「太安万侶(おおのやすまろ)」という名前を、歴史の授業で一度は聞いたことがあるかもしれません。
しかし、「結局この人って何をしたの?」と聞かれると、意外と説明できない方も多いでしょう。
実は太安万侶は、日本最古の歴史書『古事記』の編さんに深く関わった人物であり、日本文化の基礎を築いた重要な存在です。
この記事では、そんな太安万侶の生涯や功績、そして彼の墓の発見までを、日本史が苦手な人にもわかるようにやさしく解説します。
太安万侶とはどんな人?
太安万侶(おおのやすまろ/太安萬侶)は、飛鳥時代の末から奈良時代の初めに活躍した貴族で、『古事記』の撰録者として広く知られています。
奈良時代の朝廷で公的な職務に就き、学識と文章力で重用されました。最終官位は従四位下で、民部卿を務め、のちに贈従三位が追贈されています。
没年は養老7年(723年)と伝わります。
太安万侶の読み方と生まれた時代
名前は「太安万侶」と書いて「おおのやすまろ」と読みます。
活動期は7世紀末から8世紀初頭で、藤原京から平城京へと都が移る大きな転換期にあたります。
和銅5年(712年)に『古事記』が完成し、まさに奈良時代の幕開けと歩調を合わせて文化・学芸が整えられていく時代背景の中で、太安万侶は叙事や記録の分野で中心的な役割を果たしました。
どんな仕事をしていたの?役職と立場
太安万侶は朝廷に仕える官人として出世し、従四位下に叙せられ、民部卿という庶政・戸籍や租税に関わる重要官職を担いました。
『古事記』序文の撰録者として命を受け、口伝の歴史や神話を整理して書物にまとめる実務を担った人物です。
こうした地位と職掌は、単なる文人ではなく、国家の記録事業を統括できる信頼と能力を備えた高位官人であったことを示しています。
太安万侶が何をした人なのか
古事記をまとめた中心人物だった
太安万侶は、日本最古の歴史書とされる『古事記』の撰録者として知られています。
序文には、元明天皇の時代に太安万侶が勅命を受けて内容を整理し、和銅五年(712年)正月二十八日に完成本を奉ったことが記されています。
これにより、口伝や断片的な記録として伝わっていた神話・伝承・系譜が統合され、一貫した物語として後世に伝わる基礎が築かれました。
なぜ古事記を編さんしたのか?その背景
背景には、天武天皇が壬申の乱後に国家体制を整える一環として、帝紀や旧辞を正確に整理し直す政策を進めたことがあります。
天武天皇は編纂事業を命じ、口誦される伝承の統一と国家の正統性を示す叙述の整備が求められました。
天武の没後、この方針は元明天皇のもとで具体化し、太安万侶が実務を担って『古事記』をまとめ上げました。
『古事記』に続いて勅撰史書『日本書紀』(720年)が完成することからも、当時の朝廷が歴史叙述を国づくりの中核に位置づけたことがわかります。
太安万侶と稗田阿礼(ひえだのあれ)の関係
序文によれば、天武天皇は稗田阿礼に帝紀・旧辞を誦習させ、太安万侶はその口誦内容を勅命に従って撰録しました。
つまり、稗田阿礼が記憶・口述の担い手、太安万侶がそれを文字に定着させる記録・編集の担い手という役割分担が示されています。
なお、序文の細部や人物像については学界でさまざまな議論もありますが、『古事記』成立の枠組みとして、阿礼の誦習と安万侶の撰録という二人の連携が中核にあったことは広く紹介されています。
太安万侶の功績と評価
古事記完成による日本文化への影響
太安万侶の最大の功績は、神話や歴代天皇の物語を体系的にまとめた『古事記』を完成させたことです。
『古事記』は上・中・下の三巻で構成され、日本の創世神話から推古天皇の時代までを記しています。
この書物は単なる歴史書ではなく、日本人の精神文化や神話的世界観を形作る基礎資料となりました。
のちに『日本書紀』や『風土記』などの史書が編纂される際にも、『古事記』の叙述形式や内容が大きく影響を与えたと考えられています。
また、『古事記』に収められた神話や伝承は文学や芸術にも取り入れられ、後世の和歌や能、さらに現代の文学作品や映像文化にも影響を及ぼしています。
後世での評価と再発見のエピソード
太安万侶の名は『古事記』序文に記されていたものの、長い間その実在を確証する史料は見つかっていませんでした。
しかし、1979年(昭和54年)に奈良市此瀬町の古墳から発見された墓誌に「太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ)」と刻まれていたことが大きな転機となりました。
この発見により、古事記の撰録者・太安万侶が実在したことが初めて実証されたのです。
この墓誌は現在、国宝に指定され、太安万侶の歴史的実在と功績を裏づける貴重な資料となっています。
以後、太安万侶は『古事記』の功労者として再評価され、日本文化史上の重要人物として確固たる地位を得ることになりました。
太安万侶のお墓と発見の話
太安万侶の墓の場所と発掘の経緯
太安万侶の墓(通称「太安万侶墓」)は、奈良県奈良市此瀬町の茶畑の斜面に位置しています。
昭和54年(1979年)1月、茶畑の改植作業中に木炭状のものを掘り当てたことがきっかけで発見されました。
発見直後、地元の方の通報によって県立橿原考古学研究所が調査を実施、墓壙や内部構造、出土遺物が詳細に確認されました。
墓は直径約4〜5 mほどの小規模な火葬墓と判明しており、茶畑の南斜面という意外な場所から偶然見つかった点が「奇跡的な発見」として語られています。
出土した銘文からわかったこと
この墓からは青銅(銅板)製の墓誌が出土しており、そこには「太朝臣安萬侶」という名、位階・勲等、居住地「左京四条四坊」や没年月日「癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」などが刻まれていました。
これにより、太安万侶が実在の人物であったことが確定し、彼の居住地と死亡年・位階など歴史的に不明だった事項が明らかになりました。
墓の内部からは火葬された骨とともに真珠4顆が見つかっており、当時の貴族墓葬の一端を物語る資料ともなりました。
まとめ:太安万侶は「日本最古の歴史書」を残した偉人
古事記の成立に欠かせない人物だった理由
太安万侶は、口伝によって伝えられていた神話や天皇家の系譜を、文字として整理し記録した人物です。
彼がいなければ『古事記』という形で日本神話が後世に残ることはなかったかもしれません。
天武天皇の政策を継承し、元明天皇の勅命のもとでその理念を実現した実務者として、太安万侶は日本の国史編纂の礎を築いたと言えます。
『古事記』が現在も読み継がれていること自体が、彼の功績の大きさを示しているのです。
太安万侶の功績を現代にどう伝えるか
太安万侶の名は、古代史の教科書や神話研究だけでなく、現代の文化や地域の取り組みの中にも生き続けています。
奈良市では太安万侶をテーマにした展示や講座が開催され、彼の業績を次世代へ伝える活動が行われています。
また、『古事記』を題材にした演劇や文学作品、観光イベントなども多く、彼の残した知の遺産は新しい形で再発見されています。
太安万侶は、単なる過去の歴史人物ではなく、「言葉で日本を記録した最初の知識人」として、今なお私たちの文化の根底に息づいている存在なのです。
『古事記』を編さんした太安万侶の生涯を知ることは、日本の歴史と文化の原点を見つめ直すことでもあります。
彼の功績は、過去と現在をつなぐ知の架け橋として、これからも語り継がれていくでしょう。
出典情報:コトバンク、Wikipedia、奈良県観光[公式] あをによし なら旅「太安萬侶墓(太安万侶墓)」、奈良県歴史文化資源データベース「奈良偉人伝|太安万侶」、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館「太安萬侶墓誌」、奈良県立図書情報館「昭和54年 発見当時の太安萬侶の墓付近の風景」

