竹崎季長は、鎌倉時代に活躍した肥後国出身の御家人で、元寇の戦いでの武勇と、その体験を記録した「蒙古襲来絵詞」の主人公として知られます。
絵巻には、博多での奮戦や鎌倉幕府に対する戦功の訴えが描かれ、当時の武士の装備や価値観を具体的に伝えています。
本記事では、生涯の概要から元寇での活躍、絵巻の名場面や関連人物までをわかりやすく解説し、学習やレポートにそのまま活用できる形で整理します。
竹崎季長とはどんな人物?
生まれた時代と出身地
竹崎季長は鎌倉時代中期に活動した武士で、出身は肥後国竹崎郷で現在の熊本県宇城市松橋町周辺とされます。
生年は諸説があり確定していませんが、寛元4年の1246年生と伝える解説も見られます。
蒙古襲来絵詞の公的解説では肥後国の御家人であることが明記され、13世紀末頃の出来事を同時代的に描いた資料として評価されています。
鎌倉時代の武士としての背景
季長は肥後を本拠とする菊池氏の一族に連なる御家人で、同族間の所領争いで没落し所領を失った経歴が伝えられます。
所領回復と恩賞獲得の機会を求め、1274年の文永の役に参陣したことが季長の行動の出発点として位置づけられます。
後年に自らの戦いを記録した蒙古襲来絵詞を作らせたことで、当時の武具や戦法、武士の価値観が具体的にわかる一次史料として重要視されています。
竹崎季長は何をした人?
蒙古襲来(元寇)での勇敢な戦い
竹崎季長 は、肥後国の御家人として、文永11年(1274年)の 文永の役 に参陣し、少数の家来を率いて敵中に突入し「先懸(さきがけ)」として元軍に立ち向かったと伝えられています。
さらに弘安4年(1281年)の 弘安の役 にも参戦し、大軍の元・高麗連合軍に対しても奮戦したとされます。
これらの戦いの中で、彼自身が乗っていた馬が射殺される場面などが、絵巻 蒙古襲来絵詞 に描かれており、当時の激戦の様子を伝えています。
「蒙古襲来絵詞」に自らの戦いを描かせた理由
竹崎季長は自身の戦功を可視化するため、自らの武勇を記録した「蒙古襲来絵詞」を制作させました。
この絵詞には、戦場での騎馬、弓矢、鉄砲類や火薬兵器「てつはう」などの元軍の武器、そして日本側の武装や戦いの動きが細かく描写されており、武士としての自らの資格・功績を示す手段ともなっていたとされています。 :contentReference[oaicite:8]{index=8}
戦功を鎌倉幕府に訴えたエピソード
文永の役後、竹崎季長は恩賞がなかなか下らないことに不満を抱き、馬を旅費にして鎌倉まで出向き、約三カ月にわたって幕府に対して自らの先陣・戦功を訴えたという記録があります。
その結果、肥後国海東郡(現在の熊本県下益城郡付近)の地頭職を得たと伝えられ、戦功を通じて自身の地位と所領を回復した典型的な例として紹介されています。
竹崎季長の功績と影響
元寇での活躍が後世に伝わった理由
竹崎季長は、文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)に際し、肥後国(現在の熊本県)を本拠とする御家人として参戦し、先駆け(「先懸」)として敵勢に突入したことが記録されています。
戦いの後、鎌倉幕府に対して自らの戦功を直訴し、報賞として肥後国海東郷の地頭職を得たことが、身分に恵まれなかった地方武士にとって大きな転機となりました。
さらに、彼は自らの戦功を描いた絵巻物である蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)を制作させ、合戦の様子や武具・戦術・武士の姿などを後世に伝える貴重な史料を残しました。
鎌倉武士の忠義と誇りを象徴する人物
季長の行動は、所領を失った地方武士が戦功を立てて恩賞を勝ち取るという鎌倉時代の御家人の典型的な道筋を体現しています。
また、地方から内地へ出向いて幕府に自身の手柄を訴えたという点で、「武功を誇示し、名誉を自ら求める」姿勢が際立っており、当時の武士階級の価値観、忠義・武勇・恩賞獲得を象徴する人物と評価されています。
このように竹崎季長は、戦場での実績と、それを記録・発信する媒体を用いたことで、鎌倉時代の武士像を今日まで伝える役割も果たしており、日本史の中でもユニークな存在と言えます。
竹崎季長をもっと知るために
「蒙古襲来絵詞」に描かれた名場面
絵巻 蒙古襲来絵詞 には、元軍(モンゴル・高麗連合軍)が用いた火薬兵器「てつはう(鉄炮)」が描かれており、その炸裂と煙の描写は当時の戦場の緊迫を伝える場面として知られています。
また、竹崎季長自身が矢に射抜かれた馬上の姿が描かれており、緊迫した状況の中で奮戦する武士像が視覚的に伝わってきます。
さらに「蒙古兵三人」と季長が対峙する構図の場面も有名ですが、近年の研究ではこの三人の兵士は後世に加筆された可能性が高いとされています。
史料や絵巻からわかる当時の武士の姿
絵巻の弓の形状や矢羽根、武具・甲冑の表現を詳細に分析した学術論文によれば、当時の武士たちが使用していた弓の二つに割れた部分や矢の構え方が描写と一致しており、史料価値が高いとされています。
また、文永・弘安の役における武士の参陣や戦功申請の様子が絵詞のテキスト部分に記録されており、武士が戦場だけでなく幕府への訴えや名誉獲得を意識していた姿も読み取れます。
関連する人物・出来事(北条時宗・元寇の戦い)
北条時宗 は鎌倉幕府の第8代執権で、元軍の来襲に際して防備を強化し、博多湾に築いた石築地(いしづきち)などの対策を実施しました。これにより文永・弘安の両役で日本側の防衛が組織的に進められた背景があります。
また元寇(つまり 文永の役 と 弘安の役)はそれぞれ 1274 年および 1281 年に発生し、絵巻制作の背景となった重要な出来事です。
まとめ|竹崎季長はどんな人だったのか
勇敢な鎌倉武士として名を残した理由
竹崎季長は肥後国の御家人として元寇に参戦し、1274年と1281年の合戦での奮戦と、その経験をもとに制作させた「蒙古襲来絵詞」によって名を後世に伝えました。
自らの戦功を可視化して記録に残し、鎌倉幕府に恩賞を求めた行動は、戦場の武勇だけでなく政治的な働きかけまで含めて評価される理由になります。
日本史における竹崎季長の意義
蒙古襲来絵詞は当時の出来事をほぼ同時代に描いた可視的な記録であり、武具や戦術、合戦の進行、武士の価値観を読み解く一次史料として大きな意義があります。
地方武士が武功と記録を武器に身分と所領回復を図った実例として、鎌倉武士の忠義と誇り、そして自己顕彰の実態を示す重要人物だといえます。
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