島津久光とは?何をした人か簡単に解説|功績とわかりやすい人物像まとめ
島津久光は幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩の有力な政治家であり、藩主島津茂久(忠義)の実父として藩政の実権を握った人物です。
薩摩藩主島津斉興の五男として生まれ、名君とされる島津斉彬の異母弟としてその方針を受け継ぎつつ、より慎重で保守的な立場から藩内をまとめました。
文久の改革を主導して幕政に大きな影響を与えたほか、生麦事件や寺田屋事件、薩英戦争後の対応などを通じて、幕府と朝廷のあいだで重要な役割を果たしました。
こうした動きは薩摩藩の近代化と台頭をもたらし、やがて倒幕から明治維新へとつながる流れを生み出した要因の一つとされています。
この記事では、島津久光が「何をした人なのか」というポイントを中心に、その功績と人物像を初心者にもわかりやすく整理して解説します。
島津久光とはどんな人物?
島津久光の基本プロフィール
島津久光は、1817年に薩摩藩の中心地である鹿児島城で生まれ、1887年に亡くなった幕末期の薩摩藩の実力者であり政治家です。
薩摩藩第10代藩主の島津斉興の五男として生まれ、母は側室のお由羅であり、幼いころから藩主家の中枢に連なる立場にありました。
名は当初「忠教」や「邦行」と称し、のちに「久光」と改め、多くの号を持つなど、武家社会の中でも格式ある一門として育ちました。
藩主となったのは自らではなく長男の島津忠義(のちの島津茂久)ですが、久光は「国父」と呼ばれてその後見役となり、事実上薩摩藩の頂点に立って藩政を主導しました。
思想的には、急進的な尊王攘夷よりも公武合体を重視する保守的かつ現実的な路線をとり、藩内の尊攘派を抑えながら、幕政改革や朝廷との関係調整に力を注いだ人物です。
派手な軍事的活躍というより、政治交渉や人事、藩内統制を通じて影響力を発揮した「調整型」のリーダーとして評価されています。
島津斉彬との関係と影響力
島津久光は、近代化を進めた名君として知られる第28代藩主・島津斉彬の異母弟にあたり、家中の権力争いでたびたび斉彬と対立しながらも、最終的にはその路線を引き継ぐ立場になりました。
斉彬の死後、久光の長男である忠義が第29代藩主に就任すると、久光は藩主の父として「国父」と呼ばれ、斉彬亡きあとの薩摩藩をまとめる実質的な最高責任者となりました。
政治方針としては、西洋技術の導入など斉彬時代の近代化路線を維持しつつも、過激な尊攘運動には距離を置き、公武合体によって幕府と朝廷の妥協を図る安定志向の姿勢が強く表れました。
その一方で、斉彬が抜擢した西郷隆盛や大久保利通ら有能な人材を引き続き重用し、久光の政権下で彼らが藩政の中心人物へと成長したことが、のちの倒幕運動と明治維新につながる土台となりました。
このように久光は、斉彬が開いた近代化・人材登用の流れを受け継ぎつつ、自らの保守的で現実的な政治感覚を加えることで、薩摩藩の進む方向を大きく左右した存在だといえます。
島津久光は何をした人?簡単に要点だけ解説
① 文久の改革を主導し、幕政に影響を与えた
島津久光は1862年に薩摩藩兵を率いて上京し、公武合体を掲げて朝廷に働きかけ、幕府に対して大幅な政治改革を迫りました。
その結果、勅使大原重徳が江戸に下向して幕府に改革を要求し、徳川慶喜の将軍後見職就任や松平春嶽の政事総裁職就任、京都守護職の新設などが実現し、これらの一連の改革は「文久の改革」と呼ばれています。
文久の改革は一見すると幕府を立て直すための措置でしたが、外様大名や朝廷の介入によって幕府の威信はかえって低下し、結果として幕府崩壊への流れを決定づけるきっかけの一つとなりました。
② 薩摩藩の近代化を進めた人物
島津久光は兄の島津斉彬が始めた集成館事業の路線を受け継ぎ、藩主島津忠義の後見として薩摩藩の産業と軍事力の近代化を進めました。
薩英戦争でイギリスの軍事力と産業力を痛感した薩摩藩は、久光のもとで方針を転換し、イギリスとの和解と提携を通じて洋式の機械や武器を導入し、反射炉や機械工場、紡績所などを整備していきました。
1865年には「薩摩藩英国留学生」と呼ばれる若い藩士たちをイギリスに派遣し、西洋の最新技術や知識を学ばせることで、藩だけでなくのちの日本全体の近代化を支える人材を育成しました。
こうした取り組みによって薩摩藩は、武力だけでなく経済力と技術力でも幕末日本を代表する先進的な藩の一つとなりました。
③ 倒幕への流れを作るきっかけを作った
島津久光は基本的に公武合体を重視する立場でしたが、文久の改革や八月十八日の政変などを通じて中央政界に深く関わり、その過程で結果的に幕府の権威を弱める方向に働きました。
久光は朝廷会議に有力な大名を参加させる参預会議の成立に尽力しましたが、横浜鎖港問題などをめぐる対立からこの構想は行き詰まり、公武合体路線は失敗に終わりました。
参預会議の挫折後、久光は小松帯刀や西郷隆盛・大久保利通らに中央政局の主導を委ね、彼らは長州藩との提携を深めて薩長同盟を結び、武力倒幕へと大きく舵を切っていきました。
つまり久光は、自らは急進的な倒幕論者ではなかったものの、公武合体の模索とその挫折を通じて、結果的に薩摩藩が倒幕勢力の中心となる道筋を作った人物だといえます。
島津久光の主な功績
薩摩藩内部の改革と藩政立て直し
島津久光は、藩主島津忠義の実父として「国父」と呼ばれ、藩政の実権を握りながら薩摩藩の立て直しに取り組みました。
財政面では、先代から続く改革路線を引き継ぎつつ無駄な出費の削減や年貢制度の見直しを進め、軍備や産業に重点的に資金を振り向ける方針をとりました。
また、兄の島津斉彬が始めた集成館事業を継承し、西洋式の造船や製鉄、紡績などの事業を支えながら、藩の経済基盤と軍事力を近代的なものへと変えていきました。
文久から元治期にかけては、率兵上京からの帰国後に自らの名で家老に宛てた諭書を出し、藩政改革の方針を示して組織の引き締めと統制強化を図ったことも知られています。
こうした一連の取り組みにより、薩摩藩は財政・軍事の両面で安定度を増し、のちに倒幕や維新の中央政局に大きく関わるための実力を蓄えることができました。
寺田屋事件など国内情勢への関与
1862年、島津久光は公武合体の実現を目指して藩兵を率いて上京しましたが、その途中で薩摩藩内の尊王攘夷の急進派が独自に挙兵して討幕を狙う動きを見せました。
京都伏見の船宿寺田屋に集まった有馬新七ら尊攘派の志士たちに対し、久光は自重を求めても従わないと判断し、奈良原繁や大山綱良らを派遣して鎮圧させました。
この「寺田屋事件(寺田屋騒動)」によって、有馬ら数名の尊攘派が死亡し、薩摩藩内の過激な攘夷運動はいったん勢いを失い、藩の方針は久光主導の公武合体・漸進的改革路線に一本化されました。
事件後、久光は尊攘派の多くを京都から退去させる一方で、勅使大原重徳を奉じて江戸に下り、徳川慶喜の将軍後見職就任などを含む文久の改革を実現させることで、幕政そのものに直接影響を与えました。
寺田屋事件は、同じ薩摩藩士同士が斬り合う悲劇であると同時に、薩摩藩が過激な尊攘路線から一歩距離を取りつつ、中央政治に本格的に進出していく転換点となった出来事でもあります。
薩英戦争後の薩摩藩外交への貢献
1862年の生麦事件で、久光の行列に遭遇したイギリス人が薩摩藩士に殺傷されたことをきっかけに、翌1863年に薩摩藩とイギリスとのあいだで薩英戦争が勃発しました。
薩英戦争では鹿児島湾が砲撃を受け、多くの被害を出しながらも薩摩側も奮戦し、その戦いを通じて薩摩藩はイギリスの圧倒的な軍事力と技術力を身をもって思い知らされました。
戦後、薩摩藩はイギリスと講和し、生麦事件などに関する賠償金の支払いをめぐる交渉を行いながら、逆にイギリス側との関係を改善し、武器や機械の購入、技術導入へとつなげていきました。
さらに1865年には薩摩藩英国留学生をイギリスへ派遣し、若い藩士たちに西洋の先進的な学問や技術を学ばせることで、後の日本の近代化を支える人材づくりにも踏み出しました。
このように、久光のもとで薩摩藩は薩英戦争という対立をきっかけに、列強との対立一辺倒ではなく、外交と協調を通じて近代化を進めるという現実的な路線へと大きく舵を切ったのです。
島津久光が歴史に与えた影響
幕末から明治維新への政治的な橋渡し
島津久光は、藩主島津忠義の「国父」として薩摩藩の方針を統一し、幕末政局において藩を挙げて中央政治に関与させた重要な指導者です。
1862年の率兵上京では、公武合体と幕政改革を掲げて朝廷と幕府の双方に働きかけ、徳川慶喜の将軍後見職就任などを含む文久の改革を実現させることで、幕府中心の政治構造に大きな揺さぶりをかけました。
この行動は一方で幕府権威の低下を招き、その後の薩摩藩が中央政局で発言力を強め、やがて倒幕勢力の中核へと変わっていく大きなきっかけとなりました。
また、久光は公武合体と内乱回避を掲げつつ、挙国一致で対外的な武備を充実させる方針をとり、過激な尊王攘夷運動と一線を画しながら、薩摩藩を政治と軍事の両面で「維新を主導できる実力藩」へと押し上げました。
薩英戦争後にはイギリスとの和解と協調に踏み切り、洋式武器の導入や留学生派遣などを通じて、薩摩から明治政府に参加する人材と軍事力・情報力の基盤を整えたことも、明治維新成立を支えた大きな要因の一つです。
こうした一連の動きにより、久光は「旧来の幕藩体制」と「新しい近代国家」のあいだをつなぐ政治的な橋渡し役として、表舞台というよりは裏方に近い立場から歴史の流れを方向づけた人物といえます。
久光がいなければ起きなかった可能性のある歴史的転換
もし島津久光が率兵上京を行わず、薩摩藩が幕末の早い段階で中央政局に深く介入していなければ、文久の改革のような大規模な幕政改革は大きく遅れるか、違う形になっていた可能性があります。
その場合、幕府は一時的に安定を保てたかもしれませんが、外圧と内政不安が長引き、薩摩や長州など有力藩が主導する形ではない、別の政権交代のシナリオになっていたことも考えられます。
また、寺田屋事件によって薩摩藩内の過激な尊攘派が一度押さえ込まれたからこそ、藩としては統一した方針で公武合体と幕政改革に動くことができ、そののちに方針転換して倒幕へ進む際にも、組織的な力を集中させることができました。
もし薩摩藩が早い段階から急進的な攘夷・倒幕に走って内紛状態に陥っていれば、薩長同盟の成立や戊辰戦争における薩摩の主導的役割も、大きく変質していた可能性があります。
さらに、薩英戦争後に列強との協調へと舵を切り、イギリスと結びついた近代化路線をとったことは、薩摩出身者が明治政府の中枢で近代国家建設をリードする前提条件にもなりました。
このように見ると、久光の選択や判断は、薩摩藩一藩の進路にとどまらず、日本全体の政権交代のタイミングや近代化の進み方にまで影響を与えたと評価でき、仮に彼がいなければ明治維新の具体的な姿はかなり違ったものになっていた可能性が高いといえます。
島津久光を簡単に理解するためのポイント
“名君”斉彬に比べ地味だが重要な役割を担った人物
島津久光は、兄であり薩摩藩主であった島津斉彬と比べると、どうしても知名度や評価が地味に見られがちな人物です。
斉彬は集成館事業や洋式軍備の導入など、先進的でわかりやすい業績が多く「名君」として語られる一方で、久光は自ら藩主とはならず、藩主島津忠義を支える「国父」として裏方的な立場から藩政を動かしました。
しかし、文久の改革を実現した率兵上京や、寺田屋事件での急進派鎮圧、薩英戦争後の現実的な外交方針など、幕末の重要局面には久光の判断が深く関わっており、その影響力は非常に大きなものがありました。
斉彬が掲げた近代化路線や人材登用の方針を、久光が現実政治の中で引き継いで形にしていったことで、薩摩藩は維新を主導できるだけの体制を維持し続けることができたといえます。
そのため、表舞台の華やかな「名君」としての斉彬に対し、久光は実務と調整を担った「縁の下の力持ち」のような存在として理解すると、その役割の重要さが見えてきます。
薩摩のみならず幕府にも強い影響を与えたキーパーソン
島津久光は、一藩の有力者という枠を超えて、幕末政局そのものに大きな影響を与えたキーパーソンでした。
とくに1862年の率兵上京は、朝廷と幕府の双方に改革を迫り、徳川慶喜や松平春嶽の登用、京都守護職の設置など文久の改革を引き起こす契機となり、幕府政治のあり方を大きく変える結果を生み出しました。
また、薩英戦争後にイギリスとの和解と協調へと踏み出した判断は、薩摩藩の近代化を加速させるだけでなく、外国との付き合い方に関する一つのモデルとして、維新後の日本外交にもつながる方向性を示しました。
さらに、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀など、のちに明治政府を支える中核メンバーを薩摩藩の中で育成し、場を与えたことも重要であり、久光の存在がなければ彼らの活躍の舞台も違ったものになっていた可能性があります。
このように、島津久光は薩摩藩内部の指導者であると同時に、幕府・朝廷・外国との関係を調整しながら、幕末から明治維新に至る大きな流れを裏側から支えた人物として位置づけられます。
島津久光の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1817年 | 文化14年 | 薩摩国鹿児島城に島津斉興の五男として生まれる。 |
| 1818年 | 文政元年 | 種子島久道の養子となり、種子島家に入る。 |
| 1825年 | 文政8年 | 島津宗家に復帰し、重富島津家の娘・千百子と婚約して婿養子となる。 |
| 1828年 | 文政11年 | 元服し、諱を忠教と授けられる。 |
| 1839年 | 天保10年 | 重富家の家督を相続し、藩内での発言力を強める。 |
| 1851年 | 嘉永4年 | お由羅騒動の結果、父斉興が隠居し斉彬が薩摩藩主となる。島津家の家督をめぐる対立の中で久光も重要な立場に置かれる。 |
| 1858年 | 安政5年 | 藩主島津斉彬が死去し、久光の実子・忠徳(のちの島津茂久・忠義)が藩主となる。 |
| 1859年 | 安政6年 | 前藩主斉興が死去し、藩主の実父として久光の政治的影響力が一段と増大する。 |
| 1861年 | 文久元年 | 宗家に復帰して「国父」として遇され、諱を久光と改めて薩摩藩の実権を掌握する。 |
| 1862年 | 文久2年 | 公武合体運動を推進するため兵を率いて上京し、伏見寺田屋に集結した有馬新七ら尊攘派を討つ寺田屋騒動を起こす。 |
| 1862年 | 文久2年 | 勅使大原重徳に随行して江戸に下向し、徳川慶喜の将軍後見職就任や松平春嶽の政事総裁職就任などを実現する文久の改革を主導する。 |
| 1862年 | 文久2年 | 江戸からの帰路、生麦村で行列がイギリス人と衝突し、生麦事件が発生する。 |
| 1863年 | 文久3年 | 生麦事件を契機として薩英戦争が勃発し、薩摩藩はイギリス艦隊と交戦する。戦後、イギリスとの講和と協調路線へ転じる。 |
| 1864年 | 元治元年 | 八月十八日の政変後の政局で参預に任命され参預会議に参加するが、横浜鎖港問題などをめぐる対立から公武合体運動が挫折する。 |
| 1864年 | 元治元年 | 遠島に処していた西郷隆盛を赦免し、藩政に復帰させる。 |
| 1865年 | 慶応元年 | 薩英戦争の経験を踏まえ、薩摩藩が英国留学生一行をイギリスへ派遣し、藩の近代化と人材育成を進める。 |
| 1867年 | 慶応3年 | 四侯会議に参加し、長州処分や兵庫開港問題をめぐって徳川慶喜と協議するが妥協に失敗し、薩摩藩は最終的に武力倒幕路線を決意する。 |
| 1869年 | 明治2年 | 上京して新政府の参議・左近衛権中将に任じられ、明治新政府の中枢に加わる。 |
| 1871年 | 明治4年 | 廃藩置県の断行に強く反発しつつも、島津忠義の賞典禄から分知を受けて玉里島津家を創設し、公爵家として宗家から分かれる。 |
| 1874年 | 明治7年 | 左大臣に就任するが、政府の急進的な近代化政策と対立し、次第に実際の政権運営から遠ざけられる。 |
| 1875年 | 明治8年 | 左大臣を辞任して鹿児島に帰郷し、以後は隠居して史料収集や著述に専念する。 |
| 1877年 | 明治10年 | 西南戦争勃発に際して中立の立場を表明し、戦火を避けて一時桜島に避難する。 |
| 1887年 | 明治20年 | 鹿児島県鹿児島郡下伊敷村の玉里邸で死去する。鹿児島で国葬が行われ、玉里島津家は七男忠済が継承する。 |
まとめ:島津久光は「幕末を裏で支えたキーパーソン」
島津久光は、薩摩藩主島津忠義を支える「国父」として藩政の実権を握り、公武合体と幕政改革を掲げて中央政局に深く関わった人物です。
1862年の率兵上京で文久の改革を実現し、徳川慶喜らの登用を通じて幕府政治の形を変えたことは、結果的に幕府権威の動揺と倒幕への流れを加速させる要因となりました。
寺田屋事件で藩内の急進派を鎮圧しつつ、薩英戦争後にはイギリスとの和解と協調に踏み切り、洋式兵備や留学生派遣によって薩摩藩の近代化を一気に進めた点も大きな功績です。
その過程で西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀らを登用し活躍の場を与えたことは、のちの明治維新政府の中枢を形作る人材育成という面でも決定的な意味を持ちました。
派手なカリスマ性で人々を惹きつけた「名君」斉彬とは対照的に、久光は藩内の対立を抑え、挙藩一致体制を築きながら現実的な選択を積み重ねた「調整型リーダー」として幕末を裏側から支えた存在だといえます。
島津久光を理解するうえでは、薩摩藩だけでなく幕府・朝廷・外国との関係を同時に見渡しながら、衝突と協調を使い分けて日本の進路を方向づけた長期的視点の政治家として捉えることが大切です。
教科書や大河ドラマで幕末を見るときには、西郷隆盛や大久保利通の背後に常に久光の判断と方針があったことを意識しつつ、資料館や関連書籍にも目を通して、自分なりに「表の英雄」と「裏のキーパーソン」の関係を比べながら歴史を味わってみてください。

