塙保己一とは?何をした人かを簡単に解説 日本史に残る偉業とは

塙保己一とは?何をした人かを簡単に解説|日本史に残る偉業とは 日本の歴史

塙保己一は、江戸時代中期に生きた盲目の国学者で、日本の古い本や歴史資料を守り伝えた人物です。

代表的な業績である「群書類従」の編さんや、日本初の国学専門機関といわれる「和学講談所」の設立などを通じて、日本の「知」を後世につなぐ大きな役割を果たしました。

本記事では、生い立ちや功績をやさしく解説しながら、現代を生きる私たちが塙保己一から学べるポイントも紹介します。

塙保己一とはどんな人?簡単プロフィール

生まれた時代と出身地

塙保己一は、江戸時代中期の1746年に、現在の埼玉県本庄市児玉町保木野にあたる武蔵国児玉郡保木野村で生まれました。

百姓である父荻野宇兵衛の長男として生まれ、幼名は寅之助といいました。

のちに「群書類従」の編さんで知られる国学者として活躍し、日本の古典や歴史資料を後世に伝える大きな役割を果たすことになります。

幼少期に失明してしまった理由

保己一は幼いころから体があまり丈夫ではなく、7歳のときにかかった病気がもとで失明してしまいました。

当時の医療では視力を取り戻すことができず、そのまま全盲となり、以後は光の見えない生活を送ることになります。

しかし、視力を失ってからも耳で聞く力や記憶力が優れていたと伝えられており、のちの学問への道につながっていきました。

それでも学問をあきらめなかった背景

視力を失ったあとも、保己一は学ぶことをあきらめず、人の読み上げる本を熱心に聞き、一度聞いた内容を忘れないほどの記憶力で学問を身につけていきました。

村での暮らしのなかで将来への不安を抱えながらも、学問で身を立てたいという思いを強め、15歳のときに江戸へ出て本格的に修行を始めます。

江戸では盲人の組織である当道座に入り、雨富須賀一に弟子入りして和歌や神道などを学び、努力を重ねてついには当道座の最高位である総検校にまで昇りつめる人物へと成長していきました。

塙保己一は何をした人?代表的な功績を簡単に

「群書類従」とは?膨大な書物をまとめた一大プロジェクト

「群書類従」は、塙保己一が中心となって編さんした、日本の古い書物をまとめた大文献集です。

古代から江戸時代初期までの歴史書や物語、日記、和歌など1273種類の文献を、神祇や帝王、和歌、物語など25の分野に分けて収録しています。

正編は530巻666冊におよび、国史や国文学の研究に必要な基本文献を一か所に集めた、当時としても前例のない規模の叢書でした。

塙保己一は1779年ごろに北野天満宮で刊行を誓い、諸大名や寺社、公家などから協力を得ながら、失われそうな文献を集めていきました。

刊行は1793年から1819年にかけて少しずつ行われ、34歳ごろに本格的に取り組み始めてから約41年をかけて、74歳のときにようやく完成したと伝えられています。

この叢書は現在も歴史学や国文学の研究で使われており、日本の歴史や文化を知るうえで欠かせない基本資料として高く評価されています。

失われかけた日本の古い本を守った功績

江戸時代のころには、多くの古い書物が各地の寺社や大名家に散らばり、傷んだり失われたりする危険にさらされていました。

塙保己一は、こうした文献が散逸してしまうことを強く心配し、全国から貴重な写本や古文書を探し出しては借り受け、弟子たちに書き写させました。

「群書類従」に収められた文献の中には、もしこのときに書き写していなければ、現在ほとんど内容が分からなかったであろうものも少なくありません。

たとえば、途中までしか伝わっていなかった歴史書「日本後紀」の一部を再発見して記録にとどめ、国の公式な歴史書を補う重要な手がかりを残しました。

写本の収集だけでなく、文の誤りを直したり、複数の写本を比べて内容を確かめたりする校訂作業も行い、学問に耐えうる形で後世に伝えた点も大きな功績です。

こうした地道な努力によって、日本の歴史や文学を研究するための基礎資料の多くが、今も図書館や研究機関で利用できる形で守られることになりました。

盲人の学問所「和学講談所」の設立

塙保己一は1793年に、江戸の麹町に「和学講談所」という学問所を創立しました。

和学講談所は、和学、すなわち日本古来の言葉や文学、歴史、律令などを研究し、教えるための専門機関で、現在の大学や研究所に近い役割をもつ場でした。

当時の国学者たちは古典文学の研究に追われ、日本の歴史や律令をじっくり調べる余裕が少なかったため、塙保己一は自ら研究と教育の拠点をつくる必要を感じたとされています。

講談所では、弟子たちが講義を聞きながら文献を読み、歴史書の校正や資料の編集といった作業にも参加し、実践的な学問の場が育まれました。

開設からまもなく幕府の学問機関である林家の支配下に入り、準官立の機関として国の歴史研究を支える役割も担うようになります。

和学講談所は、塙保己一の死後も子孫によって受け継がれ、江戸幕府が崩壊するまでおよそ75年間続き、多くの学者を世に送り出しました。

この学問所で蓄えられた資料は、現在は東京大学史料編纂所などに引き継がれており、日本史研究に欠かせない貴重な史料群となっています。

塙保己一の生涯をかんたん年表で解説

年齢できごと
1746年0歳武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれます。
1753年ごろ   7歳ごろ   病気がもとで失明し、以後は全盲の生活を送ります。
1760年ごろ15歳ごろ将来に不安を抱きながらも学問で身を立てる決意を固め、江戸へ出ます。 江戸で盲人の組織である当道座に入り、雨富須賀一検校に入門します。
1779年30代前半全国の古い書物を集めて整理する計画を立て、「群書類従」の編さんに着手します。
1793年40代後半江戸麹町に和学講談所を創立し、日本の歴史や律令などを研究する拠点をつくります。
1819年70代半ば長年取り組んできた「群書類従」正編530巻666冊の刊行を終えます。
1821年76歳当道座の最高位である総検校の位に就きます。 同じ年に江戸で亡くなり、その生涯を閉じます。

幼少期~失明までの出来事

塙保己一は1746年に、現在の埼玉県本庄市児玉町保木野にあたる武蔵国児玉郡保木野村で生まれます。

父は百姓の荻野宇兵衛で、素朴な農村で育ちながらも、幼いころから利発な子どもであったと伝えられています。

ところが7歳のころに重い病気にかかり、その後視力を失って全盲となります。

当時の農村社会では、視力を失うことは生活手段を大きく奪われることを意味し、家族も将来に大きな不安を抱えたと考えられます。

それでも母親は寺に病気平癒を祈願するなど息子の将来を案じ続け、周囲の人びとも保己一を支えながら成長を見守りました。

江戸へ出てから学者として成長するまで

視力を失った保己一は、村の暮らしの中で将来への行き詰まりを感じながらも、耳で聞いて覚える学問に希望を見いだしていきます。

やがて「学問で身を立てたい」という強い思いを抱き、15歳ごろに単身江戸へ出ます。

江戸では盲人の職能集団である当道座に入り、雨富須賀一検校のもとで修行を始めます。

当道座では、三味線や鍼治療などの技術とともに、和歌や古典、歴史などの学問にも触れる機会がありました。

保己一は、人に本を読み上げてもらいながら内容をすべて記憶してしまうほどの記憶力を発揮し、次第に周囲から一目置かれる存在になっていきます。

努力を重ねた結果、当道座の位階を着実に上りつめ、やがて多くの弟子を抱える立場となり、盲人社会と学問の両方で中心的な役割を担うようになります。

群書類従の編集・刊行と晩年の活躍

江戸で学者として成長した保己一は、日本各地に散らばる古い書物が失われてしまうことを深く心配するようになります。

この危機感から、1779年ごろに全国の古文書や写本を集めて整理し、一つの大きな叢書にまとめる「群書類従」の計画に着手します。

保己一は諸藩の大名や寺社、学者などに協力を求め、貴重な文献を借り受けては弟子たちに書き写させ、誤りを正しながら丁寧に整理していきます。

1793年には、自らの研究と後進の育成の場として和学講談所を設立し、ここを拠点に「群書類従」の編集や国史・律令の調査を進めました。

文政2年の1819年には、長年の悲願であった「群書類従」正編530巻666冊の刊行を終え、日本の歴史や文学の基本史料を一か所に集めることに成功します。

その後も続編の準備や当道座の改革、後進の指導などに力を注ぎ、晩年には盲人社会の最高位である総検校に昇進します。

1821年には総検校となったのち、その年のうちに76歳で生涯を閉じ、膨大な文献と多くの弟子たちを後世に残しました。

なぜ塙保己一は「偉人」と呼ばれるのか

視力を失いながらも学問を極めた努力

塙保己一が「偉人」と呼ばれる大きな理由の一つは、幼いころに失明しながらも学問をあきらめず、生涯を通じて学び続けた姿勢にあります。

彼は七歳ごろに病気がもとで視力を失いましたが、人に本を読んでもらい、その内容を驚異的な記憶力で覚えることで知識を身につけていきました。

文字を自分の目で読むことができないため、他人に読んでもらう時間を最大限に生かし、一度聞いた内容を忘れないように集中して覚えるという、並外れた努力を続けていたと伝えられています。

その結果、盲人の職能集団である当道座のなかで頭角を現し、学問と人望の両面が評価されて、最終的には盲人社会の最高位である総検校にまで昇りつめました。

見えないという大きなハンディキャップを抱えながらも、自分に与えられた条件のもとで最大限に学び、社会の中で能力を発揮したという点が、多くの人に感動を与え続けています。

後世の歴史研究・国文学に与えた影響

塙保己一は、日本各地に散らばっていた古い書物や文書が失われてしまうことを強く危惧し、それらを集めて整理する「群書類従」という一大プロジェクトを主導しました。

「群書類従」には歴史書や物語、日記、和歌などが体系的に収められており、その多くは当時からすでに珍しくなっていた資料でした。

この叢書がまとめられたことで、あと少しで内容が分からなくなってしまうところだった古記録や古典作品が、現在も研究者や学生に利用できる形で残されることになりました。

たとえば、小笠原諸島の領有問題を考えるうえで重要な古文書の存在が確認されたり、近代以降の歴史研究や国文学研究の基礎資料として活用されたりするなど、その影響は学問の世界で非常に大きなものとなっています。

現代でも多くの研究者が「よくぞ群書類従の中に入っていた」と語る文献があり、塙保己一の仕事がなければ、日本の歴史や文化に関する理解は今よりずっと乏しいものになっていたと考えられています。

障がい者教育・視覚障がい者支援の観点からの評価

塙保己一は、自身が視覚障がいを抱えながら学問で道を切り開いた人物であり、その生き方は現在の障がい者教育や視覚障がい者支援の象徴的な存在としても評価されています。

埼玉県では、彼の精神を受け継いで障がいのある人の自立や社会参加に貢献した個人や団体を顕彰する「塙保己一賞」を設けており、その存在自体が塙保己一の生涯が現代の福祉や共生社会づくりの理念と重ねて語られている証しとなっています。

また、埼玉県には視覚障がいのある子どもや若者のための学校として「埼玉県立特別支援学校塙保己一学園」が設置されており、幼稚部から専攻科まで一貫した教育を行う拠点として機能しています。

このように、彼の名前が賞や学校の名称として受け継がれていることは、塙保己一が「障がいがあっても学び続け、社会に貢献できる」というメッセージの象徴として認められていることを示しています。

視覚障がいがあってもあきらめず、自分なりの方法で学び、社会の中で役割を果たすことができるという彼の生き方は、現代のインクルーシブ教育や障がい者の自立支援を考えるうえでも、大きな示唆を与え続けています。

現代に生きる私たちが塙保己一から学べること

逆境を乗り越える姿勢と学び続ける力

塙保己一は、幼いころに視力を失いながらも学問をあきらめず、一生をかけて日本の古い本や歴史資料に向き合い続けた人物です。

自分の目で文字を読むことができない代わりに、人に本を読んでもらい、その内容を耳で聞き、驚くほどの記憶力で身につけていきました。

「群書類従」のような大きな仕事に40年以上も取り組み続けた姿からは、成果がすぐに見えなくても、学びを積み重ねていくことの大切さが伝わってきます。

現代の私たちも、病気や障がい、環境の変化など思い通りにならない状況に直面することがありますが、条件のせいにせず、自分にできる方法を工夫しながら学び続ける姿勢は大いに見習うことができます。

変化の激しい時代だからこそ、塙保己一のように、長い時間をかけてでも着実に力を積み上げていく生き方が、将来の大きな成果や信頼につながることを教えてくれます。

「記録を残すこと」の大切さ

「群書類従」は、当時すでに失われかけていた多くの古い書物を集めて整理し、印刷して広く残そうとした壮大な取り組みでした。

塙保己一は、限られた人しか読めなかった写本をもとに版木を彫り、17,000枚以上もの版木を使って印刷できるようにすることで、多くの人が資料にアクセスできる仕組みを整えました。

埼玉県の資料では、群書類従の版木が、今日一般的に使われている原稿用紙のマス目の起源の一つとされており、情報を整理して誰もが使いやすい形にする工夫が、現代の「フォーマット」づくりにもつながっていると紹介されています。

また、埼玉県は群書類従をはじめとする保己一の著作を、現代の研究者にとっても欠かせない基本資料として位置づけており、記録を残し続けることが次の世代の学びを支える基盤になることを示しています。

デジタルデータがあふれる現代社会でも、情報をただ集めるだけでなく、必要な人が後から使えるように整理し、形にして残すという意識はとても重要であり、塙保己一の仕事はその先駆けといえます。

自分の日々の学びや経験も、メモや記録として残しておくことで、後から自分や周りの人の役に立つ「小さな群書類従」になると考えることができます。

多様性やインクルーシブな社会づくりへのヒント

塙保己一は、視覚障がいを抱えながらも学問と社会活動に尽くし、その名は現在、障がいのある人の自立や社会参加に貢献した人をたたえる「塙保己一賞」や、視覚障がい教育の拠点となる特別支援学校の名称として受け継がれています。

こうした取り組みは、障がいの有無にかかわらず誰もが学び、力を発揮できる社会をめざす現代の方向性と重なっており、多様性を尊重する時代のシンボルとして塙保己一が位置づけられていることを示しています。

本庄市の総合振興計画などでも、「歴史と教育のまち」をめざすうえで塙保己一の精神を手本として掲げており、地域の歴史や文化をすべての世代で共有しながら未来につないでいく姿勢が打ち出されています。

これは、障がいの有無だけでなく、世代や立場の違いを超えて、地域全体で学び合い支え合う「インクルーシブなまちづくり」の考え方とも通じるものです。

私たち一人ひとりも、目に見えるハンディキャップだけで人を判断するのではなく、その人がどのように努力し、どのような形で社会に貢献しようとしているのかに目を向けることで、より多様性を尊重する関わり方ができるようになります。

塙保己一の生涯は、多様な人がそれぞれの持ち味を生かしながら共に生きる社会を目指すうえで、今なお大切なヒントを与えてくれる存在だといえます。

まとめ|塙保己一は「日本の知」を守った偉大な学者

この記事のおさらい(要点まとめ)

塙保己一は1746年に現在の埼玉県本庄市児玉町で生まれた江戸時代の国学者です。

幼いころに病気で視力を失いながらも学問をあきらめず、人に本を読んでもらい記憶する方法で知識を身につけました。

江戸に出て当道座に入り、和歌や歴史を学びながら才能を発揮し、最終的には盲人社会の最高位である総検校に昇りつめました。

代表的な業績である「群書類従」は、日本各地に散らばっていた古い書物を集めて整理した大規模な叢書で、日本史や国文学の基礎資料として今も活用されています。

「群書類従」の編さんを通じて、失われかけていた古文書や歴史書の多くが後世に伝えられ、日本文化の理解に欠かせない土台が築かれました。

また、研究と教育の拠点として和学講談所を設立し、多くの弟子を育てるとともに、日本の歴史や律令の本格的な研究を進めました。

視力を失っても学び続けた姿勢や、日本の「知」を守り未来に伝えようとした努力は、現代の私たちにとっても大きな示唆を与えてくれます。

障がいの有無にかかわらず学び続けることの大切さや、情報を整理して記録として残すことの重要性、多様な人が活躍できる社会をめざす視点など、塙保己一の生涯から学べることは少なくありません。

もっと詳しく知りたい人へのおすすめの本・資料

塙保己一について体系的に知りたい場合は、本庄市が公開している「盲目の国学者 塙保己一の生涯」などの冊子がとても参考になります。

生い立ちから「群書類従」の編さん、和学講談所の活動、晩年までがわかりやすくまとめられており、入門書として読むのに適しています。

同じく本庄市が公開している「塙保己一の生涯」や、郷土学習向けに作成された解説資料も、年表や図版が充実していて学習用の資料として役立ちます。

埼玉県が作成したパンフレットやリーフレットには、当道座や江戸時代の社会状況、「群書類従」の意義などが平易な言葉で説明されており、中高生や一般の読者にも読みやすい内容になっています。

より深く人物像に触れたい場合は、堺正一による「ヘレン・ケラーと塙保己一」や「改訂版 素顔の塙保己一 盲目の学者を支えた女性たち」といった書籍もおすすめです。

これらの本では、偉人伝としての側面だけでなく、家族や支えた人々との関わり、当時の社会とのつながりなどが描かれており、塙保己一の人間味にふれることができます。

基本的な情報を押さえたい場合は、日本語版ウィキペディア「塙保己一」の項目も便利で、略年表や主な業績、関連人物などを一覧することができます。

まずは自治体の無料資料やウェブで公開されたパンフレットなどから読み始め、興味が深まったら書籍にも手を伸ばしてみると、塙保己一の世界がより立体的に見えてきます。

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