日本の歴史の中でも「古墳時代(こふんじだい)」は、巨大な古墳が各地に築かれ、ヤマト政権が力を広げた時代です。
この記事では、古墳時代とはどんな時代だったのか、どんな出来事があったのかを、初心者にもわかりやすく解説します。
代表的な古墳や文化、そして次の飛鳥時代へのつながりまでを、やさしくまとめて学んでいきましょう。
古墳時代とはどんな時代?
古墳時代の期間と名前の由来
古墳時代は、おおむね3世紀後半から6世紀末ごろにかけて続いた時代を指し、日本各地に巨大な墳墓が集中して築かれたことが最大の特徴です。
時期区分には若干の幅がありますが、仏教が伝来する以前を大枠としておさえると理解しやすく、考古学的な資料が時代像の復元に大きな役割を果たしています。
時代名の「古墳」は、支配層の墓として築かれた大規模な土の盛り上がり(墳丘)を意味し、とくに上空から見ると鍵穴のような形になる前方後円墳が象徴的な存在として知られます。
これらの古墳は周濠や石室をそなえ、地域社会の技術力と動員力、そして権力の集中を示す物証として位置づけられています。
古墳が作られた理由と意味
古墳は、当時の大王(おおきみ)や有力な首長層の葬送と記念のために築かれました。
墳丘の規模や形は被葬者の地位や政治的影響力を示し、前方後円墳を頂点とする序列が地域社会に可視化されました。
墳丘の周囲や上には埴輪などの儀礼用遺物が配置され、墓域の境界を示すとともに、被葬者を守護し、葬送儀礼を演出する役割を担いました。
葬送施設の高度化は社会の組織化と工芸・土木技術の発達を反映し、古墳群の存在そのものが古墳時代の社会構造と精神世界を語る重要な手がかりとなっています。
古墳時代に何があった?主な出来事まとめ
ヤマト政権の成立と拡大
古墳時代の前半には、畿内を中心に有力首長層が連合するかたちでヤマト政権が台頭し、4世紀末までに奈良盆地を拠点とした政治勢力としてのまとまりを強めました。
各地に築かれた大規模な前方後円墳は、首長間の序列や広域的な同盟関係を可視化する記念物であり、巨大古墳の分布が西日本から東国へと広がる動きは、権威と影響力の波及を物語っています。
5世紀には豪族を基盤とする政治秩序が整い、軍事力と祭祀を担う氏族が役割を分担しながら、王(大王)を中心に諸地域を包摂する体制が形成されました。
こうした展開は、考古学資料の年代観と中国史書・金石文の断片的情報を突き合わせることで、概略をたどることができます。
中国や朝鮮との交流が始まる
5世紀の倭の五王と呼ばれる一連の王たちは南朝にたびたび使者を送り、称号の授与を受けることで国際秩序のなかでの権威づけを図りました。
朝鮮半島の百済・新羅・高句麗、加羅(伽耶)諸勢力とも外交・軍事・交易の接触が重なり、鉄資源や鍛冶技術、須恵器生産、文字や制度運用の知識などが日本列島にもたらされました。
半島や中国大陸の人々(渡来系集団)が工人・技術者・文人として受け入れられたことは、墳墓や集落から出土する遺物の系譜や、窯業・金属器生産の出現時期からもうかがえます。
こうした対外関係はヤマト政権の政治的正統性を補強し、内政の再編と軍事動員力の増強に結びついていきました。
鉄器や農業の発展による社会の変化
弥生時代に始まった水田稲作と鉄器利用は古墳時代にさらに高度化し、鉄の刃物や農具が普及することで耕地の造成や木材加工の効率が上がりました。
各地で大規模な墳丘や周濠を築けるだけの人員動員と資材調達が可能になった背景には、こうした生産力の底上げと技術の平準化がありました。
政治面では、豪族が在地の生産と祭祀を管理しつつ、ヤマト政権との結びつきのもとで威信材や特産品をやり取りする関係が強まり、地域社会の階層化が一段と進みました。
結果として、王権を中心とした広域ネットワークが形成され、列島規模で共通性の高い文化的特徴が見られるようになります。
古墳時代の暮らしと文化
人々の生活や衣食住の特徴
古墳時代の多くの人びとは、地面を掘り下げて床面をつくり、屋根を葺いた竪穴住居で暮らしました。
地域と時期によっては平地建物が増えていく傾向も見られ、住まいのかたちは必ずしも一様ではありません。
住居内では炉を中心に調理や暖房が行われ、時期が下ると効率よく熱を扱えるかまども用いられるようになりました。
衣服は麻などの繊維を基本にしつつ、身分や役割に応じて装身具で身を飾り、上層の人びとには帯金具や勾玉などの威信材が伴いました。
食の面では、弥生以来の稲作を基盤にしながら沿岸・河川資源や山の産物も取り込み、地域の環境に適応した生業が営まれました。
これらの暮らしの具体像は、住居跡・炉跡といった遺構と、土器や装身具などの出土品によって復元されています。
古墳に見られる装飾・副葬品とは
古墳内部の埋葬施設からは、鏡・玉類・鉄の武器や武具・馬具・土器など、多様な副葬品がまとまって出土します。
とくに中期以降は、甲冑や鉄剣、鐙や轡といった馬具のまとまった組み合わせが知られ、被葬者の軍事的権威や騎馬文化の受容を示す資料として重視されています。
副葬品の組成は時期や地域で変化し、初期には鏡や玉が目立つのに対し、後期には金工品や装身具のバリエーションが増える傾向が確認できます。
こうした副葬品は被葬者の地位やネットワーク、当時の技術水準を反映する一次資料であり、古墳時代の社会構造や対外交流を読み解く手がかりになっています。
埴輪(はにわ)の役割と種類
古墳の墳丘や周縁には、筒形の基本形から家・器物・鳥などを模した形へ、さらに人物・動物像へと展開した埴輪が多数据えられました。
埴輪は本来、古墳を飾るために群として配置され、墓域の境界を示し、葬送儀礼の場を可視化する役割を担ったと理解されています。
中期以降には、馬・犬・猪などの動物埴輪や、武人・巫女・踊る人びとなどの人物埴輪が加わり、衣服や髪型、持ち物の表現から当時の職能や身分秩序、儀礼の様子を読み取ることができます。
東京国立博物館や京都国立博物館の所蔵例は、埴輪の造形と配置の発展過程をよく示しており、古墳時代の信仰・社会表象を理解するうえで欠かせない資料になっています。
古墳時代の代表的な古墳
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)とは
大阪府堺市の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、通称・仁徳天皇陵古墳)は、前方後円墳として日本最大級の規模を誇ります。
墳丘の全長は約486メートルに達し、周囲には三重の濠がめぐる重厚な構造を備えています。
築造は5世紀中頃と考えられ、鍵穴のように見える前方後円形の墳丘に、くびれ部の両側へ張り出す「造り出し」と呼ばれる構造が付属します。
2019年7月には百舌鳥・古市古墳群の構成資産としてユネスコ世界遺産に登録され、古墳時代を代表する王墓の威容と、当時の社会が持っていた動員力や土木技術の高さを今に伝えています。
観覧路が整備され、外周を歩きながら巨大古墳のスケール感を体感できる点も特徴です。
有名な古墳の形と特徴(前方後円墳など)
古墳の形は時期や地域によっていくつかの型に分かれます。最も象徴的なのは、円形の後円部に台形状の前方部が連なる前方後円墳で、上空から見ると旧式の鍵穴に似た輪郭になります。
周囲に濠をめぐらせ、段築と呼ばれる階段状の斜面を三段前後に整える例が多く、墳頂部や斜面には葺石や埴輪が配されました。
これに対して、単一の円形からなる円墳、方形の墳丘を持つ方墳、前方部が小さく円部に付く帆立貝式古墳なども各地で築かれました。
百舌鳥・古市古墳群では、仁徳天皇陵古墳のような巨大前方後円墳を中核に、中・小規模の前方後円墳、円墳、方墳が複合して分布し、墳丘の大きさや構造の差が被葬者の序列や地域社会の階層性を映し出しています。
これらの形態的特徴は、時代とともに変化しながらも、ヤマト王権を中心とする葬送儀礼と権威の表現として共有されていきました。
古墳時代の終わりと次の時代へ
仏教伝来と飛鳥時代への移り変わり
6世紀後半になると、日本列島には大陸・半島から仏教と寺院建立の技術が本格的に導入されます。
仏教が公式に伝えられた年については、『日本書紀』が552年と記す一方で、『上宮聖徳法王帝説』などが538年とするため、研究上は複数の見解が併存しています。
いずれにしても、百済から仏像や経典がもたらされ、蘇我氏がこれを積極的に保護したことで、政治と宗教が結びついた新しい時代の基調が形づくられました。
推古天皇期には飛鳥の地に本格的伽藍をもつ寺院が営まれ、飛鳥寺は6世紀末から7世紀初頭にかけて整備が進み、596年に完成の記事が『書紀』に見えます。
こうした動きは、氏族間の勢力争いに宗教理念が関与する局面を生みつつ、王権が大陸の制度や文物を取り入れていく契機となり、結果として古墳中心の権威表現から、寺院と仏教儀礼を軸とする文化へと重心が移っていきます。
ブリタニカでは、この仏教受容を画期として「飛鳥時代」を552年からとする区分が示されており、古墳時代の末と飛鳥時代の初めが重なり合うかたちで移行したと理解できます。
古墳時代の歴史的な意義
古墳時代は、巨大墳墓の築造によって可視化された首長層の権威と動員力を背景に、列島規模で共通性の高い文化圏が形成された点に大きな意義があります。
前方後円墳に代表される葬送モニュメントは、政治的中心を担ったヤマト王権の存在と、その影響の広がりを物証として伝えました。
6世紀末からは横穴式石室の普及や古墳の小型化・群集化が進み、葬送のあり方が変化するとともに、寺院建立・仏像造立・制度整備といった新しい権威表現が前面に現れます。
推古朝の冠位十二階や十七条憲法にみられる統治理念の整備は、大陸の制度・思想を参照しつつ氏族制的秩序を再編する試みであり、古墳に象徴される「墓の時代」から、律令国家へと向かう「都と寺の時代」への橋渡しを果たしました。
すなわち古墳時代は、考古学的な巨大構造物が示す権力の集中と、仏教受容・制度化による国家形成の準備が交差する、日本古代史の転換点であったといえます。
古墳時代の年表
年代には幅や研究上の異説があるため、代表的見解を中心に整理しています。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 3世紀後半ごろ | 奈良盆地周辺を中心に大型墳墓が出現し、古墳時代が始まります。鍵穴形の前方後円墳が象徴となり、考古学資料にもとづく時期区分が確立します。 |
| 4世紀後半〜5世紀 | 巨大前方後円墳の築造が各地に広がり、ヤマト政権の権威が可視化されます。墳丘・周濠・葺石・埴輪など葬送施設が高度化します。 |
| 5世紀前半 | 「倭の五王」が中国南朝にたびたび遣使し、称号の授与を受けて国際秩序の中で権威づけを図ります。対外関係が政治基盤の強化に結びつきます。 |
| 4世紀末〜5世紀 | 朝鮮半島系の技術により須恵器の生産が始まり、高温焼成・ろくろ・登窯が導入されます。実用品から威信材まで器種が拡大します。 |
| 5世紀後半〜6世紀前半 | 横穴式石室が普及し、追葬や家族・集団墓制の展開が進みます。馬具・甲冑など軍事関連副葬品が目立ち、騎馬文化の受容がうかがえます。 |
| 5世紀中ごろ | 大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)が築造期を迎え、全長約486メートルの日本最大級の前方後円墳が成立します。 |
| 6世紀前半 | 各地で古墳の小型化や群集化が進み、葬送のあり方が変化します。地域社会の階層と王権の関係が再編されます。 |
| 538年または552年 | 仏教が公式に伝来したとされ、寺院建立と新たな権威表現が本格化します。古墳中心の時代から飛鳥時代へと重心が移ります。 |
| 6世紀末 | 飛鳥寺の整備が進み、寺院伽藍と仏教儀礼が政治・文化の中心となります。古墳時代はここで実質的な終末期を迎えます。 |
表の各項目は、古墳の出現と巨大化、対外交流と技術導入、葬送施設の変化、そして仏教受容による時代転換という連続した流れで理解すると、全体像が把握しやすくなります。
まとめ|古墳時代を簡単におさらい
古墳時代のポイント3つ
古墳時代を一言でまとめると、「権力の集中」「文化の統一」「時代の転換」という三つの柱で整理することができます。
まず第一に、各地の首長が連合してヤマト政権を形成し、巨大な前方後円墳の築造を通じて政治的支配と権威を可視化しました。
第二に、鉄器の普及や稲作の発展により生産力が高まり、中国や朝鮮半島との交流を通じて技術・文化が共有され、列島全体に共通した文化圏が広がりました。
そして第三に、6世紀には仏教伝来を契機として信仰や権威の表現が大きく変化し、古墳を中心とした葬送文化から寺院と仏教儀礼を軸とする新しい社会へと移行していきました。
これら三つの流れは、古墳時代が単なる墓の時代ではなく、日本という国家の原型が形づくられた転換期であったことを示しています。
歴史を学ぶ上での重要性
古墳時代を学ぶ意義は、現在の日本文化や社会構造の起源を理解することにあります。
前方後円墳や埴輪、鉄製の武具などに象徴される物質文化は、当時の人々の価値観や信仰、技術の粋を伝える貴重な資料です。
また、ヤマト政権の成立や対外交流の展開は、政治的統一と外交の始まりとして、日本が東アジアの一員として歩み始めたことを意味します。
古墳時代を知ることで、後の飛鳥・奈良時代の制度整備や仏教文化の発展がどのように準備されたのかを理解する手がかりが得られます。
巨大古墳群が世界遺産として評価されているのも、こうした歴史的背景が現代まで受け継がれている証といえるでしょう。
古墳時代は、古代日本の出発点ともいえる重要な時代です。もし興味を持ったなら、実際に仁徳天皇陵古墳や古市古墳群などを訪れ、当時のスケールと技術を自分の目で確かめてみてください。
教科書の中の歴史が、より身近で生きたものとして感じられるはずです。
出典情報:奈良公式観光サイト「飛鳥寺」、東京国立博物館「埴輪から学ぶ古墳時代」、東京国立博物館「須恵器の発達」、百舌鳥・古市古墳群 公式サイト、仁徳天皇陵古墳百科|堺市

