徳川吉宗とは?何をした人かを簡単に解説【5分でわかる】

徳川吉宗とは?何をした人かを簡単に解説【5分でわかる】 日本の歴史

徳川吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府8代将軍として「享保の改革」を行い、財政難に苦しんでいた幕府を立て直した名君として知られています。

本記事では、吉宗がどんな人物で、何をしたのか、その功績を5分で理解できるように分かりやすく解説します。

目安箱や倹約令、公事方御定書など、現代にも影響を与えた政策についても簡潔にまとめて紹介するので、初心者でも安心して読み進められます。

徳川吉宗とはどんな人物?

徳川吉宗の基本プロフィール

徳川吉宗は、江戸幕府の第8代将軍として江戸中期の政治と社会を立て直した人物です。

貞享元年(1684年)に、徳川家康を祖とする紀州徳川家の一員として紀州和歌山で生まれました。

父は紀州藩第2代藩主の徳川光貞、祖父は紀州徳川家の初代藩主である徳川頼宣で、吉宗はその四男として育ちました。

幼名は源六といい、のちに松平頼久、松平頼方と名乗ったのち、将軍徳川綱吉から偏諱を受けて徳川吉宗と改名しました。

宝永2年(1705年)に、相次ぐ兄と父の死去によって紀州藩第5代藩主となり、大名としてのキャリアを本格的に歩み始めました。

享保元年(1716年)に江戸幕府第8代征夷大将軍に就任し、延享2年(1745年)に将軍職を子の徳川家重に譲るまでおよそ30年にわたり政権を担いました。

将軍引退後も「大御所」として政治に影響力を持ち続け、寛延4年(1751年)に亡くなるまで、幕府の中枢にとどまりました。

倹約を重んじて米の増産や財政再建に努めたことから「米将軍」とも呼ばれ、「江戸幕府の中興の祖」と評価されています。

江戸幕府8代将軍に就任するまでの流れ

吉宗は若いころ、紀州藩の家老のもとで育てられ、武芸だけでなく実務感覚も養いながら大名としての素地を身につけました。

元禄9年(1696年)ごろには、越前国葛野に3万石を与えられ、形式上は葛野藩主となりつつも、実際には紀州藩政に深く関わっていました。

宝永2年(1705年)には、兄たちと父が相次いで亡くなったことから紀州徳川家を継ぎ、22歳で紀州藩第5代藩主として藩のかじ取りを任されました。

当時の紀州藩は、江戸屋敷の火災や将軍上洛などの出費が重なり財政難に陥っており、吉宗は倹約と新田開発などの改革により藩財政の再建に取り組みました。

一方、江戸幕府では5代将軍徳川綱吉、6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継と将軍が相次いで亡くなり、享保元年(1716年)に8歳で家継が死去したことで本家筋の男子が絶える事態となりました。

このため、徳川将軍家を支える御三家(尾張・紀州・水戸)の中から次の将軍を選ぶ必要が生じ、血筋の近さや年齢、政治能力が重視されました。

紀州藩で財政再建に成功していた吉宗は、その実績と家康からの世代の近さを評価され、尾張家など他候補をおさえて次期将軍候補として浮上しました。

大奥や譜代大名の支持も吉宗に集まり、こうした後押しを背景に吉宗は享保元年(1716年)に第8代征夷大将軍に就任しました。

吉宗は紀州藩を廃藩とせず従弟の徳川宗直に家督を譲って存続させ、自らは選抜した家臣を連れて江戸城に入ることで、新しい将軍としての体制づくりを進めました。

このように、吉宗の将軍就任は偶然のめぐり合わせだけでなく、紀州藩主としての改革実績と、徳川家内の政治状況が組み合わさって実現したものといえます。

徳川吉宗は何をした人?功績を簡単にまとめ

享保の改革の実施とその目的

徳川吉宗は、1716年に江戸幕府の第8代将軍となると、幕府政治を立て直すために「享保の改革」と呼ばれる大規模な改革に取り組みました。

当時の幕府は財政難が深刻で、武士や庶民の生活も不安定になりつつあり、吉宗はこの状況を改善することを大きな目的としていました。

吉宗は新田開発を進めて年貢として集める米を増やし、上げ米の制などを通じて大名にも負担を求めながら、幕府の収入基盤を強化しようとしました。

一方で、武士には質素倹約を徹底させ、ぜいたくな出費を抑えることで支出を減らし、財政の赤字を少しでも縮小させることを目指しました。

また、江戸初期の徳川家康の政治を理想として、武芸の奨励や能力のある人材登用にも力を入れ、幕府の統治能力そのものを高めようとした点も大きな特徴です。

享保の改革は、財政の再建と政治の引き締めを同時に進めることで、行き詰まりつつあった幕府政治に新しい方向性を与えた改革だったといえます。

目安箱の設置など、民意を取り入れた政治

徳川吉宗の改革の中でも特に有名なのが、1721年に設置された「目安箱」と呼ばれる意見箱の制度です。

目安箱は、身分にかかわらず庶民が政治への意見や要望、不正の告発などを書いて投書できる仕組みで、江戸城の評定所前などに置かれました。

投書は匿名ではなく、名前と住所の記入が原則とされていましたが、採用された意見は実際の政策に反映されることがありました。

たとえば、江戸の貧しい人々にも医療を受けさせるための施設である小石川養生所の設置や、火事の多かった江戸で町火消と呼ばれる消防組織が整備されたことが、目安箱への意見をきっかけとした政策として知られています。

庶民の声を直接将軍に届ける仕組みを導入したことは、それまでの上からの支配が中心だった江戸幕府の政治としては画期的な試みでした。

目安箱は、その後も改めて整えられながら長く続き、民意を政治に取り入れようとした吉宗の姿勢を象徴する制度として評価されています。

倹約令の制定と財政立て直し

徳川吉宗は、支出を抑えて財政を立て直すために、倹約令と呼ばれるさまざまな倹約政策を打ち出しました。

倹約令では、幕府の役人や大名だけでなく、町人や農民にもぜいたくな着物や派手な暮らしを控えるよう命じ、日常生活から無駄な出費を減らすことを目指しました。

また、吉宗は米の収入を安定させるため、過去の収穫量から平均を出して年貢を一定にする定免法を導入し、検見と呼ばれる手間と費用のかかる方法を改めようとしました。

このほか、新田開発を奨励して田畑を増やしたり、上げ米の制によって大名に米での負担を求めたりすることで、幕府と諸藩の双方に財政再建への協力をうながしました。

吉宗が米に関する政策を次々と打ち出したことから、後世には「米将軍」と呼ばれるようになり、財政再建に強い意欲を持っていた将軍として知られるようになりました。

一方で、これらの政策は庶民にとって負担が重く感じられる面もありましたが、幕府の財政難を和らげ、一定の安定を取り戻すうえで大きな役割を果たしました。

公事方御定書の制定による司法の整備

徳川吉宗は、裁判や刑罰の基準を明確にして公正な司法制度を作ることにも力を入れました。

その代表的な成果が、1742年に完成した「公事方御定書」と呼ばれる法典です。

公事方御定書は、犯罪やトラブルが起こったときにどのような処罰を行うか、どのような手続きで裁くかといった基準をまとめたもので、いわば江戸幕府版の成文法といえる存在でした。

それまでの裁判は、個々の奉行の判断や過去の例に頼る部分が大きく、同じような事件でも処罰が重くなったり軽くなったりする不公平さが生まれやすい状況にありました。

公事方御定書では、それまでの判例を整理して「この場合にはこう判断する」という基準を示したことで、裁判のばらつきを抑え、処罰の一貫性を高める効果がありました。

また、罪を犯した人をただ罰するだけではなく、社会復帰をうながす考え方も取り入れられており、当時としては先進的な法整備だったと考えられています。

こうした法制度の整備によって、享保の改革は財政だけでなく、社会秩序を支える司法の面でも大きな足跡を残したといえます。

徳川吉宗の改革はなぜ重要だったのか?

財政改善と社会秩序の安定への影響

徳川吉宗の改革が重要とされる大きな理由は、深刻な財政難に陥っていた江戸幕府を一定程度立て直し、社会秩序の安定につなげた点にあります。

吉宗が将軍に就任した当時、幕府は軍事費や江戸城や御三家への支出、度重なる災害復興などで借金が膨らみ、年貢収入だけでは支えきれない状況になっていました。

そこで吉宗は、新田開発の奨励や上げ米の制、定免法の導入などを通じて、年貢として集める米を増やしつつ収入を安定させる政策を進めました。

この結果、幕府の財政は一気に豊かになったわけではありませんが、少なくとも収支の悪化に歯止めをかけ、しばらくの間は幕府の支配体制を維持できるだけの基盤を整えることに成功しました。

また、倹約令によって武士や町人のぜいたくを抑え、贅沢な行事や装飾を制限したことは、社会全体に「質素」を求める風潮を広げることにもつながりました。

こうした倹約は窮屈さをともないましたが、限られた財政資源を守るために必要な措置でもあり、幕府の権威を取り戻すうえで一定の効果を持ったと考えられます。

さらに、火事や飢饉への備えとして米の流通や備蓄に気を配り、物価の安定や治安維持にも目を配ったことで、江戸の町や農村社会の秩序を保つことにも貢献しました。

公事方御定書を整備して裁判や刑罰の基準を明確にしたことも、武士や町人、百姓を問わず法のもとでの処遇を安定させ、支配の正当性を強める役割を果たしました。

このように、享保の改革は財政と法制度の両面から幕府の土台を補強し、江戸時代中期の社会を支える重要な転換点となったのです。

後世の評価と現代への影響

徳川吉宗は、後世の歴史家から「幕府中興の祖」と呼ばれ、衰えかけていた江戸幕府の力を一度持ち直させた名君として評価されています。

特に、財政再建に向けて歳入の増加と歳出の削減を同時に進めた姿勢は、現代でいう財政健全化の先例として取り上げられることがあります。

一方で、年貢の増徴や倹約令の徹底は、農民や町人にとって重い負担でもあり、農村の困窮や一揆の一因になったとする批判的な見方も存在します。

それでも、政治が行き詰まりつつあった時期に、将軍自らが実務に目を配り、制度改革に踏み込んだ点は、江戸時代を通じた将軍像の中でも際立った特徴だといえます。

また、目安箱に代表される「庶民の声を聞こうとする姿勢」は、現代の政治におけるパブリックコメントや意見公募制度と重ねて語られることがあります。

公事方御定書による判例の整理と法の明文化も、後の近代法制の整備を考えるうえで、前段階として位置づけられることがあります。

さらに、吉宗が奨励したサツマイモなどの作物は、飢饉の際の救荒食として人々の命をつなぎ、日本の食文化や農業の多様化にも影響を与えました。

現代の日本史教育では、享保の改革は「江戸の三大改革」の最初の改革として紹介され、後の田沼意次の政治や寛政の改革と比較しながら、その長所と限界が学ばれています。

このように、徳川吉宗の改革は、一時期の財政や政治を立て直しただけでなく、政治参加のあり方や法制度の整え方など、現代にも通じる問題意識を投げかける存在として評価され続けているのです。

徳川吉宗の主な年表

西暦和暦主な出来事
1684年貞享元年紀州藩主徳川光貞の四男として生まれる。
1705年宝永2年紀州徳川家第5代藩主となり、将軍徳川綱吉から偏諱を受けて「吉宗」と改名する。
1716年正徳6年江戸幕府で将軍後見役に任じられ、幕政に本格的に関わり始める。
1716年享保元年徳川家継の死去にともない、徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任する。
1720年享保5年キリスト教関係を除く洋書の輸入を認めるなど禁書令を緩和し、西洋の知識の受け入れを進める。
1721年享保6年評定所前に目安箱を設置し、庶民からの意見や要望を直訴として受け付ける制度を始める。
1722年享保7年上げ米の制、小石川養生所、定免法などを実施し、享保の改革が本格化する。
1725年享保10年オランダ船から洋馬を輸入し、洋式馬術や馬医学の導入を進めるなど、実学と蘭学の萌芽が見られる。
1732年享保17年西日本を中心に享保の大飢饉が発生し、米価高騰や一揆を招く。幕府は米の回送や貸付などの救済策をとる。
1742年寛保2年裁判や刑罰の基準をまとめた法典「公事方御定書」が成立し、江戸幕府の司法制度が体系化される。
1745年延享2年将軍職を長男の徳川家重に譲って隠居し、大御所としてなお幕政に影響力を持ち続ける。
1751年寛延4年徳川吉宗が死去し、「幕府中興の祖」としての評価を残して生涯を終える。

まとめ|徳川吉宗が日本史で果たした役割

徳川吉宗は、財政難と政治のゆるみに直面していた江戸幕府を立て直し、「幕府中興の祖」と呼ばれるほどの影響を残した将軍です。

紀州藩主として培った実務感覚を生かし、1716年に第8代将軍に就任してからは、享保の改革を通じて幕政の全体を引き締めました。

新田開発や上げ米の制、定免法などによって年貢収入の安定化を図り、倹約令で無駄な支出を抑えることで、破綻に向かいつつあった幕府財政に一定の歯止めをかけました。

目安箱の設置では、庶民の声を政策に取り入れる仕組みを整え、小石川養生所の設置や町火消の整備といった具体的な施策につなげた点で、政治参加のあり方に新しい形を示しました。

公事方御定書の制定は、裁判や刑罰の基準を明文化し、判例を整理することで、江戸時代の司法をより一貫したものに近づけた試みであり、近代的な法意識への一歩とも評価されています。

その一方で、年貢増徴や倹約の強化は庶民に重い負担を強いる側面も持ち、すべてが成功であったわけではありませんが、それでも吉宗の改革は、江戸幕府が18世紀以降も存続していく土台を作ったという点で大きな意味を持ちました。

日本史の中で徳川吉宗は、単なる節約を命じた将軍ではなく、財政、司法、社会政策を総合的に見直し、政治の立て直しに自ら取り組んだ実務家として位置づけられます。

吉宗の取り組みを学ぶことは、厳しい状況の中でも現実的な改善策を積み重ねていくことの重要さや、財政と法制度、民意のバランスをどう取るかという、現代にも通じる課題を考えるきっかけにもなります。

この記事をきっかけに、享保の改革だけでなく、他の江戸の改革や、田沼意次や松平定信といった人物にも目を向けて比較していくことで、日本史の流れがより立体的に見えてくるはずです。

タイトルとURLをコピーしました