坂本龍馬は、江戸時代末期に活躍し、明治維新への道を開いた土佐出身の志士です。
本記事では、龍馬がどのような時代に生まれ、どんな考えを持って行動したのかを、難しい専門用語をできるだけ使わずに解説します。
薩長同盟を仲介したことや、日本初の商社といわれる亀山社中、そして新しい国づくりの構想である船中八策など、代表的な功績を整理して紹介します。
あわせて、その働きがなぜ日本史の転換点になったのか、現代を生きる私たちにどのような影響を与えているのかも分かりやすくお伝えします。
坂本龍馬はどんな人物だったのか?
坂本龍馬の生い立ちと背景
坂本龍馬は1835年に土佐藩の城下町である現在の高知市に生まれました。
土佐藩の中でも裕福な商家の分家にあたり、5人兄弟の末っ子として育ちました。
子どものころは泣き虫だったとも伝えられますが、成長するにつれて剣術に打ち込み、14歳ごろから土佐の道場で腕を磨きました。
その後、さらに上達するために江戸にも出て修業し、北辰一刀流の腕前を高く評価されるようになります。
やがて龍馬は武士として藩に仕える道だけでなく、日本全体の行く末を考えて動くようになり、土佐藩という枠にとらわれない行動へと踏み出していきました。
龍馬が活躍した幕末という時代とは?
坂本龍馬が生きた幕末とは、江戸幕府の終わりの時期を指し、一般的には1854年の日米和親条約による開国から1867年の大政奉還までのおよそ十数年から数十年の期間をいいます。
この時代の日本は、欧米列強の圧力によって鎖国を続けることが難しくなり、不平等条約への不満や経済の混乱が広がっていました。
国内では、幕府の弱体化が進む一方で、薩摩藩や長州藩など有力な藩が台頭し、幕府のあり方や日本の進むべき道をめぐって対立が激しくなっていきました。
尊王攘夷や開国などさまざまな考え方がぶつかり合う中で、内戦の危機も高まり、日本の政治や社会の仕組みを大きく変えざるをえない状況になっていました。
龍馬は、まさにこの激動の幕末の只中で、対立する勢力の間を行き来しながら、新しい国のかたちを模索して行動した人物でした。
坂本龍馬は何をした人?主要な功績を簡単に解説
1. 薩長同盟を仲介し、倒幕への道を開いた
薩長同盟は薩摩藩と長州藩が手を結ぶために結ばれた政治的な約束ごとです。
もともと薩摩藩と長州藩は完全に対立する敵同士でお互いを強く警戒していました。
龍馬はどちらの藩にも属さない立場を生かして両方の考えを聞き取り信頼を得ながら仲介役として動きました。
1866年に京都で同盟が結ばれ龍馬はその場に立ち会い口約束の内容を確認する役も務めました。
この薩長同盟によって幕府に対抗できる強い勢力が生まれ倒幕と明治維新へと進む大きな流れが決まっていきました。
2. 日本初の商社「亀山社中(海援隊)」を設立した
亀山社中は1865年ごろに龍馬が長崎でつくった貿易と海運を行うための私的な組織です。
武器や物資の売買や輸送を行う会社のような働きをし西洋の船や海運の仕組みも積極的に取り入れました。
土佐藩だけでなく各地の脱藩浪士たちが集まり航海の訓練や海軍のような活動もおこなっていました。
その後亀山社中は土佐藩の正式な組織と位置付けられ名前を海援隊と改めて活動を続けました。
藩や幕府に頼らず民間の立場で国内外と取引しようとした点から亀山社中は日本初の商社と呼ばれることがあります。
こうした活動は後の日本の海運業や貿易の発展につながる経験となり経済の近代化を進める土台になりました。
3. 新しい国家構想「船中八策」をまとめた
船中八策は1867年に龍馬が土佐藩の船での移動中にまとめたとされる新しい国のつくり方の提案書です。
そこではまず大政奉還を行い将軍が持っている政治の権限を朝廷に返すことが柱として掲げられました。
そのうえで議会を開き選ばれた代表が話し合いで政治を進める仕組みを整えることも盛り込まれていました。
ほかにも憲法の制定や外交と軍事の体制づくりや税制や経済のあり方など八つの大きな方針が整理されています。
船中八策の考え方は後に出される新政府の基本方針や五箇条の御誓文と重なる点が多く日本の近代国家づくりに強い影響を与えたと考えられています。
坂本龍馬の活躍が日本史に与えた影響
明治維新への流れを加速させた理由
明治維新は江戸時代の幕藩体制を終わらせ中央集権の近代国家をつくるために行われた一連の改革を指します。
その前段階として江戸幕府の政治的な力が弱まり列強への対応や国内の不満を抑えられなくなっていたことが背景にありました。
龍馬はこうした状況の中で薩摩藩と長州藩を結び付ける薩長同盟を仲介し幕府に対抗できる大きな勢力を生み出しました。
この同盟が成立したことで倒幕の動きは一気に現実味を増し明治維新へ向かう流れが加速したと評価されています。
一方で龍馬は単に武力で幕府を倒すのではなく大政奉還という政権を平和的に返上させる構想も土佐藩などを通じて後押ししました。
将軍が自ら政権を朝廷に返すという道筋が示されたことで激しい内戦を長引かせずに体制を転換する可能性が開かれました。
さらに龍馬がまとめたとされる船中八策や新政府綱領八策は新しい政府が進むべき方向を示し維新後の政治の枠組みに影響を与えました。
そのため龍馬は自ら新政府に参加する前に暗殺されましたが体制転換のスピードを早めた触媒のような存在として位置付けられています。
龍馬が評価されるポイントと現代への影響
龍馬が特に評価されている点の一つは土佐藩という身分の枠を越えて各地の藩や立場の違う人々を結び付けた調整力と行動力です。
薩摩藩や長州藩の有力者と直接交渉し敵対関係にあった両者を同盟へと導いた姿はしがらみにとらわれないネットワーカーの先駆けのように語られています。
また亀山社中や海援隊の活動に見られるように民間の立場から貿易や海運に取り組み新しい経済の仕組みを試みた点も近代的なビジネス感覚として注目されています。
海外の情報を積極的に学び日本も世界の中で生き残るために体制を変えなければならないと考えたグローバルな視野も評価の対象になっています。
龍馬の人気は明治以降の伝記や小説テレビドラマなどを通じて高まり日本で最も知られた歴史上の人物の一人といわれるほどになりました。
理想に向かって既存の枠を飛び越え行動する人物像は変革期のリーダー像としてしばしば現代の政治やビジネスの議論でも引き合いに出されています。
高知県などでは龍馬ゆかりの地が観光資源となり地域のブランドづくりにも活用されていて歴史的人物でありながら現代の社会や経済にも影響を与え続けています。
このように龍馬は具体的な政治の成果だけでなく新しい時代を切り開こうとする姿勢そのものが日本人の「変革」のイメージと重ねられて受け継がれているといえます。
坂本龍馬に関するよくある質問
なぜ坂本龍馬は全国的に人気なのか?
坂本龍馬が全国的に人気になった理由の一つは明治以降に多くの伝記や小説で理想的なヒーローとして描かれてきたことです。
「国のために身分を超えて行動した人物」というイメージが作られ学校教育や道徳の教材などにも取り上げられたことで広く知られる存在になりました。
特に戦後は司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」や数多くのテレビドラマや大河ドラマが人気を集め龍馬像が国民的なヒーローとして定着していきました。
こうした作品では失敗を恐れず新しい日本を夢見て動き回る姿が強調され時代の閉塞感を打ち破ろうとする前向きな人物像として共感を呼びました。
また高知県や長崎市などゆかりの地では記念館や銅像観光イベントが整備され地域の観光ブランドとしても龍馬の名前が繰り返し発信されています。
観光やメディアで接する機会が多いことに加え時代を変えようとする行動力や自由な生き方が現代の人びとにも魅力的に映ることが人気の背景にあります。
そのため龍馬は歴史上の業績だけでなく「こうありたい自分」を重ねやすい人物として現在まで根強い人気を保ち続けているといえます。
本当に「日本を変えた」のか?史実との比較
坂本龍馬が「日本を変えた人物」とよく言われるのは薩長同盟の仲介や大政奉還の構想船中八策など明治維新につながる動きに深く関わったからです。
一方で残されている史料はそれほど多くはなく後の時代に作られた物語やイメージが上乗せされている面があることも研究者によって指摘されています。
薩摩藩と長州藩の同盟成立や大政奉還の実行には多くの藩の政治家や幕府側の判断も関わっていて龍馬だけの働きで成し遂げられたわけではありません。
ただし龍馬が対立していた勢力どうしをつなぎ新しい方向性を言葉や構想として示したことが大きな影響を与えた点は史料からも確認できます。
龍馬の動きがなくてもいずれ幕府の体制は限界に達していたと見る見解もありますがその転換の仕方やスピードには龍馬の存在が少なからず影響したと考えられます。
その意味で龍馬は一人で日本を変えた英雄というよりも多くの人物が関わる歴史の流れの中で変化を早め方向付けを助けたキーパーソンと捉えると実像に近くなります。
英雄像としての龍馬と史料から見える龍馬には差がありますが理想を掲げて行動し対立を乗り越えようとした姿は現代に通じる価値を持つ存在として評価されています。
坂本龍馬の主な出来事(年表)
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1835年 | 天保6年 | 土佐国高知城下(現在の高知県高知市上町)に坂本龍馬が生まれる。 |
| 1853年 | 嘉永6年 | 小栗流の目録を得て江戸へ自費遊学し、北辰一刀流千葉道場などで剣術修行を行う。 |
| 1862年 | 文久2年 | 3月24日に土佐藩を脱藩し、のちに江戸で勝海舟の門人となる。 |
| 1864年 | 元治元年 | 勝海舟の建言により神戸に設置された神戸海軍操練所に同行し、併設の海軍塾で海軍の修行と運営にあたる。 |
| 1865年 | 慶応元年 | 長崎で亀山社中を結成し、貿易・海運・航海訓練などを行う浪士結社として活動を始める。 |
| 1866年 | 慶応2年 | 1月21日に京都で薩摩藩と長州藩の薩長同盟が締結され、龍馬が仲介役として重要な役割を果たす。 |
| 1867年 | 慶応3年 | 土佐藩船「夕顔」の船中で、政権返上と新国家体制の方針を示す船中八策を構想し、後藤象二郎らに提示する。 |
| 1867年 | 慶応3年 | 亀山社中が土佐藩の正式組織として位置づけられ、名称を海援隊と改めて活動を続ける。 |
| 1867年 | 慶応3年10月14日 | 大政奉還が成立し、徳川慶喜が政権を朝廷に返上する。龍馬の提案した船中八策の構想がこの動きの一つの背景となる。 |
| 1867年 | 慶応3年11月15日 | 京都河原町の近江屋二階で中岡慎太郎とともに暗殺される。享年31とされる。 |
まとめ:坂本龍馬が“何をした人か”はここを押さえればOK
坂本龍馬は1830年代に土佐で生まれ武士という身分の枠を越えて日本全体の将来を考えて行動した幕末の志士です。
薩摩藩と長州藩というライバル同士を結び付ける薩長同盟を仲介し幕府に対抗できる勢力を作ったことで倒幕と明治維新への流れを強めました。
長崎では亀山社中や海援隊を組織して貿易や海運に取り組み民間の立場から新しい経済活動に挑戦した点も日本初の商社的な試みとして評価されています。
さらに船中八策と呼ばれる国家構想をまとめ大政奉還や議会政治憲法制定など後の日本の政治制度につながる考え方をいち早く示しました。
歴史の流れは多くの人びとの働きでつくられたもので龍馬一人だけが日本を変えたわけではありませんが体制転換のスピードを速め方向性を示した重要な存在だったといえます。
龍馬が今も人気を集めるのは対立を越えて人と人をつなぎ世界を見据えながら新しい時代をつくろうとした姿が現代を生きる私たちにも重ねやすいからだと考えられます。
坂本龍馬が何をした人かを一言で表すなら江戸幕府が終わり明治という新しい時代が始まるきっかけをつくった調整役であり未来を構想したリーダーとまとめることができます。

