徳川綱吉とは?何をした人か簡単に解説「生類憐れみの令」で有名な将軍の実像

徳川綱吉とは?何をした人か簡単に解説|「生類憐れみの令」で有名な将軍の実像 日本の歴史

徳川綱吉は、江戸幕府第5代将軍であり、元禄文化が花開いた時代を主導した人物です。

一方で、生類憐れみの令を出した将軍として「犬公方」とも呼ばれ、長く悪政の象徴とみなされてきました。

しかし近年は、学問の振興や幕府財政の立て直しなど、綱吉の政治を多角的に評価しようとする見方も広がっています。

本記事では、徳川綱吉の生涯と主な政策をわかりやすく整理し、綱吉が「何をした人なのか」を簡潔に理解できるように解説します。

徳川綱吉とはどんな人物?

徳川綱吉の生涯を簡単に紹介

徳川綱吉は江戸幕府第5代将軍であり、1680年から1709年までおよそ30年にわたって政治の中枢に立った人物です。

生まれは1646年で、江戸城で第3代将軍徳川家光の四男として誕生しました。

幼名は徳松で、生母はのちに桂昌院と呼ばれる本庄氏出身の女性です。

将軍としての綱吉の時代は、元禄文化が栄えたことから「元禄時代」とも呼ばれ、町人文化や経済活動が大きく発展しました。

一方で、生類憐れみの令を出したことから「犬公方」と陰口をたたかれ、後世にはしばしば悪政の象徴として語られてきました。

しかし綱吉の治世は、戦乱がほとんどなく全国的には平和が続き、経済や都市文化が成熟していく過程でもありました。

1709年に綱吉は62歳で亡くなり、法名は常憲院とされて寛永寺に葬られました。

このように徳川綱吉は、動物保護の政策で賛否を呼びつつも、平和と文化の発展を背景にした元禄期を代表する将軍であったと言えます。

将軍になるまでの経歴と背景

徳川綱吉は1646年に江戸城で生まれ、幼少期から将軍家の一員として特別な環境で育ちました。

1651年に父の家光が亡くなると、綱吉は兄とともに上野や美濃などに15万石の領地を与えられ、大名としての基盤を与えられました。

1661年には10万石が加増され、綱吉は合計25万石を領する上野館林藩主となり、館林徳川家の初代として藩政を担う立場になります。

館林藩主としての経験を通じて、綱吉は領地支配や財政運営に関する実務に触れ、統治者としての感覚を養っていきました。

当時の江戸幕府では、兄の第4代将軍徳川家綱に実子がいなかったため、後継者問題が大きな課題になっていました。

その中で、血筋が近いことや館林藩主としての実績、生母桂昌院の政治的な影響力なども背景となり、綱吉は有力な後継候補として浮上しました。

1680年に家綱が死去すると、幕府内部の調整と有力大名や老中の支持を受けて、綱吉は第5代将軍に就任します。

この将軍就任の過程で、綱吉は大老酒井忠清を退けるなど人事面でも大きな転換を行い、自らの方針に沿った政治体制を整えようとしました。

社会的には、農村の変化や貨幣経済の発展などで従来の支配構造が揺らぎ始めており、綱吉はその変化に対応する形で新たな統治スタイルを模索する立場に置かれていました。

このような生い立ちと経歴、そして時代背景が重なり、後の綱吉の政策や評価につながっていくことになります。

徳川綱吉は何をした人?主な政策と功績

「生類憐れみの令」を出した理由と目的

徳川綱吉の政策の中で最も知られているのが「生類憐れみの令」と呼ばれる一連の法令です。

これは犬や猫だけでなく、鳥や魚、貝、虫までを含む生き物全般と、捨て子や病人、高齢者など弱い立場の人々を保護することを目的としたものでした。

綱吉の治世の中で1680年代から1690年代にかけて繰り返し出された触書の中では、人々に「仁の心」を育てるためにこの政策を行うのだと説明されています。

儒学、とくに朱子学で重視される徳治政治や仁政の考え方を背景に、武力ではなく徳によって社会秩序を保とうとした点が、この政策の根本的な発想でした。

綱吉は将軍就任直後から、自らも鷹狩をやめるなど殺生を控える姿勢を示し、生き物を大切にする態度を政治の場で強く打ち出しました。

一方で、綱吉が戌年生まれで跡継ぎに恵まれなかったことから、母桂昌院の信頼していた僧侶に「犬を大切にすべきだ」と勧められたという有名な説もあります。

しかし近年の研究では、この僧侶の話だけで政策全体を説明するのは正確ではなく、当時の社会不安を抑え、弱者保護を進めるための広い政策の一部として理解すべきだと考えられるようになっています。

生類憐れみの令は、処罰の厳しさや運用の行き過ぎから強い反発も生み、後世には「天下の悪法」として語られることが多くなりました。

それでも、捨て子の禁止や病人の保護などの一部は綱吉の死後も続けられたことから、社会の中に「弱者を守るべきだ」という新しい価値観を浸透させた側面も指摘されています。

経済・政治面の改革(貨幣政策・勘定所改革 など)

徳川綱吉は、生類憐れみの令だけでなく、幕府財政や支配体制を立て直すための経済・政治改革も積極的に進めた将軍です。

将軍就任後、綱吉は幕府の会計を監査するために勘定吟味役という役職を設け、有能な小身旗本を取り立てて財政運営の強化を図りました。

この勘定吟味役から登用された荻原重秀は、綱吉時代の経済政策を事実上一手に担った人物であり、のちに勘定奉行として幕府財政の中心に立つことになります。

荻原は、五畿内などで詳細な検地を行わせ、従来の世襲代官に代えて幕府直轄の官僚を派遣するなど、地方支配の仕組みを見直して年貢収入の把握と徴収を効率化しました。

さらに元禄期には、蔵米取りの旗本を知行取りに改める「元禄地方直し」や、幕府直轄領を再編して収入の高い地域を幕府領に組み込む政策なども進められました。

貨幣政策では、1695年ごろに金銀の含有量を引き下げた元禄金・元禄銀、いわゆる「元禄小判」に代表される貨幣改鋳を行い、幕府の改鋳益を得るとともに市中の貨幣量を増やそうとしました。

この改鋳によって幕府は数百万両規模の利益を得ており、度重なる災害復興や将軍家の儀礼などに必要な資金源の一つになったとされています。

一方で、金と銀の品位低下の度合いが異なっていたために相場が乱れ、米価や物価の高騰を招いたことから、のちに新井白石らによって強く批判されることにもなりました。

それでも、短期的には元禄期の好景気を支える一因となったと評価する研究もあり、綱吉政権の経済政策は単純な「失敗」とだけは言い切れない面を持っています。

学問の振興と文化への影響(朱子学・儒学の推進)

徳川綱吉は大変な学問好きとして知られ、とくに儒学、とりわけ朱子学を重んじた将軍でした。

綱吉は林家の儒学者である林信篤をしばしば召して経書の議論を行い、自らも四書や易経を家臣たちに講義するなど、将軍自らが学問の手本となる姿勢を示しました。

1690年には江戸の神田湯島に孔子廟である湯島聖堂を建立し、林家の私塾をそこに移転させて、幕府公認の学問の中心地としました。

この湯島聖堂はのちに昌平坂学問所へと発展し、旗本や諸藩の子弟が朱子学を学ぶ幕府直轄の最高学府として、長く日本の官学教育を担っていきます。

江戸幕府の儒学政策は徳川家康による林羅山の登用に始まりましたが、綱吉による湯島聖堂の建設によって朱子学重視の流れはいったん頂点に達したと評価されています。

綱吉は儒教的な尊皇思想にも厚く、朝廷への敬意を示すために皇室領を増やし、多くの天皇陵の修復を行うなど、朝廷への支援にも力を入れました。

このような文治政治の方針は、武力よりも礼儀や道徳を重んじる社会の雰囲気をつくり、のちに元禄文化と呼ばれる町人文化の隆盛を支える土台の一つになったと考えられます。

近松門左衛門や井原西鶴、松尾芭蕉らが活躍した元禄期の文化的な繁栄は、戦乱が少なく、学問と文化を奨励した綱吉の長期政権と無関係とは言えません。

「犬公方」と呼ばれたのはなぜ?

動物保護政策の実態とその影響

徳川綱吉が「犬公方」と呼ばれたのは、生類憐れみの令の中でも特に犬を手厚く保護したことが人々の強い印象として残ったからだと考えられています。

生類憐れみの令は本来、犬に限らず生き物全般や捨て子など弱い立場の人々を保護することを目的とした一連の法令でしたが、なかでも犬への保護が徹底されたため、綱吉のあだ名として「犬公方」が広まりました。

綱吉が丙戌年生まれであったことから、犬を大切にすべきだという発想と結び付けられたとも言われ、こうした干支に基づくイメージも「犬公方」という呼び名を強めた要因とされています。

具体的な政策としては、江戸周辺で野犬をむやみに捕獲したり殺したりすることを禁じ、けがをした犬や捨てられた犬を保護する体制を整えたことが挙げられます。

江戸郊外の中野には大規模な「犬小屋」や「御囲」と呼ばれる施設が設けられ、行き場のない犬を収容して飼育するための幕府直営の犬屋敷が整備されました。

中野の犬屋敷は現在の中野区役所周辺から一帯に広がり、面積はおよそ100ヘクタール、数万から30万頭もの犬が収容されていたと伝えられています。

この犬屋敷の運営には莫大な費用がかかり、1年間の経費がおよそ98,000両にも達したとされ、幕府財政にとっても小さくない負担となりました。

犬屋敷に収容された犬は「御犬」と呼ばれ、将軍家の保護を受ける特別な存在とみなされ、農村に預けられた犬も含めて幕府の権威を象徴する存在として扱われました。

このような犬の保護政策は、江戸近郊の景観にも大きな影響を与え、田畑の一部が犬屋敷に転用されるなど、土地利用の面でも変化をもたらしました。

また、犬を傷つけたり粗末に扱ったと疑われるだけで厳しい処罰を受ける可能性があったため、人々は犬に対して非常に神経質な態度を取らざるを得なくなりました。

こうした状況は、人々の記憶に強烈な印象を残し、「犬を異常なまでに大切にした将軍」というイメージが後世まで語り継がれる理由になったと考えられます。

庶民への負担と社会に与えた混乱

生類憐れみの令による動物保護、とくに犬に対する保護は、理想としては弱い存在を守る仁政を目指したものでしたが、実際の運用では庶民にとって大きな負担と混乱を招く結果にもなりました。

まず、犬を傷つけたり殺したりしたとされる者には、身分にかかわらず厳しい処罰が科される場合があり、人々は日常生活の中で犬に関わることを極端に恐れるようになりました。

町中を徘徊する犬を追い払うこともはばかられ、噛みつかれそうになっても手荒に扱うことができないという状況は、庶民の暮らしにとって大きなストレスとなりました。

江戸近郊の村々では、幕府から犬の預かりを命じられることがあり、村人は自分たちの田畑の一部を犬の飼育スペースにあて、餌代や世話の手間を負担しなければなりませんでした。

中野の犬屋敷のような大規模施設では、莫大な運営費が必要で、その費用は最終的に年貢や諸役の形で庶民の負担として跳ね返ってきたと考えられています。

幕府の財政が逼迫する中で、犬屋敷のような施設に多くの資金が注がれたことは、「人より犬を大事にしているのではないか」という不満を生む原因にもなりました。

また、生類憐れみの令は犬だけでなく、魚や鳥、貝などの扱いにも影響を与え、地域によっては従来の食文化や生業を脅かすと受け止められることもありました。

長崎のように外国人居留地がある場所では、すべてを一律に禁じれば交易に支障が出るため、唐人やオランダ人については例外を認めるなど、運用上の調整も必要になりました。

このように、法令の理想と現実の生活との間には大きなギャップがあり、取り締まりの担当者のさじ加減によっては過酷な処罰が行われたことも、庶民の反感を強める要因となりました。

結果として、生類憐れみの令は「弱者や生き物を守るための政策」であると同時に、「日常生活を縛り、混乱をもたらした窮屈な法令」として記憶され、綱吉の政治全体が悪政と評価される一因になっていきました。

しかし一方で、捨て子の禁止や病人の保護など、一部の規定は綱吉の死後も継続されており、当時の社会に弱者保護の意識を根付かせたという側面も指摘されています。

徳川綱吉の功績と評価

綱吉の政治は本当に「悪政」だったのか?

徳川綱吉の政治は長いあいだ「生類憐れみの令」と贅沢な元禄文化のイメージから「悪政」として語られてきました。

国史大辞典などの伝統的な見方では綱吉政権の前半は綱紀粛正が進んだ「天和の治」として評価される一方後半の元禄期から宝永期は奢侈や弊政が目立つ時期と説明されています。

側用人政治の進展や寺社造営の出費そして生類憐れみの令の厳格な運用などが財政悪化を招いたという批判は当時から存在しました。

元禄期から宝永期にかけては元禄地震や富士山の宝永噴火など大きな天災が続きこれらの不幸が「将軍の不徳」のせいだと結び付けられたことも綱吉の評判を悪くする要因になりました。

また綱吉の死後に政権の中枢に立った新井白石やその後の徳川吉宗らは自らの改革を正当化するために綱吉時代を「反面教師」として描く傾向がありました。

近世後期から近代にかけてはこの白石や吉宗寄りの見方が教科書や通俗的な歴史書に引き継がれ綱吉は「贅沢と悪法で幕府を傾けた将軍」というイメージが固定されていきました。

しかし近年の研究では生類憐れみの令や貨幣政策を当時の社会状況や財政事情の中で捉え直し必ずしも単純な暴政とは言えないという指摘が増えています。

天和期の賞罰厳明や代官の不正摘発などは統治機構の引き締めとして評価されており初期の綱吉政治を高く評価する歴史研究者も少なくありません。

このように徳川綱吉を一言で「名君」か「暴君」かに分けることは難しく時期によって性格の異なる政策を行った将軍として捉える必要があると考えられるようになっています。

近年見直されている綱吉の功績

近年の研究や一般向け解説では徳川綱吉の政治を「生命尊重の思想を広めようとした文治政治」として見直す動きが強まっています。

生類憐れみの令についても単なる犬への偏った愛護ではなく捨て子の保護や病人への配慮など人間を含む弱者救済の色彩が強かったと評価する論考が増えています。

悪法とされてきた法令の中にも捨て子を見つけたら保護することや負傷した者を放置しないことを求める条文があり当時としては先進的な福祉的発想が含まれていたと指摘されています。

生類憐れみの令を生命倫理や人権意識の萌芽として捉え直し日本人の倫理観を変えるきっかけになったという見方も近年の研究や歴史読み物で示されています。

また綱吉は儒学特に朱子学を重んじ湯島聖堂を建立して林家の学問所を移転させるなど幕府公認の学問体制を整えました。

この学問政策はのちの昌平坂学問所につながり武士階級を中心とした教育制度の基盤を築いた点で重要な功績と評価されています。

政治面でも前半期には勘定吟味役の設置や不正代官の大量処分などを通じて幕領支配を刷新し天和の治と呼ばれる引き締め政策を行いました。

貨幣改鋳や直轄領の再編は物価高騰を招いたという負の側面がある一方商品経済の発展に対応し流通量を増やそうとした積極的な金融政策として評価する見解も出ています。

長期政権のもとで戦乱がなく都市経済が発達したことは元禄文化の繁栄と密接に結び付いており綱吉の治世を「江戸幕府の最盛期の一つ」と位置付ける研究もあります。

実際に近年改訂された日本史の学習書や子ども向け歴史シリーズでは綱吉を単なる悪政の象徴ではなく生命尊重の道徳を広めようとした将軍として紹介する記述が増えています。

こうした流れから現在では徳川綱吉は「行き過ぎもあったが平和な時代にあわせて統治のあり方を変えようとした改革的な将軍」としてよりバランスの取れた評価へと移りつつあります。

徳川綱吉の年表

西暦和暦主な出来事
1646年正保3年徳川家光の四男として江戸城に生まれる。
1651年慶安4年兄綱重とともに近江・美濃・信濃・駿河・上野の計15万石を与えられ大名としての基盤を得る。
1653年承応2年元服し家綱から偏諱を受けて「綱吉」と名乗る。
1657年明暦3年明暦の大火で竹橋の屋敷が焼失し神田の御殿へ移る。
1661年寛文元年25万石を与えられて上野館林藩主となり館林徳川家初代となる。
1680年延宝8年徳川家綱の死去にともない江戸幕府第5代征夷大将軍に就任する。
1682年天和2年幕府の会計監査強化のため勘定吟味役を設置し財政引き締めを進める。
1687年貞享4年諸藩に対して初めて「生類憐れみの令」を発令し病馬投棄の禁止など生類保護を命じる。
1690年元禄3年江戸湯島に孔子廟として湯島聖堂を建立し朱子学を中心とする学問振興を図る。
1695年ごろ元禄8年ごろ元禄金・元禄銀への貨幣改鋳を開始し幕府財政の立て直しと貨幣流通量の増加を狙う。
1704年宝永元年甥である甲府徳川家の綱豊(のちの徳川家宣)を将軍世継として指名する。
1708年宝永5年柳沢吉保邸に出向き荻生徂徠らと学問談義を行うなど晩年まで文治政治の姿勢を示す。
1709年宝永6年江戸城で麻疹により死去し常憲院と諡され寛永寺に葬られる。
1709年宝永6年綱吉の死後まもなく生類憐れみの令が廃止され第6代将軍として徳川家宣が就任する。

まとめ|徳川綱吉はどんな将軍だったのか簡潔におさらい

徳川綱吉は1646年に生まれた江戸幕府第5代将軍であり元禄文化が大きく発展した時代を率いた人物です。

生類憐れみの令を中心とした動物保護や弱者救済の政策を進めたことから「犬公方」と呼ばれ人々の記憶に強い印象を残しました。

一方で勘定所の改革や貨幣改鋳などを通じて幕府財政の立て直しを図り長期政権のもとで都市経済と町人文化の繁栄を支えた面もありました。

また朱子学を重んじて湯島聖堂を整備するなど学問を保護し武士教育の基盤を築いたことで後の江戸幕府の学問政策に大きな影響を与えました。

従来は生類憐れみの令の行き過ぎや犬屋敷の負担などから「悪政の将軍」とみなされてきましたが現在では生命尊重や弱者保護を重視した先進的な一面も評価されています。

徳川綱吉は暴君か名君かと単純に割り切れる存在ではなく時代の変化に合わせて武断から文治へと政治の方向性を切り替えようとした複雑で多面的な将軍だったと言えます。

生類憐れみの令だけでなく財政改革や学問振興にも目を向けることで徳川綱吉の実像をより立体的に理解することができるようになります。

出典情報:Wikipediaコトバンク江戸東京博物館企画展中野区公式サイト

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