田中正造は、明治時代の日本で足尾銅山の鉱毒問題と闘い、公害問題にいち早く取り組んだ政治家として知られています。
栃木県の渡良瀬川流域で起きた足尾鉱毒事件は、川や田畑、そこに暮らす人々の生活を深刻に脅かしましたが、その実態を告発し、政府や世論に訴え続けた中心人物が田中正造でした。
この記事では、田中正造がどのような時代に生まれ、なぜ「公害問題の先駆者」と呼ばれるのか、足尾鉱毒事件とはどのような出来事だったのかを、できるだけわかりやすく整理して解説します。
あわせて、田中正造の功績や現代の環境問題につながる教訓、テストやレポートにそのまま使えるポイントもまとめますので、学習や調べ学習の整理にも役立てていただけます。
田中正造とは?何をした人か簡単に知ろう
プロフィール|生まれた場所・時代背景
田中正造は1841年に現在の栃木県佐野市にあたる地域で生まれた人物です。
江戸時代の末期から明治時代、さらに大正時代の初めまでを生きたため、日本が武士の時代から近代国家へと大きく変わっていく様子を直接経験した世代でした。
もともとは村の名主として地域のまとめ役をつとめ、その後は自由民権運動などの影響を受けながら政治に関わるようになりました。
明治時代には衆議院議員に当選し、国会で政府の政策をただす立場から発言する、いわゆる「政治家」として活動しました。
とくに地元の栃木県で起こっていた足尾銅山の鉱毒被害に強い危機感を抱き、自分自身も被害地の住民としてその解決に人生をかけて取り組むようになっていきました。
なぜ「公害問題の先駆者」と呼ばれるのか
田中正造が「公害問題の先駆者」と呼ばれるのは、日本で近代的な公害問題が意識される前から、環境破壊と住民の被害に正面から向き合ったからです。
足尾銅山では銅を大量に生産する一方で、鉱山から出る有害な水や煙が川や土地を汚し、農作物や魚が取れなくなる深刻な被害が生まれていました。
当時の日本では、産業を発展させて国を豊かにすることが最優先とされ、公害という考え方そのものがまだ一般的ではありませんでした。
その中で田中正造は、鉱山の利益や国の発展よりも、まず被害を受けている住民のいのちや生活を守るべきだと、はっきりと主張しました。
川の水質悪化や農地の被害を「鉱毒」という言葉で捉え直し、その実態を調べて世の中に訴えたことが、後の公害問題や環境保護の考え方につながる土台になりました。
田中正造=足尾鉱毒事件で闘った人物
田中正造の名前は、何よりも足尾鉱毒事件と強く結びついて語られます。
足尾鉱毒事件とは、栃木県の足尾銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川流域に広がり、田んぼや畑、川の魚、そしてそこで暮らす人々に大きな被害を与えた公害事件です。
田中正造は被害地の村々を何度も訪ね歩き、農民の訴えを聞き取り、自分の目で被害の様子を確かめました。
そして衆議院議員として国会で繰り返し鉱毒問題を取り上げ、政府に対して鉱山の操業のあり方を改めるよう強く求めました。
さらに、被害がなかなか解決されない状況に対して、ついには明治天皇に直接訴えようとする行動まで起こし、「足尾鉱毒と闘った人物」として歴史に名を残すことになりました。
このように、田中正造は一地方の問題として片付けられがちだった鉱毒被害を、国全体が考えるべき重大な問題として浮かび上がらせた人物だと言えます。
足尾鉱毒事件とは?公害問題を簡単に解説
足尾銅山で何が起こっていたのか
足尾鉱毒事件は栃木県日光市足尾地区にあった足尾銅山の操業が原因で起こった日本初の本格的な公害事件です。
足尾銅山は江戸時代から採掘が行われていましたが1877年に民営化されてから急速に近代化と大規模操業が進みました。
銅を採掘し選鉱や精錬を行う過程で有害な重金属を含んだ酸性の排水が大量に発生しました。
その排水が十分な処理をされないまま渡良瀬川に流され川の水が汚れていきました。
さらに精錬所から出る亜硫酸ガスを多く含んだ煙が山の木々を枯らし周辺の山林ははげ山のような状態になりました。
山の保水力が弱くなったことで大雨のたびに土砂が川に流れ込み鉱毒を含んだ泥が下流域へと広がるようになりました。
こうした排水と排煙と土砂流出が重なり合って環境全体に深刻な影響を与えるようになったのが足尾鉱毒事件の背景です。
川や田んぼ、住民に出た被害とは
渡良瀬川流域では1880年代の終わりごろから魚が減り川沿いの植物が枯れるなどの異変が目立つようになりました。
1890年の大洪水の際には足尾銅山から流れ出た鉱毒を含む泥が一気に下流に押し流され広い範囲の田畑をおおいました。
その結果栃木県や群馬県の田んぼや畑が汚染され稲や野菜が枯れたり実らなくなったりする深刻な農業被害が起こりました。
土壌に鉛や銅などの重金属がたまり長い間作物がうまく育たない土地になってしまった場所も多くありました。
農作物がとれなくなったことで農民の収入は減り生活は苦しくなり借金を抱えたり村を離れざるを得なくなった人もいました。
川の水を飲料水や生活用水として利用していた地域では健康への悪影響も心配され人々の不安は大きくなっていきました。
このように足尾鉱毒事件は自然環境だけでなく地域社会と人々の暮らしそのものを揺るがす問題となっていきました。
当時の政府や企業の対応はどうだった?
当時の日本政府は近代化を進めるために鉱山などの産業発展を強く後押ししており足尾銅山も国にとって重要な収入源でした。
そのため初めのころ政府や県は被害を訴える農民に対して慎重で対応は遅く被害はしばらく放置された形になりました。
住民の訴えが大きくなると政府は学者に調査を依頼し鉱毒が原因であることは次第に明らかになっていきました。
しかし足尾銅山を経営していた古河鉱業側は操業を続けたい立場から賠償金の支払いなどで示談しようとし根本的な解決にはなかなか進みませんでした。
被害地の一部とは補償金を支払う代わりに今後は訴えを起こさないという内容の示談契約が結ばれたこともありました。
一方で政府は排水路の整備や沈殿池の設置など一定の防止策を指導しましたが被害を完全に止めるまでには至りませんでした。
こうした中で田中正造をはじめとする人々が国会での追及や請願運動を続け公害問題として社会全体に訴えていく流れが生まれました。
田中正造は足尾鉱毒事件で何をしたのか
被害の実態を調査し、住民の声を集めた
田中正造は足尾銅山の下流域に暮らす人々と同じ被害当事者として鉱毒問題に向き合いました。
渡良瀬川流域で農作物が枯れ川魚がとれなくなっていく様子を自分の目で確かめるために被害地の村々を何度も歩き回りました。
現地では農民から収穫量の減少や病気の家畜のことなど具体的な被害の実情を聞き取りノートに記録していきました。
その中で田畑が泥に埋もれたり作物が実らなくなったりする被害が一時的なものではなく長く続く深刻な問題だと確信するようになりました。
田中正造は被害農民とともに請願書や嘆願書を作成し署名を集めることで被害の声を一つの形にまとめていきました。
こうして集めた事実や住民の訴えは後に国会での追及や政府への要求の重要な根拠となりました。
国会議員として政府に公害被害を訴えた
田中正造は衆議院議員に当選すると足尾鉱毒問題を繰り返し国会で取り上げました。
第2回帝国議会のころから足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川沿岸に被害を与えていることを質問し政府に公式な見解をただしました。
政府側は当初被害の原因は必ずしも明らかでないといった答弁を行い問題を認める姿勢は弱いものでした。
しかし田中正造は被害農民の請願を国会に紹介したり質問演説で具体的な被害例を示したりして鉱毒問題を執拗に提起し続けました。
川俣事件と呼ばれる上京請願に関連した衝突が起きた後もその経緯と背景を国会で追及し被害者側の立場から議論を進めようとしました。
その結果足尾鉱毒事件は一地方の紛争ではなく国の政治が向き合うべき大きな社会問題として広く知られるようになりました。
天皇への直訴を試みた有名なエピソード
田中正造の行動の中でも特によく知られているのが1901年に行われた明治天皇への直訴未遂事件です。
1901年12月10日田中正造は日比谷で行われた観兵式の帰途にある明治天皇の馬車に近づき足尾鉱毒事件の被害救済を求める訴状を直接手渡そうとしました。
このとき田中正造は警官に取り押さえられ訴状を渡すこと自体は失敗に終わりました。
しかし直訴を試みたという事実は号外などでたちまち東京中に広まり訴状の内容も新聞を通じて多くの人に知られることになりました。
世論の高まりを受けて政府は翌年鉱毒調査委員会を設置し改めて足尾銅山の鉱毒問題を調査することになりました。
天皇への直訴は法律や慣例に反する危険な行為でしたが田中正造は被害者を救うためには自らの地位や安全を犠牲にしてもよいと覚悟して行動したと伝えられています。
この出来事は権力に対して命がけで公害問題を訴えた象徴的な出来事として今も語り継がれています。
田中正造の主張と行動からわかること
「人命は地球より重い」に通じる考え方
のちに田中角栄首相が「人命は地球より重い」という言葉を用いましたが田中正造の考え方もこれに通じるものがありました。
田中正造は足尾鉱毒事件において国の富や鉱山の利益よりもまず住民のいのちと健康が守られなければならないと繰り返し主張しました。
彼は「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という言葉を残し自然や生活を犠牲にする近代化は文明ではないと批判しました。
この言葉には経済発展がどれほど進んでも人々のいのちや暮らしを壊してしまうならそれは誤った発展だという強い価値観が込められています。
足尾銅山による被害を前にしても単に補償金で解決するのではなく被害そのものを止めることを最優先にすべきだと考えた点にもその姿勢が表れています。
こうした主張は後の公害問題や環境政策において人間のいのちと健康を中心に据える考え方へとつながっていきました。
経済発展よりも住民の暮らしを守ろうとした姿勢
明治時代の日本では「富国強兵」を合言葉に産業を発展させ税収を増やすことが国の最重要課題だと考えられていました。
足尾銅山も日本有数の銅の産地として国の財政を支える重要な産業であり多くの政治家や官僚はその操業を守ろうとしました。
しかし田中正造は鉱山の利益がどれほど大きくてもその裏側で農民が田畑を失い生活の基盤を奪われている現実を見過ごすことはできないと考えました。
彼は国会での演説や請願の中で銅の生産量よりも被害を受ける住民の暮らしを守ることこそ政治の役割だと訴え続けました。
また政府が鉱毒を沈める名目で渡良瀬川下流に遊水池をつくり村ごと水の下に沈めようとした計画に対しても住民を「犠牲」にするやり方だとして強く反対しました。
栃木県の谷中村に移り住んでまで反対運動を続けたことは経済政策よりも現場の人々の生活を優先した象徴的な行動だといえます。
権力に逆らっても正しいと思うことを貫いた勇気
足尾鉱毒事件では政府も鉱山会社も自らの責任を認めたがらず被害は「原因がはっきりしない」とされることが多くありました。
その中で田中正造は被害地を歩き続けて得た確信をもとに鉱毒が原因であると公然と主張し政府や企業の姿勢を厳しく批判しました。
明治時代の日本では天皇や政府を正面から批判することは非常に勇気のいる行為であり時に社会的な立場を失う危険も伴っていました。
それでも田中正造は議員の職をなげうってまで谷中村に移り住み一住民として鉱毒反対運動の最前線に立ち続けました。
さらに明治天皇への直訴を試みた行動は自分の身の安全よりも被害者を救いたいという思いを優先した結果だと考えられます。
こうした態度は多数派や強い権力に逆らってでも自分が正しいと信じることを貫く勇気の大切さを今を生きる私たちに強く訴えかけています。
田中正造の功績|何が評価されているのか
日本で公害問題に初めて本格的に取り組んだこと
田中正造の最大の功績は日本で近代的な公害問題に初めて本格的に取り組んだ政治家として評価されていることです。
足尾鉱毒事件は日本における代表的な初期の公害事件とされており田中正造はその被害を「鉱毒」や「公害」として捉え直し国会で繰り返し問題提起を行いました。
彼は渡良瀬川流域の被害地を歩いて実態調査を行い農民の証言や被害の記録を集めそれをもとに政府に原因究明と対策を求めました。
こうした活動は後に「公害闘争の初め」と国会でも言及されるようになり日本の公害問題史の出発点として位置づけられるようになりました。
公害という言葉が行政の中で本格的に用いられる以前から田中正造は足尾鉱山による被害を公の利益をそこなう「公害」として捉えていた点も先駆的だと評価されています。
被害者の立場から政治を動かそうとしたこと
田中正造のもう一つの大きな功績は被害者側の立場に立って政治を動かそうとした点にあります。
彼は自らも渡良瀬川流域の住民であり被害当事者として農民と同じ目線から問題を考え彼らの声を国会へと運びました。
衆議院議員として被害農民の請願を取り上げ質問主意書や演説を通じて政府に責任ある対応を迫り続けました。
議員という立場は本来は国家の発展や産業振興を語る場になりがちでしたが田中正造は弱い立場にある農民を守るためにその権限を使おうとしました。
やがて彼は議員の職を辞してまで谷中村に移り住み住民と生活を共にしながら反対運動を続けたことで政治家が被害者と同じ目線で行動する一つのモデルを示しました。
この姿勢はのちに住民運動や市民運動が政治を動かす際の先例としてたびたび取り上げられています。
後の公害対策・環境保護の考え方に与えた影響
田中正造の思想や行動は後の公害対策や環境保護の考え方にも大きな影響を与えました。
彼が述べた「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という言葉は環境と人間の共生をめざす理念として今日でも環境教育や公害史の学習で引用されています。
高度経済成長期に相次いだ水俣病などの公害問題を振り返る際にも足尾鉱毒事件と田中正造の取り組みは日本の公害史の原点として環境白書などで紹介されています。
また田中正造の故郷である栃木県佐野市では没後100年を記念して環境保全に取り組む団体を顕彰する田中正造記念賞が設けられるなど彼の思想を現代の環境活動につなげる取り組みが行われています。
佐野市が「田中正造の日」を定めて環境イベントを開いていることも彼の功績が単なる歴史上の出来事ではなく今の社会で環境を守る意識を高める象徴として生き続けていることを示しています。
このように田中正造は一つの鉱毒事件の告発者という枠をこえて日本における環境保護思想と公害対策の流れをつくった人物として高く評価されています。
現代につながる教訓|今の私たちが学べること
環境問題とどう向き合うべきか
田中正造の行動は環境問題に向き合うとき私たちが何を大切にすべきかを今も教えてくれます。
足尾鉱毒事件では川や山が汚れることが人々の健康や暮らしを直接おびやかすことがはっきりと示されました。
現代でも温暖化や大気汚染など環境問題は目に見えにくく被害がゆっくり進むことが多いため危険が実感されにくい面があります。
しかし田中正造が訴えたように自然の破壊はやがて人のいのちや生活にかえってくるという視点を持つことがとても大切です。
日本の環境白書でも田中正造の言葉を引用し真に豊かな社会とは自然と人間がともに生きられる社会であると説明しています。
環境問題を考えるとき便利さや経済的な利益だけを見るのではなくその裏で誰かが苦しんでいないか将来の世代にどんな影響があるかを考える姿勢が求められています。
「おかしい」と思ったことを声に出す大切さ
足尾鉱毒事件の初め農民たちは被害を訴えてもなかなか受け止めてもらえず泣き寝入りを強いられていました。
田中正造はそうした声にならない不満や不安を一つ一つ聞き取り言葉にして請願書や演説という形に変えていきました。
環境問題や社会問題の多くは被害が小さいうちに「少しおかしい」と感じた段階で声を上げなければ大きな犠牲になってからようやく気づくことになりがちです。
現代の公害や環境政策の振り返りでも住民や現場の人の早い段階での訴えをきちんと受け止める仕組みが必要だという教訓が語られています。
田中正造の姿からはおかしいと思ったことをあきらめずに言葉にし周りと共有し続けることが問題解決の第一歩になるということがわかります。
学校や地域でも身近な環境の変化や不公平だと感じることを見過ごさず対話の場で伝えることが社会をよい方向へ動かす力につながっていきます。
一人の行動が社会を変える可能性について
田中正造の行動は一人の市民や一人の政治家の行動でも社会に大きな影響を与えうることを示しています。
足尾鉱毒問題に取り組んだ当時彼は国の方針や大企業を相手に孤立無援に見えることもありましたが諦めずに訴え続けました。
結果として足尾鉱毒事件は新聞や議会で大きく取り上げられ公害という問題を社会全体が考えるきっかけになりました。
現代でも佐野市などで環境フェスタや記念賞が行われているように田中正造の名前を通じて多くの人が環境保護について学ぶ機会がつくられています。
小さな声や一見弱い立場の人の行動でも粘り強く続けることで周囲を動かしやがて行政や企業の対応を変えていくことができるというのが足尾鉱毒事件から得られる大きな教訓です。
私たち一人一人も自分には関係ないと考えるのではなく身近な環境問題や社会の課題に対してできることから行動していくことでよりよい未来をつくる一員になれるといえます。
年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1841年 | 天保12年 | 田中正造が下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)に生まれる。 |
| 1877年 | 明治10年 | 古河市兵衛が足尾銅山の経営に関わり始める。近代的設備による大規模操業が進み後の鉱毒被害の基盤が形づくられる。 |
| 1884年 | 明治17年 | 足尾銅山の銅生産量が日本一となる。産銅量の急増とともに排煙や排水が増え渡良瀬川流域の環境悪化が進行する。 |
| 1885年 | 明治18年 | 新聞「朝野新聞」が足尾銅山周辺の鉱毒被害を報道し始める。足尾の環境問題が全国的に知られるきっかけとなる。 |
| 1890年 | 明治23年 | 渡良瀬川の大洪水により鉱毒を含んだ泥が下流域に拡散し田畑の被害が一気に深刻化する。同年田中正造が第1回衆議院議員総選挙で当選し国政に進出する。 |
| 1891年 | 明治24年 | 国会で足尾銅山鉱毒事件が初めて討議される。田中正造が第2回帝国議会で足尾銅山の操業停止を求める質問を行い鉱毒問題を国政の場に正式に持ち込む。 |
| 1896年 | 明治29年 | 田中正造が群馬県館林市の雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒事務所を設置し足尾鉱毒被害民の闘争本部とする。国会では永久示談の不当性を追及し被害者救済を訴える。 |
| 1897年 | 明治30年 | 足尾銅山鉱毒問題で被害農民の上京請願運動(押し出し)が本格化する。政府は東京鉱山監督署を通じて足尾銅山に鉱毒除防工事命令を出し足尾銅山鉱毒調査会を設置する。 |
| 1900年 | 明治33年 | 2月13日に川俣事件が発生する。東京へ請願に向かう渡良瀬川流域の農民と警官隊が群馬県川俣付近で衝突し流血事件となる。田中正造は直後の帝国議会で「亡国に至るを知らざれば……」の演説を行い政府を激しく批判する。 |
| 1901年 | 明治34年 | 田中正造が衆議院議員を辞職し被害民とともに闘う姿勢を明確にする。12月10日には日比谷での観兵式帰途の明治天皇に足尾鉱毒被害の救済を求める訴状を手渡そうと直訴を試みるが警官に阻まれ未遂に終わる。 |
| 1906年 | 明治39年 | 鉱毒を沈殿させる遊水地建設のため渡良瀬川下流の谷中村が強制廃村となり藤岡町に合併される。田中正造が暮らし運動拠点とした村が地図上から消えることになり足尾鉱毒事件の象徴的な出来事となる。 |
| 1913年 | 大正2年 | 9月4日田中正造が栃木県足利郡吾妻村下羽田(現在の佐野市下羽田町)で死去する。足尾鉱毒問題の完全解決を見ないまま生涯を閉じるがその思想と行動は後世の公害・環境運動に大きな影響を与える。 |
| 1974年 | 昭和49年 | 総理府中央公害審査委員会に持ち込まれていた渡良瀬川沿岸農民による足尾鉱毒被害の申請事件で調停が成立する。古河鉱業の加害責任が正式に認定され「100年公害」と呼ばれた足尾鉱毒事件にひとつの区切りがつく。 |
まとめ|田中正造はどんな人だったかを一言で言うと
「公害に苦しむ人々のために闘い続けた政治家」
田中正造は足尾銅山の鉱毒によって生活をこわされた人々のために生涯をかけて闘い続けた政治家です。
明治時代に産業発展が最優先とされていた中で彼は国の利益よりも被害を受ける住民のいのちと暮らしを守ることを第一に考えました。
被害地を何度も歩き実態を調査し農民の声を集めて国会で訴えた姿勢は日本における公害問題への取り組みの出発点と評価されています。
さらに議員の地位を手放してまで現地に移り住み天皇への直訴まで試みた行動には弱い立場の人々を見捨てない強い責任感が表れています。
一言でいえば田中正造は公害に苦しむ人々の側に立ち続けた先駆的な環境派の政治家だったといえます。
今も語り継がれる理由をおさらい
田中正造の名が今も教科書や環境教育で取り上げられるのは彼の行動が現代の環境問題にも通じる重要な教訓を含んでいるからです。
足尾鉱毒事件で示された自然破壊が人間の健康と生活を直接おびやかすという構図は後の公害や地球環境問題にも共通するものです。
また田中正造が示した「真の文明とは人と自然を壊さないものである」という考え方は環境基本法や環境白書などで語られる理念にもつながっています。
一人の政治家が現場の人々の声を拾い上げて社会全体に問題提起を行った事例として彼の歩みは住民運動や市民参加のモデルとしても位置づけられています。
こうした理由から田中正造は歴史上の人物であると同時に今も環境や公害を考えるときの原点として語り継がれているのです。

