後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉幕府の終わりごろに「天皇中心の政治」を取り戻そうと本気で挑んだ天皇です。
武士が力を握っていた時代に、みずから計画を立てて幕府を倒そうとし、いったんは新しい政治(建武の新政)を始めました。
思い描いた理想は高く、身分や実力に応じて人材登用を行うなど、新しい時代を作ろうとしましたが、武士や公家との利害のずれから大きな反発を招き、やがて南北朝の対立に発展していきます。
本記事では、後醍醐天皇がどんな人物で、具体的に何を行い、なぜうまくいかなかったのかを、中学生にもわかる言葉で順番に解説します。
読み終えるころには、テストで問われる重要語だけでなく、「なぜそうなったのか」という流れまで自信をもって説明できるようになります。
後醍醐天皇とは?簡単にいうとどんな人?
後醍醐天皇の生まれと時代背景
後醍醐天皇は1288年に京都で生まれ、1318年に即位した第96代の天皇です。
鎌倉幕府が全国の武士を支配していた時代に、朝廷の力が弱まっていたことを強く問題視しました。
彼は1333年に幕府が滅びる激動の転換期を生き、1336年以降に朝廷が南北に分かれて対立する南北朝時代へと日本史が移る入口に立った人物でもあります。
生涯の最終期は奈良県の吉野に拠点を移し、1339年に没するまで理想の政治の実現を追い求め続けました。
どんな目的で政治を行ったのか
後醍醐天皇がめざしたのは、天皇みずからが中心となって国政を動かす「親政」を取り戻すことでした。
1333年の幕府滅亡後には、古くからの朝廷の制度を生かしつつ中央集権的に国をまとめ直す構想を掲げ、官職の見直しや訴訟処理の整備など、都を中心とした新体制づくりに踏み出しました。
武士と公家の利害がぶつかる難しい状況のなかで、能力と功績にもとづく登用を意識しながら、秩序を立て直そうとした点に彼の政治のねらいがありました。
後醍醐天皇が「何をした人」なのかを簡単に解説
1. 鎌倉幕府を倒そうとした(倒幕運動)
後醍醐天皇は、武士政権である 鎌倉幕府 の支配が続く時代に、「天皇中心の政治」を取り戻したいという強い思いを抱いていました。
1331年(元弘元年)には幕府打倒の計画が発覚し、自ら京都を脱出して挙兵を図るなど、幕府に対する直接的な挑戦を始めました。
そして1333年、新田義貞ら武士の協力もあって鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇はこの事件を契機に自身の政治改革を始める道を切り開きました。
2. 建武の新政を始めた
幕府を倒した後、後醍醐天皇は1334年(建武元年)から「建武の新政」と呼ばれる新しい政治を始めました。
これは、天皇自らが政務を行い、武士と公家の区別なく実力・成果で登用を行おうという構想でした。
改革としては、古い官職制度の見直しや、新たな機関の設置、訴訟制度の整理などが進められました。
3. 政治の失敗と南北朝時代の始まり
しかし、建武の新政は長続きしませんでした。最大の原因は、幕府打倒に協力した武士たちへの恩賞が十分でなかったこと、公家中心の政治になってしまったこと、土地制度の混乱を招いたことなどです。
その結果、1336年には 足利尊氏 が挙兵して武士勢力を巻き込み、やがて天皇側(南朝)と新たに起きた天皇/朝廷側(北朝)の分裂という、南北朝時代 が始まることになりました。
建武の新政とは?わかりやすく説明
建武の新政の目的
1333年に 後醍醐天皇 が 鎌倉幕府 を滅ぼした後、翌年の1334年(建武元年)から始めた政治改革を「建武の新政」といいます。
この改革の目的は、天皇自らが中心となって国政を行い、貴族(公家)と武士の区別なく、能力や業績に応じて登用することで、立派な政治を新たに築くことでした。
なぜうまくいかなかったのか
しかし、この建武の新政には多くの問題があり、わずか2~3年で崩れてしまいました。
まず第一に、討幕に協力した武士たちへの恩賞が十分に行き届かず、武士層の強い不満を招いてしまいました。
次に、土地制度の改革が混乱をきたし、旧来制度の中で土地を担っていた武士団・豪族からの反発が大きかったのです。
また、実務を担う公家や武士たちが政治・行政の新体制に慣れておらず、訴訟や制度運営などが滞る状況も生まれました。
こうした重なった要因で、1336年ごろには 足利尊氏 による反乱が起き、建武の新政は終焉を迎え、続いて 南北朝時代 の時代へと移っていきました。
後醍醐天皇の功績と失敗を簡単にまとめ
後醍醐天皇が残した功績
後醍醐天皇は、まず鎌倉幕府という強大な武士政権をついに倒したという点で、日本の歴史において大きな転換点を作りました。
1333年に、彼の討幕運動が成功し、長く続いた幕府支配に終止符を打ちました。
また、天皇自らが政治の中心に立とうとする「親政」を理想とし、これまで武家や摂関によって支配されていた朝廷の姿を刷新しようと試みました。
さらに、彼は新たな年号「建武」を定め、時代の転換を象徴する文化的・制度的な変革を志しました。
なぜ失敗したといわれるのか
しかしながら、建武の新政では、討幕に協力した武士たちの期待に応えられなかった点が大きな失敗となりました。
報賞が公家中心であったり、土地制度の混乱が生じて武士の不満が高まりました。
また、制度運営を担う体制が整っておらず、訴訟や行政の混乱が続いたため、新政が長続きせず、1336年には武家側の勢力(足利尊氏ら)による反乱が起き、「南北朝時代」が始まる原因となりました。
さらに、理想にこだわるあまり、現実の力関係や利害調整がうまく働かず、公家と武士、公家内部でも対立が激化したことも敗因として挙げられます。
後醍醐天皇を覚えるポイント【中学生向けまとめ】
テストに出る重要キーワード
「後醍醐天皇」を覚えるうえで重要なのは、まず「鎌倉幕府を倒した」「建武の新政を始めた」「足利尊氏に敗れて吉野で南北朝時代へ向かった」という3つのフレーズです。
これらを押さえておくと、テストの設問で「何をした人か」「なぜ歴史的に重要か」が答えやすくなります。
一言で言うとどんな人?覚え方のコツ
後醍醐天皇は「理想の政治を目指した挑戦者」です。
覚え方のコツとしては、「天皇が鎌倉幕府を打ち、短期間でも自分で政治を始めたが、武士の反発で失敗した」という流れをリズム良く声に出して覚えるのが効果的です。
たとえば“倒幕→親政→分裂”という3語で頭に入れておくと整理しやすいでしょう。
後醍醐天皇の年表
| 年(元号) | 出来事 |
|---|---|
| 1288年(正応元年) | 京都で生まれる。 |
| 1318年(文保2年) | 天皇として即位。 |
| 1331年(元弘元年) | 倒幕を図る「元弘の乱」。 |
| 1333年(元弘3年) | 鎌倉幕府を滅ぼし、京都に還幸。 |
| 1334年(建武元年) | 「建武の新政」を開始。 |
| 1336年(建武3年/延元元年) | 武士の反乱で挫折し、吉野へ移る。 |
| 1339年(延元4年/暦応2年) | 吉野で崩御。 |
まとめ:後醍醐天皇は「理想の政治」を目指した挑戦者だった
後醍醐天皇は、鎌倉幕府が支配していた時代に「天皇が自ら政治を行う世の中」を取り戻そうと挑戦した人物でした。
彼の理想は高く、身分や立場にとらわれず、能力を重視した政治を目指しましたが、当時の社会構造や武士との力関係の中では実現が難しく、短期間で挫折してしまいました。
それでも、鎌倉幕府を倒して新しい時代の扉を開いたこと、天皇の権威を再び表舞台に引き戻したことは、後世に大きな影響を与えました。
歴史を学ぶうえで大切なのは、後醍醐天皇を「失敗した人」としてだけでなく、「理想を持ち、時代に挑んだ人」として見ることです。
彼の試みは、のちの南北朝時代や室町幕府の成立へとつながり、日本の政治のあり方を根本から考え直すきっかけとなりました。
テスト勉強では、「倒幕」「建武の新政」「南北朝時代」という3つの流れをつなげて理解しておくと、時代のつながりがより明確にわかるでしょう。

