武士勢力の動員と統治の枠組みづくりに関与し、最終的には源頼朝による武家政権の制度化に道を開く結果となりました。

とりわけ1185年の「文治の勅許」によって、諸国への守護・地頭の設置と任免が公的に認められ、武家による軍事・警察機能が全国的に整備されます。

この勅許は、院政下の朝廷が武家権力を正式な統治パートナーとして承認した転換点であり、以後の日本政治における二元的な権力構造の出発点として評価されています。

また、1183年の「寿永二年十月宣旨」をめぐっては、東国支配の承認範囲や史料解釈に学術的な議論があり、法皇期の政治判断が複雑な駆け引きの中で形成されたことが示されています。

文化的な影響:今様・和歌文化の発展

後白河法皇は今様に深く傾倒し、『梁塵秘抄』を編んで当時の歌詞や伝承を記録しました。

貴族社会のみならず民衆宗教や芸能の世界に広がる多様な歌を収めたこの撰集は、平安末から中世初頭の音楽文化を知る上で第一級の史料とされています。

さらに、法皇の離宮内に創建された蓮華王院(三十三間堂)は信仰と芸能の場として整備が進み、中世京都の宗教文化の象徴となりました。

政治の緊迫する時代にあっても、法皇は音曲・祈り・造寺といった文化事業を継続し、院政期の文化的厚みを後世へ伝えた点に大きな意義があります。

後白河天皇の年表

西暦/和暦出来事
1127年(大治2年9月11日)誕生。父は 鳥羽天皇、母は藤原璋子。
1155年(久寿2年7月24日)第77代天皇として践祚。
1156年(保元元年)保元の乱勃発。後白河天皇側が勝利し、武士の関与が歴史的に明確に。
1158年(保元3年8月11日)天皇を譲位して 二条天皇 即位、上皇として院政を開始。
1159年(平治元年)平治の乱。平氏が勝利し、武士政権の流れを強める。
1177年(治承元年)鹿ケ谷の陰謀。平氏との対立が明らかに。
1179年(治承3年)治承三年の政変。平清盛が院政を制圧、後白河上皇が幽閉される。
1185年(文治元年)壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。武家政権の基盤が確立。
1192年(建久3年3月13日)没。後世、武家政権(鎌倉幕府)成立の道筋が整った。

※この年表は主要な節目を中心に整理しています。詳細な出来事や細部の年次には諸説があります。

まとめ|後白河天皇はどんな功績を残した人?

「権力のバランスを保った天皇」としての評価

後白河天皇は、平安時代末期という混乱の時代にあって、貴族・武士・寺社の三者が交錯する政治構造の中で、巧みに権力の均衡を保とうとした天皇でした。

平清盛との対立をはじめ、源平両氏の台頭や政変を経ながらも、彼は「院政」という仕組みを通じて朝廷の威信を維持し、天皇家が完全に政治の表舞台から退くことを防ぎました。

政治的には権謀術数の多い人物とも評されますが、その柔軟な対応力があったからこそ、王権の連続性が保たれ、のちの鎌倉幕府との共存体制の基礎が築かれたといえます。

歴史学的に見た後白河天皇の重要性

歴史学的に見ると、後白河天皇の時代は「貴族の時代から武士の時代への橋渡し期」と位置づけられます。

彼の治世と院政によって、武士が朝廷と公式に関わる仕組みが整い、中央集権的な公家政治から、武家主導の封建体制へと変化する過程が明確に現れました。

また、文化面では『梁塵秘抄』を通じて民衆の芸能文化を取り入れ、貴族文化と庶民文化の融合を促した功績も見逃せません。

政治・文化の両面において、後白河天皇は日本史の転換期を象徴する存在であり、「最後の平安天皇」でありながら「最初の中世的権力者」とも呼ばれるにふさわしい人物です。

現代の視点から見ると、後白河天皇は「激動の時代を生き抜いた調整者」であり、対立する勢力を巧みに操りながら、国家の安定を保つために奔走した稀有なリーダーでした。

彼の政治手腕や文化的感性は、単なる王としての役割を超え、日本史全体の中でも特筆されるべき意義を持っています。

この記事を通して、後白河天皇がどのような人物であったのかを理解できたなら、ぜひ『平家物語』や『梁塵秘抄』など当時の史料にも触れてみてください。

文字の向こうに、彼が生きた「動く時代」の息づかいを感じることができるはずです。

出典:天皇系図 – 宮内庁Wikipediaコトバンク

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