藤原不比等(ふじわらのふひと)は、奈良時代の日本を形づくった天才的な政治家です。
中臣鎌足の子として生まれ、大化の改新後の混乱を立て直し、日本の政治や法律の仕組みを整えました。彼が中心となって制定した「大宝律令(たいほうりつりょう)」は、現在の日本の法律制度の原型ともいわれています。
また、天皇家との結びつきを深め、藤原氏という貴族一族が長く政治の中心に立つきっかけを作った人物でもあります。
この記事では、藤原不比等がどのような人物だったのか、何を成し遂げ、日本の歴史にどんな影響を与えたのかを、わかりやすく解説していきます。
藤原不比等とはどんな人?
藤原不比等の生まれと時代背景
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、斉明天皇五年(659年)に生まれ、養老四年(720年)に没したと伝えられています。当時は飛鳥時代から奈良時代への移行期で、中央政府の体制改革や律令制度の整備が急務とされていた時代でした。
幼少のころ、不比等は文章・法令の学問に優れた人物の邸で育てられたとされ、法律や儀礼の知識を学ぶ環境にあったと考えられています。
その後、大化の改新を過ぎて日本の古代国家体制を整えていく時代の中心人物として、律令国家への布石を打つ役割を果たしていきます。
中臣鎌足の息子としての立場
不比等は、蘇我氏打倒を推進した中臣鎌足(後の藤原鎌足)の次男として生まれました。
妻側の家系では、母が車持氏の系統という説があり、これも有力な説の一つです。父・鎌足は大化の改新(645年)で影響力を強めた人物であり、不比等はその血統と父から受け継がれた名声を背景に、政治の世界に入っていく立場にありました。
一方で、「不比等が天智天皇の落胤ではないか」という説も古文献には見られますが、それは研究上疑問視されることが多く、定説とまではされていません。
大化の改新との関係は?
大化の改新は本来、645年の乙巳の変をきっかけとする政治改革を指します。
不比等自身がまだ幼児期に過ぎなかったため、直接的に改新そのものを主導したとはいえません。ただし、不比等は後の時代において、改新後の制度を受け継ぎつつ発展させ、律令体制を整備する役割を果たしました。
また、一部の歴史研究では、『日本書紀』の記述が不比等側の視点を強く反映しており、大化の改新の正当性や蘇我氏打倒の経緯が脚色されて伝えられた可能性が指摘されています。
したがって、改新そのものではなく、改新後の仕組み作りを担った「受け継ぎ手・強化者」としての立場が不比等の本質的な関わり方といえるでしょう。
藤原不比等がしたこと・功績まとめ
① 律令制度(大宝律令)の制定に関わった
藤原不比等は、701年(大宝元年)に「大宝律令」の制定に携わりました。日本がまとまった法体系を持つ国家になるためには、律(刑法)と令(行政・民法など)がともに整備されることが不可欠でした。これまでの法律は「令」だけだったり断片的だったりしたものが多く、大宝律令は日本として初めて律と令を統合したものとされています。
また、不比等はこの大宝律令の後、内容を見直し、改訂する動きも指導しました。例えば「養老律令(ようろうりつりょう)」の編纂(へんさん)を始め、後世に残る律令制度の安定化に向けて尽力したとされます。
ただし、編纂・制定にあたっての正確な作業分担・貢献度については、史料によって見方が異なり、「主導した」という見解もあれば「関与した一人」という見解もあります。
② 藤原氏の勢力を確立し、貴族政治の基礎を作った
不比等は律令制度を背景に、藤原氏という一族の地位を確立していきました。父・鎌足の死後、その家を引き継ぎ、政治の中心部で活動し続けたことによって、藤原氏が朝廷で重要な勢力になる基盤を築きました。
子どもたちを四家(南家・北家・式家・京家)に分け、それぞれが別の流れで活躍するよう育てたことも、藤原氏の権力を分散・強化する巧妙な布石でした。
また、娘を天皇や皇族に嫁がせる婚姻政策を積極的に行い、藤原氏を外戚として朝廷と結びつける手法をとりました。これにより、藤原氏の政治的影響力をさらに強めました。
③ 天皇家との関係を深め、政治の中心に
不比等は、天皇と藤原氏との結びつきを強めることに非常に力を入れました。例えば、娘・宮子(みやこ)を文武天皇の妃とし、その子を天皇にさせるなど、皇室との血縁を通じて影響力を拡大しました。
また、後妻である橘三千代を通じて皇室側とのつながりも強め、後に娘・光明子(こうみょうし)が聖武天皇の皇后になるという道筋を作りました。
このような姻戚関係の強化は、不比等自身だけでなく、藤原氏が朝廷で安定して発言力を持つための重要な手段となりました。
④ 奈良時代の国家体制を整えた功績
不比等は、平城京への遷都(710年)を後押しした人物の一人と考えられています。遷都に伴って氏寺(氏族の寺)を移転・改称し、興福寺(こうふくじ)として整備するなど、都づくりにも関与しました。
さらに、地方行政制度や戸籍制度、税制(租・庸・調)など、律令制度を基盤とした国家組織を実際に運用する枠組みを確立させる役割を果たしました。
そのうえ、養老律令の編纂を進めることで、法体系をより実践的・洗練されたものへと発展させようとする動きを見せた点も、国家体制の安定化に寄与したと評価されます。
藤原不比等の人物像と性格
政治手腕と知恵に優れたリーダー
藤原不比等は、「法律学者としての顔」と「権謀術数に長けた政治家としての顔」を併せ持つ人物として語られることが多いです。
もともと文章や法令の知識に長けていたことから、律令制度という複雑な法体系を扱う基盤を持っていたと考えられています。
一方で、皇室や他の貴族勢力との政略・駆け引きにも長けており、先を読んだ婚姻政策や後継者操作などでも強い影響力を発揮しました。
そのような二面性や緻密な戦略性から、不比等は裏方に回りながらも、実際には政界の主導的な立場を操作できる実力者であったと評価されています。
裏方で支えるタイプの実力者
不比等は己を前面に立てず、自らを際立たせることよりも制度や権力構造を整えることに重きを置いたタイプでした。
例えば、大宝律令や養老律令の制定などは、その制度を裏から支える知識的・法的なバックボーンがあってこそ成り立った改革であり、不比等がその中心であったと考えられます。
また、皇室と藤原氏とのパイプを作る婚姻政策や外戚関係づくり、それに伴う政務への関与においても、自ら表舞台に立つよりも「背景を作る」「仕組みを握る」姿勢が目立ちます。
こうした特徴ゆえに、「目立たないがなくてはならない存在」として歴史の裏側で大きな影響力を持っていたといえるでしょう。
藤原不比等の家系とその後の影響
藤原四家の誕生(南・北・式・京家)
藤原不比等には男子が四人いました。長男が武智麻呂(むちまろ)、次男が房前(ふささき)、三男が宇合(うまかい)、四男が麻呂(まろ)です。これら四人がそれぞれ「藤原四家(なんけ・ほっけ・しきけ・きょうけ)」を興す祖とされます。
長男武智麻呂を祖とするのが南家、次男房前で北家、三男宇合で式家、四男麻呂で京家です。 この四家はそれぞれ特色を持って活動しましたが、平安時代が進むにつれて北家が最も勢力を拡大し、摂政・関白を輩出して藤原氏の主流となっていきます。
また、藤原不比等の子孫だけが藤原姓を許され、他の分家から独立して権力を行使できたという伝承もあります。
子孫が摂関政治を担うまでの流れ
藤原四家のうち北家は、天皇との姻戚関係を強く結ぶことで地歩を固めていきました。たとえば、北家の流れをくむ藤原良房が人臣(=皇族でない者)として初めて摂政に就任したことは、藤原氏が朝廷の実権を握る転換点とされています。
その後、藤原基経、藤原道長らが関白・摂政の地位を継ぎ、藤原氏は平安時代を通じて約200年以上にわたって政権に影響力を及ぼす「摂関政治」を築いていきました。
一方、南家・式家・京家も一定の成果を挙げました。たとえば式家出身の藤原百川や種継は光仁天皇・桓武天皇期に活躍し、京家・南家出身者も時代によって影響力を持つ局面がありました。
しかし最終的に「摂関家」、「五摂家」などとして藤原氏の中核をなすのは、北家系の流れであり、平安中期~後期には北家出身者がほぼ常に摂政・関白を世襲する体制ができあがりました。
藤原不比等を簡単にまとめると?
日本の政治制度を整えた“律令国家の立役者”
藤原不比等は、律と令を統合した大宝律令の制定に深く関わり、律令国家の枠組みを整備した中心人物です。
税制・戸籍・地方の行政制度を制度化し、平城京への遷都と都づくりを支えるなど、国家運営の基本を築く仕事を担いました。
また、不比等は皇室との婚姻関係を巧みに使って、藤原氏を朝廷の外戚として位置づけ、藤原氏の政治的基盤を確立しました。
これらの功績が、後の平安時代における貴族政治・摂関政治へとつながる礎を作ったと言えます。
後の平安貴族社会の基礎を作った人物
不比等には四人の息子がおり、それぞれ南家・北家・式家・京家という藤原四家を起こしました。
特に北家が力を強め、平安時代を通じて摂政・関白として長く政治を支配する流れを作りました。こうして、不比等の家系と制度作りは、藤原氏が日本の政治界で長期的な存在となる道筋をつけたのです。
まとめ:藤原不比等は「日本の仕組みを作った頭脳派政治家」
短く言うと何をした人? → 「日本の政治のしくみを作った人」
藤原不比等を一言で表せば、「日本の政治制度の基礎を整えた人」です。
律令制度を整備し、国家の枠組みを構築し、藤原氏という一族を朝廷に深く結びつけて、日本史の流れを大きく動かした存在です。
学校の授業や試験でもよく出る重要人物!
日本史の授業でも藤原不比等は頻出の人物です。律令制度、大宝律令、藤原四家、摂関政治などのキーワードと結びついて覚えると理解しやすくなります。
この記事で示したような「誰と結びついたか」「どんな制度を作ったか」「どのように勢力を拡大したか」の流れを押さえておけば、試験対策にも役立つでしょう。
藤原不比等の年表
| 年(西暦 / 元号) | 出来事・地位など |
|---|---|
| 659年(斉明5年) | 誕生(中臣鎌足の次男と伝えられる) |
| (幼年期) | 法令・文章の学問を学ぶ、田辺史大隅のもとにて修養との伝承あり |
| 698年(文武2年) | 文武天皇詔により、父・鎌足に賜られた藤原姓を不比等が継ぐこととなる |
| 701年(大宝元年) | 大宝律令の編纂に参与。この年を大宝律令制定の起点として扱われることが多い |
| 708年(和銅元年) | 右大臣に昇進(律令体制の形成期における高位官人) |
| 710年(和銅3年) | 平城京への遷都が行われる。不比等も遷都事業を後押ししたとされる |
| 718年(養老2年) | 養老律令の編纂開始(大宝律令の改訂・整備) |
| 720年(養老4年) | 8月、藤原不比等、没(正二位・右大臣、享年62歳説)日本書紀の完成(舎人親王らによる撰 上) |
| 720年†(追贈) | 没後、太政大臣・正一位を追贈されるという記録あり |
| 760年(天平宝字4年) | 淡海公(おうみのこう)の号を封じられる(没後の称号) |

