中国から日本へ仏教の「戒律」を伝えた高僧・鑑真(がんじん)。 奈良時代、日本の仏教がまだ発展途上だった頃、彼は多くの困難を乗り越えて日本へ渡り、宗教制度の確立に大きく貢献しました。
本記事では、「鑑真とはどんな人か?」「何をしたのか?」を、学生や歴史初心者にもわかりやすく解説します。
彼の行動と信念が、どのように日本の仏教と文化を支えたのかを見ていきましょう。
鑑真とはどんな人?
中国で活躍した高僧・鑑真のプロフィール
鑑真(がんじん、漢名・鑒真)は唐代の名僧で、688年に揚州で生まれ、763年に奈良・唐招提寺で没した人物です。
若くして出家し、長安や洛陽で戒律と教理を深く学んだのち、故郷・揚州の大明寺(大雲寺)を拠点に戒律の実践と布教で高い評価を得ました。
唐では江南第一の大師と称され、律宗の正統を伝える存在として尊敬を集めました。
日本へ渡来したのは天平勝宝5年(753年)で、長旅の苦難によって視力を失いながらも翌年には東大寺で授戒を主宰し、天皇や高僧に正式な戒を授けています。
のちに天平宝字3年(759年)、朝廷から与えられた地に唐招提寺をひらき、日本の律宗の根拠地となりました。
なぜ日本へ渡ろうとしたのか?その理由を簡単に解説
鑑真が日本行きを決意した直接の契機は、唐を訪れていた日本の留学僧・栄叡と普照からの懇請でした。
日本では仏教が国家の基盤として重視されていた一方、正統な戒律にもとづく授戒制度が未整備であったため、「伝戒の師」を迎えて正式な出家の規範を確立することが急務と考えられていました。
鑑真はその要請に応え、天宝元年(742年)以降、十二年のあいだに五度の渡航に失敗し、失明という大きな代償を払いながらも志を捨てませんでした。
第六次の試みでついに天平勝宝5年(753年)に来日を果たし、日本の仏教界に必要とされた「正しい戒」を伝えるという使命を成し遂げたのです。
こうした背景には、戒律に立脚した僧団の整備こそが日本仏教を成熟させるという鑑真の確信と、当時の朝廷・仏教界の切実な期待が重なっていた事情があります。
鑑真が日本でしたこととは?
日本に仏教の戒律を伝えた理由と背景
鑑真が日本で最初に成し遂げたことは、正統な戒律にもとづく授戒制度の確立でした。
奈良時代の日本では、仏教が国家の基盤として重視されながらも、僧尼が正式の戒法に則って得度するための制度が整っていませんでした。
鑑真は天平勝宝五年(753年)に来日すると、翌年に東大寺で授戒を主宰し、退位後の聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇(称徳天皇)らにまで戒を授けることで、国家的な規模で戒律の権威を確立しました。
これにより、僧団が戒律に基づいて整備され、日本仏教が“制度として”一段階成熟したのです。
こうした展開は、東大寺の戒壇(戒壇院)の整備と一体で進み、日本で初めて本格的な伝戒が実現した転換点となりました。
唐招提寺を建立した鑑真の功績
鑑真は来日後の約五年間を東大寺で過ごしたのち、新田部親王の旧宅地の下賜を受け、天平宝字三年(759年)に戒律を学ぶ道場として唐招提寺をひらきました。
唐招提寺は南都六宗の一つである律宗の総本山として位置づけられ、日本における律学・戒律研究と僧侶養成の中心となりました。
寺名は「唐律招提」に由来し、唐の律(戒律の学統)を招来した寺という意味合いが込められています。
今日に伝わる伽藍と宝物は、鑑真が制度と学問の両面で築いた基盤の確かさを物語っています。
日本の仏教界に与えた影響とは?
鑑真の活動は、日本仏教を教義の受容段階から僧団統治と修行規範が整った段階へと押し上げました。
東大寺の戒壇での大規模な授戒は、僧籍の公的な確立に直結し、国家と仏教の関係を法的・制度的に安定させました。
さらに鑑真は、律宗の学統を唐招提寺に根づかせ、後代の学僧に継承される知的基盤を残しました。
こうした総合的な成果は、鑑真が日本に律宗を確立したとする評価に集約され、到着が六度目の挑戦であった事実とともに、奈良仏教の完成期を象徴する出来事として記憶されています。
鑑真の渡航物語|6度目でついに日本へ!
5度の失敗と失明の苦難
鑑真は、最初に日本へ渡る決意を固めた後、743年から数えて五度にわたって渡航を試みました。
第一の出航は743年夏に準備されましたが、出発直前に弟子の如海が「日本僧は海賊だ」と告発したことで出航を許されず失敗に終わりました。
続く第二回は744年1月、出航後に激しい暴風に見舞われて断念。第三回及び第四回も、それぞれ弟子たちの妨害や官府の差し止め、船の難破など、いずれも海上の困難や内的な事情によって実現できませんでした。
そして第五回の渡航では、長期間の漂流の末、南方の島々に至り、帰国の途上で鑑真は両眼を失明してしまいました。
このように、彼が日本へたどり着くまでには、少なくとも五度の失敗と、視力喪失という大きな犠牲が伴っていたのです。
6度目の挑戦でたどり着いた日本
当時の日本からの遣唐使再派遣を契機として、753年11月16日、鑑真は六度目の渡航を決行しました。
この際、唐側からの正式な許可が得られなかったため、密航の形となったと言われています。
船団のひとつとして出航した鑑真の乗った船は、11月21日までに沖縄付近に到達し、12月20日には現在の鹿児島県南さつま市坊津町・秋妻屋浦に上陸を果たしました。
上陸時には既に眼の視力を失っており、65歳前後という年齢での難航の末の到着でした。
こうして鑑真はついに、日本の地に足を踏み入れ、長年の念願であった「正式な戒律と僧団の制度化」という使命を果たす第一歩を刻んだのです。
日本人に与えた感動と尊敬の理由
鑑真は、六度もの航海を繰り返し、幾多の困難、さらには失明という大きなハンディキャップを背負いながらも、遂に日本に到着しました。
その姿だけでも「仏法のためにいかなる犠牲もいとわない、揺るぎない信念」の象徴だったと言えるでしょう。
そのため日本側では、彼が来日した事実が単なる宗教的な出来事を超えて、「人と人、国と国を結ぶ文化的・精神的な交流の起点」として捉えられました。
特に上陸の地である鹿児島県坊津では、今も来日を記念する碑が建てられているほどです。
また、鑑真が伝えた戒律の制度化は、当時の日本社会における仏教僧の品位向上や国家と宗教の関係を明確化する役割を果たし、それらを確立した「行動する信念の人」として、後世まで尊敬の対象となっています。
鑑真の功績を簡単にまとめ
日本に戒律制度を広めた人物
鑑真が日本にもたらした最大の功績は、仏教における戒律制度を正式に導入したことです。
奈良時代の日本では、仏教が国の保護を受ける一方で、僧尼が正しい手順で得度しているかどうかを判断する明確な基準が存在しませんでした。
鑑真は東大寺に戒壇を設け、聖武天皇や光明皇后、孝謙天皇をはじめとする多くの僧に正式な戒を授けることで、日本仏教の制度的基礎を整えました。
これにより、僧侶が国家公認のもとで修行・布教活動を行うための秩序が確立され、仏教が「国家宗教」としての体制を整える大きな転機となりました。
鑑真の尽力によって、日本の僧侶たちは初めて「正しい修行者」として社会的な信頼を得ることができたのです。
奈良時代の国際交流に貢献した偉人
鑑真は単に仏教の指導者であっただけでなく、奈良時代の国際交流を象徴する人物でもあります。
彼の来日は、唐と日本の文化的交流を深化させる契機となり、建築・医学・彫刻など多方面に影響を与えました。
唐招提寺には、唐の建築様式を受け継いだ金堂や講堂が現存し、天平文化の美を今に伝えています。
さらに、鑑真が伝えた医学書や薬草の知識は、後の日本の医療発展にもつながったとされています。
彼の活動は、宗教を超えて東アジアの文化的架け橋となり、国際的な交流の原点として今日でも高く評価されています。
今も残る唐招提寺と鑑真の教え
奈良市にある唐招提寺は、鑑真の精神と教えを今に伝える貴重な場所です。
鑑真が開いたこの寺は、律宗の総本山として日本仏教の戒律研究の中心であり、国宝や世界遺産にも登録されています。
特に、天平建築の代表とされる金堂や講堂は、1,200年以上の時を経た今も当時の姿をほぼ完全に残しています。
毎年6月には「鑑真和上座像」が特別公開され、多くの参拝者が訪れます。
この木像は、鑑真の死後すぐに制作された日本最古の肖像彫刻のひとつであり、彼の穏やかで揺るぎない信念を今に伝えています。
唐招提寺に息づく戒律の精神は、現代の人々に「誠実に生きること」「志を貫くこと」の大切さを静かに語りかけています。
まとめ:鑑真は日本の仏教を支えた偉大な僧侶
「行動する信念」が歴史を動かした
鑑真の生涯は、信念を持って行動することの尊さを私たちに教えてくれます。
彼は幾度もの失敗、そして失明という苦難を経ても、ただ「日本に正しい戒律を伝える」という使命のために歩みを止めませんでした。
その強い意志と行動力は、宗教的な枠を超えて多くの人々の心を動かし、日本仏教の礎を築く結果となりました。
もし鑑真が途中で諦めていたら、日本の仏教は制度的な基盤を持たないまま停滞していたかもしれません。
彼が示した「行動する信念」は、まさに奈良時代という激動の時代を支えた精神の象徴だったのです。
現代にも通じる鑑真の精神とは
鑑真の精神は、時代を越えて現代にも通じます。それは「志を持ち、困難を恐れず、正しいことを貫く勇気」です。
彼は異国の地へ渡り、文化や言葉の違いを越えて信念を貫き通しました。
現代社会でも、目標に向かって粘り強く努力する姿勢、他者のために尽くす心、そして誠実さを失わない生き方が求められています。
鑑真の人生は、その理想を具体的に示したお手本と言えるでしょう。唐招提寺に今も残る彼の教えと姿は、1300年の時を経てもなお、人々に「信念をもって生きることの大切さ」を語りかけ続けています。
鑑真の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 688年 | 現在の中国・揚州(江蘇省)に生まれる。 |
| 701年頃 | 14歳で出家し、沙弥(しゃみ)となる。 |
| 709年頃 | 長安・洛陽などで戒律(得度・具足戒)を受け、律宗・天台宗などを学ぶ。 |
| 713年頃 | 故郷の大雲寺・大明寺に戻り、江南随一の高僧として称えられる。 |
| 742年(天宝元年) | 日本からの留学僧・栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)らが渡唐し、鑑真に「伝戒師」としての要請を行う。鑑真はこれを受けて日本渡航を決意。 |
| 743-752年頃 | 日本への渡航を5度試みるが、いずれも困難・失敗。さらに渡航中の混乱の中で両眼を失明するという苦難を経験。 |
| 753年(天平勝宝5年) | 6度目の渡航でついに日本に到着。11月16日出発、12月20日には鹿児島・坊津に上陸。 |
| 754年(天平勝宝6年) | 奈良・平城京に入り、東大寺で授戒を主宰。僧尼を対象に戒律の制度化を開始。 |
| 755年頃 | 東大寺内に戒壇(戒律を授ける壇)を整備し、日本における戒律制度の基盤を築く。 |
| 759年(天平宝字3年) | 奈良・五条町に 唐招提寺 を建立。律宗の根拠地となる寺院が完成。 |
| 763年(天平宝字7年)5月6日 | 唐招提寺にて76歳(あるいは77歳)で入滅(亡くなる)。 |
※異説・細部差異がある場合もありますのでご留意ください。

