勝海舟は何をした人?簡単にわかる功績とエピソードを初心者向けに解説

勝海舟は何をした人?簡単にわかる功績とエピソードを初心者向けに解説 日本の歴史

勝海舟は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した武士であり政治家です。

特に江戸無血開城を実現して大きな戦乱を避けたことや日本の近代海軍の基礎づくりに関わったことで知られています。

また咸臨丸での渡米や坂本龍馬との関係など数多くのエピソードを持つ人物であり幕末という激動の時代を象徴する存在の一人と言えます。

この記事では勝海舟が何をした人なのかという疑問に答えながら代表的な功績や人物像を初心者向けにわかりやすく解説していきます。

勝海舟とは?まずは簡単に人物像を知る

勝海舟の基本プロフィール

勝海舟は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した武士であり政治家です。

文政6年に江戸で生まれ本名を勝麟太郎といいのちに勝安芳と改名し勝海舟は号として知られています。

江戸幕府の幕臣として仕え陸軍総裁などを務めたあと明治政府では初代海軍卿となり近代日本の軍事と海軍政策に深く関わりました。

1899年に東京で亡くなるまで新旧両方の政権に関わり続けた数少ない人物の一人です。

幕末の動乱期に活躍した理由とは

勝海舟が幕末の動乱期に頭角を現した理由の一つは若い頃から蘭学を学び西洋式の兵学や航海術に通じていたことです。

ペリー来航以後日本は欧米列強への対応を迫られましたが海や軍事に関する知識を持つ人材は非常に限られていたため海舟は幕府内で貴重な存在となりました。

さらに各国の情勢を踏まえた現実的な国際感覚を持ち武力衝突を避けて日本を近代国家へと導くべきだという考えを持っていたことも大きな特徴です。

こうした知識と考え方が後に江戸無血開城の交渉や海軍育成の場面で発揮され勝海舟は幕末を代表するキーパーソンとして歴史に名を残すことになりました。

勝海舟は何をした人?3つの代表的な功績

1. 江戸無血開城を実現した西郷隆盛との歴史的交渉

勝海舟の最大の功績の一つが1868年の江戸無血開城を実現したことです。

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ新政府軍が東海道を進軍する中で江戸は戦場になる危機に直面していました。

当時江戸幕府側の陸軍総裁であった勝海舟は西郷隆盛ら新政府側の指導者と会談し江戸城を無血で明け渡す条件をまとめました。

この交渉では徳川慶喜の身柄の安全や市民への略奪や放火の禁止などが取り決められ結果として大都市江戸は戦火を免れることになりました。

もしこの時に激しい市街戦が起こっていれば多くの人命と歴史的な町並みが失われたと考えられており勝海舟の判断と交渉は日本史上でも特に重要な和平交渉として高く評価されています。

2. 日本の海軍育成に尽力|海軍創設の父と言われる理由

勝海舟は日本の近代海軍づくりにも大きな役割を果たした人物です。

若い頃から蘭学を通じて西洋の兵学や航海術を学び長崎の海軍伝習所で本格的に訓練を受けました。

1860年には軍艦咸臨丸の艦長として遣米使節に随行し日本人の手による初の本格的な太平洋横断航海を成功させています。

帰国後は軍艦奉行などを務め1863年ごろに神戸海軍操練所を開いて多くの若者に航海術や海軍の知識を教えました。

この操練所には坂本龍馬や陸奥宗光など後に日本の政治や外交の第一線で活躍する人物たちが集まり勝海舟は彼らを通じて新しい時代の人材育成にも関わりました。

明治維新後は明治政府の下で海軍卿となり近代海軍制度の整備にも携わったため勝海舟は日本における海軍創設の父の一人として語られています。

3. 幕府と新政府の橋渡し役として混乱を最小限に抑えた功績

勝海舟の功績は一度の交渉にとどまらず幕府と新政府の橋渡し役としても発揮されました。

大政奉還から戊辰戦争へと情勢が急激に動く中で勝海舟は徳川慶喜に無益な戦いを避けるべきだと進言し徹底抗戦ではなく政権移行を受け入れる方向へと導きました。

江戸無血開城後も旧幕臣たちの処遇や徳川家の存続などの問題にあたり旧支配層が一挙に没落して社会が大混乱に陥ることを防ぐために尽力しました。

明治政府でも一定の役職を与えられ海軍卿や枢密顧問官などを歴任したことからも新政府側から信頼されていたことがうかがえます。

旧幕府側でありながら新政府との対立をあおるのではなく両者の間を取り持ちできるだけ平和的に時代を移行させようとしたことが勝海舟の大きな特徴であり日本の近代化を比較的スムーズに進める一因となりました。

勝海舟の生涯における重要エピソード

咸臨丸での渡米と航海の裏側

1860年に日本とアメリカが日米修好通商条約の批准書を交換することになりその際に随伴艦として軍艦咸臨丸が太平洋を渡る計画が立てられました。

咸臨丸には軍艦奉行の木村喜毅や通訳のジョン万次郎福澤諭吉などとともに海軍操練所の責任者であった勝海舟も乗り込み日本人中心の乗組員による本格的な太平洋横断航海に挑みました。

この航海は日本人が主体となって行った初めての太平洋横断とされておりサンフランシスコまでおよそ1か月以上をかけて無事に到着したことで後に日本史上の大きな出来事として語られるようになりました。

一方で船は整備不十分な面もあり航海中は激しい風雨に見舞われ多くの日本人乗組員がひどい船酔いに苦しんだと伝えられています。

勝海舟自身も船酔いがひどく実際の操船や測量ではアメリカ海軍士官ジョンブルックらの助けが大きかったという指摘もあり表向きの「壮挙」の裏側には多くの苦労と支えがあったことがわかります。

しかし日本人だけの力で帰路の航海を成し遂げるなどこの経験を通じて勝海舟は世界の広さと欧米の技術力を実感し鎖国的な発想では日本が立ちゆかないという強い確信を持つようになりました。

坂本龍馬との師弟関係|海舟が龍馬に託した思い

土佐出身の坂本龍馬は江戸で剣術修行を行ったのち時勢に目覚めて尊王攘夷運動に身を投じ最終的には脱藩して自由な立場から動き始めました。

龍馬はやがて開国派として知られる勝海舟と出会いその考え方に強い感銘を受けて門下に入り神戸海軍操練所などで航海術や西洋式の軍事知識に触れながら海軍や国家のあり方について学んでいきました。

よく知られているのが龍馬が当初は尊王攘夷派の立場から勝海舟を討つつもりで訪ねたもののその見識に圧倒されて逆に弟子入りしたというエピソードです。

この話は後世の伝記や小説の中で広く語られる一方で史料上は創作的な脚色が含まれているとする見方もあり事実として断定するよりも両者の関係性を象徴する物語として理解されることが多いです。

勝海舟は龍馬の柔軟な発想と大胆な行動力を高く評価し藩の枠にとらわれない動きを期待して薩摩藩とのつながりを持たせるなど新しい時代の仕事を託していきました。

実際に薩摩藩は後に亀山社中や海援隊を資金面で支援することになり龍馬が薩長同盟の仲介役や貿易事業の立ち上げに動けた背景には勝海舟の後押しと人脈づくりがあったと考えられます。

勝海舟と坂本龍馬の師弟関係は単なる学校の先生と生徒という枠を超え日本の進むべき方向を議論し未来を託し合うパートナーのような関係であったとイメージするとわかりやすいです。

幕末の価値観を変えた勝海舟の名言

勝海舟は政治家としてだけでなく鋭い言葉を数多く残した人物としても知られておりその語録は「氷川清話」などの形で伝えられ今でもしばしば引用されています。

代表的なものとして「行いは己のもの批判は他人のもの知ったことではない」という言葉があり他人の評価に振り回されず自分のやるべきことに集中すべきだという姿勢がよく表れています。

また功名心が強すぎる者はかえって大事を成し遂げられない何事も無我の境地で取り組むべきだという趣旨の言葉も残しており表面上の名誉ではなく中身のある仕事を重んじる価値観が読み取れます。

さらに勝海舟は若者たちに対して机上の学問だけでなく実地で物事を学び視野を広げることの大切さを説き時には辛辣な表現を用いながらも現実を直視する態度を求めました。

こうした名言や語録は単に格好のよいフレーズというだけでなく江戸から明治へという激動の時代を生き抜いた一人の実務家としての実感が込められているため現代のビジネスや人生観の話題でも引用され続けています。

勝海舟が評価される理由とは?人物像を深堀り

冷静な判断力と交渉術

勝海舟が現代でも高く評価されている大きな理由の一つは状況を冷静に見極めて最悪の事態を避ける判断力とそれを具体的な形にする交渉術にあります。

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたあと多くの幕臣が徹底抗戦を主張する中で勝海舟は戦いを続ければ日本全体が疲弊し列強の干渉を招きかねないと考え武力ではなく交渉による解決を選びました。

1868年に行われた西郷隆盛との会談では徳川家の処遇や江戸の市民生活の保護など難しい条件が絡み合う中で互いの妥協点を探り江戸無血開城という形で大きな流血を防ぐことに成功しました。

このとき勝海舟は自分が旧幕府側の人間であることを承知のうえであくまで日本全体の将来を優先して行動しており個人的な立場や出世よりも国の安定を重んじる姿勢が彼の人物評価をさらに高めています。

結果として徳川家は藩として存続し江戸の町は大規模な戦火を免れたため勝海舟の冷静な判断と交渉術は「維新最大の功績の一つ」として後世の歴史家からも高い評価を受けています。

多くの人材を育てた指導力

勝海舟は自らが前面に出て活躍しただけではなく次の時代を担う多くの若者を育てた指導者としても知られています。

長崎で海軍伝習を受けた経験を生かして神戸海軍操練所を設立し西洋式の航海術や砲術だけでなく国際情勢や国家観についても若者たちに語りかけました。

この操練所には坂本龍馬や陸奥宗光をはじめとする各藩の俊才や脱藩浪士が集まり藩という枠にとらわれない交流が生まれたことで後の薩長同盟や新政府づくりにつながる人脈が築かれていきました。

勝海舟は弟子たちに対して頭ごなしに命令するのではなく自分の意見を述べたうえで自分自身の頭で考え行動することを求めたと伝えられておりこの自由で実践的な教育が多くの自立した人材を生み出す土台となりました。

明治維新後も旧幕臣の生活支援や人材の再配置に心を砕き多くの人が新しい時代の中で生きていけるように陰から支えた点も含めて人を育てることに力を注いだ指導者として評価されています。

時代の変化を読み取る先見性

勝海舟は早い時期から日本が欧米列強の中で生き残るためには鎖国を続けるのではなく西洋の技術や制度を取り入れつつ国力を高める必要があると考えていました。

若い頃に蘭学を学び長崎の海軍伝習所で西洋式の軍事や航海術に触れたことさらに1860年の咸臨丸での渡米を通じて欧米諸国の実力を体感したことがこうした先見的な考え方の背景にありました。

明治時代に入ってからも勝海舟は清国や朝鮮との戦争には慎重な立場を取り軍事的拡大よりも国内の整備や国民の生活の安定を優先すべきだと主張しており拡張路線一辺倒ではないバランス感覚を持っていたことがわかります。

また勝海舟は時代が変われば価値観や制度も変わるのは当然であり個人の感情や旧来のしきたりにこだわり過ぎると新しい流れから取り残されるという考えを語録の中で繰り返し述べています。

旧幕府の高官でありながら明治政府でも参議や海軍卿として働き晩年は枢密顧問官として意見を述べ続けた経歴からも時代の変化を読み取り自分の役割を柔軟に変えていける人物であったことがうかがえこの点も勝海舟が「単なる幕臣」以上の存在として評価される理由と言えます。

勝海舟についてよくある質問(FAQ)

勝海舟はなぜ江戸無血開城を実現できたの?

江戸無血開城とは1868年に新政府軍が江戸城に迫った際に大規模な戦闘を行わず江戸城を引き渡した出来事のことです。

当時江戸は日本最大の人口を抱える都市でありこの地域で激しい市街戦が起これば多くの市民の命や町並みが失われる危険がありました。

勝海舟は欧米列強の軍事力や国際情勢を理解しており内戦が長引けば列強の干渉を招き日本全体が不利な立場に追い込まれると考えていました。

そのため旧幕府側の立場でありながら徳川家に徹底抗戦ではなく政権の引き渡しと江戸城明け渡しを受け入れるよう説得し戦いを避ける方向に舵を切りました。

一方新政府軍側でも長く戦争が続けば被害が拡大し新政権の発足にも支障が出るという危機感があり西郷隆盛は勝海舟との直接会談に応じ徳川家の存続や市民保護など一定の条件を認める形で合意に至りました。

旧幕府側と新政府側の双方から一定の信頼を得ていた勝海舟が間に立ち現実的な条件を示しながら交渉をまとめたことが江戸無血開城という結果につながり大都市の壊滅と多くの流血を防ぐことになったのです。

勝海舟が坂本龍馬に与えた影響は?

坂本龍馬は土佐藩を脱藩したのち江戸で勝海舟と出会いその思想に強い感銘を受けて弟子入りしたと伝えられています。

それまで攘夷の立場に傾いていた龍馬は勝海舟から海防や国際情勢の現実を学び日本が生き残るには開国と近代化が不可欠だという考えに変わっていきました。

やがて勝海舟が神戸海軍操練所の設立を幕府から許可されると龍馬はその中心メンバーとして参加し塾頭も務めながら航海術や海軍運営だけでなく国家のあり方についての議論を重ねていきます。

こうした経験を通じて龍馬は海運と貿易を通じて日本を豊かにしながら戦争を避けるという発想を身につけ後の亀山社中や海援隊の活動薩長同盟の仲介といった動きへとつながっていきました。

勝海舟の側から見れば坂本龍馬は自分の構想を若い世代として実行に移してくれる存在であり龍馬の大胆な行動力の背景には海舟から受けた思想的な影響と人脈の後押しがあったと考えられます。

勝海舟の名言で有名なものは?

勝海舟は晩年に語った話をまとめた「氷川清話」などを通じて多くの言葉を残しておりその名言は現在でもよく引用されています。

その中でも特に有名なのが「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。」という言葉で自分のやるべきことに集中し周りの評価に振り回されるべきではないという姿勢を端的に表しています。

また「功名をなそうという者にはとても功名はできない何ごとをするにも無我の境地で取り組まなければならない」といった趣旨の言葉もあり名誉や打算ではなく自分の使命に没頭することの大切さを説いています。

さらに机上の学問だけに偏ることを戒め実際に世界を見て経験を重ねる重要性を語る発言も多く残されており幕末から明治にかけて第一線で活動した実務家ならではの現実感に満ちた人生訓として今も読み継がれています。

勝海舟の年表

西暦和暦主な出来事
1823年文政6年江戸本所亀沢町の下級幕臣の家に勝麟太郎(のちの勝海舟)が生まれる。
1831年天保2年幼少期に野良犬に噛まれて生死の境をさまよい、父・勝小吉の荒療治と祈願によって一命を取りとめる。
1850年嘉永3年蘭学修学の便を求めて赤坂田町に移り、兵学塾を開いて洋式兵学の指導を始める。
1853年嘉永6年ペリー来航に際して海防意見書を幕府に提出し、西洋式兵学校の設立などを建言して注目を集める。
1855年安政2年海防掛視察団として伊勢・大坂湾を巡検したのち、長崎海軍伝習所に幹部伝習生として派遣され、本格的に海軍と航海術を学ぶ。
1860年万延元年軍艦操練所教授方頭取として咸臨丸を率い、日米修好通商条約批准書交換の随伴艦として太平洋横断航海を成し遂げる。
1862年文久2年文久の改革を背景に軍艦操練所頭取・軍艦奉行並となり、日本全体の海軍整備構想を推し進める立場に立つ。
1863年文久3年将軍徳川家茂の大坂湾巡視を案内し、神戸海軍操練所設立を提案して許可を得て、坂本龍馬らを含む諸藩士や脱藩浪士を受け入れる。
1864年元治元年軍艦奉行へ昇進するが、神戸で多くの脱藩浪士を庇護したことなどを理由に11月に免職となり、翌慶応元年に神戸海軍操練所も廃止される。
1866年慶応2年第二次長州征討が行き詰まる中で軍艦奉行に復職し、安芸宮島大願寺で長州藩の広沢真臣らと会談して停戦条件をまとめる。
1868年慶応4年/明治元年戊辰戦争で徳川方の軍事責任者(陸軍総裁・軍事取扱)となり、西郷隆盛との会談によって江戸城無血開城を実現して江戸の市街を戦火から救う。
1872年明治5年徳川家に従って一時駿府に移ったのち東京に戻り、明治政府で海軍大輔に就任して新政府海軍の制度づくりに関わる。
1873年明治6年参議兼海軍卿となり、政争には距離を置きつつ海軍行政と旧幕臣の処遇に心を配る。
1875年明治8年元老院議官に転じるが同年辞任し、以後は在野の元勲として旧幕臣の生活救済や西郷隆盛の名誉回復に力を注ぐ。
1887年明治20年華族令により伯爵を授けられ、公的には旧幕臣代表のひとりとして位置付けられる。
1888年明治21年枢密顧問官となり、清国との戦争や朝鮮出兵に慎重姿勢を貫きつつ、回想録や開国史料の整理・刊行を進める。
1899年明治32年明治32年1月19日、東京赤坂の自邸で死去する。

まとめ|勝海舟が“何をした人か”が簡単に理解できるポイント

日本の未来を見据えた行動力

勝海舟は単に幕末の政治家というだけでなく日本の将来を見据えて行動した人物として評価されています。

黒船来航以降の国際情勢を踏まえ日本が欧米列強と渡り合うためには開国と近代化が不可欠だと早い段階から考えていました。

長崎海軍伝習所での学びや咸臨丸での渡米経験を通じて西洋の技術力と国力を肌で感じ鎖国的な姿勢を続けていては日本が立ちゆかないと確信するようになりました。

こうした実体験に裏打ちされた危機感と未来像があったからこそ旧幕府側でありながら徹底抗戦ではなく政権移行と和平交渉の道を選び国全体の損失を抑えようとしたのです。

幕末の混乱を最小限に抑えた交渉役

勝海舟は1868年の江戸無血開城をはじめとして幕府と新政府のあいだで重要な交渉を担い内戦による混乱を最小限に抑える役割を果たしました。

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ新政府軍が江戸へ進軍する中で多くの人が徹底抗戦を主張する一方勝海舟は戦いを続ければ市民の犠牲や列強の干渉が避けられないと判断しました。

そこで西郷隆盛との会談に臨み徳川家の存続や市民の保護などの条件を含めた江戸城明け渡しの合意をまとめることで大都市江戸を戦火から守ることに成功しました。

その後も徳川家や旧幕臣たちの処遇問題に関わり一気に旧支配層を切り捨てるのではなく徐々に新体制へと軟着陸させる形を模索したことが明治維新の比較的穏やかな政権交代につながったと考えられています。

後世に大きな影響を与えた業績の数々

勝海舟の仕事は幕末の一時期にとどまらず後世に大きな影響を与える形で受け継がれています。

長崎海軍伝習所での学びを生かして神戸海軍操練所を設立し日本の近代海軍を支える人材育成に取り組んだことは明治以降の海軍発展の土台となりました。

坂本龍馬をはじめとする多くの若者に国家観や国際感覚を説き藩を超えたネットワークづくりを促したことは薩長同盟や新政府樹立といった大きな動きの背景にもなっています。

さらに晩年に語った「氷川清話」などを通じて残された言葉や回想は単なる思い出話ではなく実務家としての視点から見た歴史資料としても価値が高く現代の私たちが幕末維新期を理解するうえで欠かせない手がかりとなっています。

江戸無血開城の和平交渉近代海軍の基礎づくり人材育成や言論活動などを総合して見ると勝海舟は日本が大きな転換期を乗り越えるうえで欠かせない役割を果たした人物。

そして「何をした人か」と問われれば日本の将来を見据えつつ混乱を最小限に抑えた調整役であり改革の推進者であったとまとめることができます。

出典情報:Wikipediaコトバンク国立国会図書館

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