足利義政とは?何をした人?簡単にわかる銀閣寺を建てた将軍の生涯

足利義政とは?何をした人?簡単にわかる銀閣寺を建てた将軍の生涯 日本の歴史

足利義政(あしかが よしまさ)は、室町幕府の第8代将軍であり、「銀閣寺」を建立したことで知られる人物です。

政治的には「応仁の乱」によって幕府の力を衰退させた一方で、文化面では「東山文化」と呼ばれる日本美の原型を築きました。

本記事では、足利義政の生涯・功績・失敗、そして銀閣寺に込められた思いを、初心者にもわかりやすく解説します。

足利義政とはどんな人物?

室町幕府8代将軍としての地位

足利義政は室町幕府の第8代征夷大将軍です。

将軍在職は1449年から1473年までで、のちに子の足利義尚へ将軍職を譲っています。

在任期には幕府の実権が管領や有力守護大名に傾く中で政権運営に苦慮し、体制そのものの脆弱さが表面化しました。

生まれと家族構成|足利義満との関係

義政は1436年1月20日に第6代将軍足利義教と日野重子の子として生まれました。

同母兄に第7代将軍足利義勝がいます。

正室は日野富子で、のちの第9代将軍足利義尚の母です。

系譜上は第3代将軍足利義満の孫にあたり、義満の子である義教を父にもつ世代です。

将軍になった背景と時代の流れ

1441年に父の義教が嘉吉の乱で殺害され、兄の義勝が第7代将軍を継ぎましたが1443年に早世しました。

このあと義政が将軍家の後継に選ばれ、1449年に元服して将軍宣下を受けました。

就任時点で幕政は細川・畠山・山名らの利害が錯綜し、京都と諸国で内紛が頻発する不安定な局面にありました。

足利義政は何をした人?

【WEB検索を実施】本節は日本の事典類・解説サイト・百科事典を参照し、用語や年代を確認したうえで執筆しています。

政治面での混乱と応仁の乱の勃発

足利義政の治世では将軍家の後継問題や守護大名家の家督争いが重なり、細川勝元と山名宗全を軸に東軍と西軍が対立しました。

この対立は1467年に京都で武力衝突へ発展し、各地の大名を巻き込んだ長期戦となりました。

戦いは1477年まで続き、京都は荒廃し、幕府の統制力は大きく低下しました。

義政は1473年に将軍職を子の義尚へ譲りますが、戦乱の収束にはつながらず、室町幕府の権威失墜という結果を招きました。

文化面での功績|東山文化の発展

一方で義政は東山の山荘を拠点に文化芸術を積極的に保護し、禅の精神や唐物の受容を背景に書院造や庭園、水墨画、連歌、能、立花、茶の湯などが洗練されました。

この動向は東山文化と呼ばれ、武家と公家、禅僧や同朋衆の才人が交流することで新しい美意識が形成されました。

東山文化は北山文化の華やかさに対して簡素と幽玄を重んじ、のちの日本的美意識の基層を形づくりました。

芸術や茶道への影響

義政のもとで能阿弥ら同朋衆が活躍し、書院空間の飾りや名物道具の鑑識が体系化されました。

茶の湯では村田珠光が禅味を取り入れた点茶を深め、後世の侘び茶へ連なる精神的基盤が整えられました。

これらの動きは建築や庭園の設計思想と結びつき、簡素で静謐な美の追求として広がりました。

銀閣寺を建てた理由とは?

銀閣寺建立のきっかけと目的

正式名称を慈照寺というこの寺院は、足利義政が東山山荘「東山殿」を造営したことから始まります。

義政は文明14年(1482年)に東山殿の造営に着手し、長享3年(1489年)に観音殿(通称「銀閣」)を上棟しました。

建設の目的には、義政自身が隠居的に文化活動に専念できる環境を整えることと、禅の美意識や書院造・庭園などを融合させた新しい生活空間を創造する意図があったとされています。

金閣寺との違いをわかりやすく比較

義政の祖父である足利義満が建立した鹿苑寺(通称「金閣寺」)は金箔を貼った豪華な建築で、北山文化の象徴でした。

それに対して銀閣寺では、銀箔が貼られていないにも関わらず「銀閣」と呼ばれ、むしろ簡素で静謐な美意識が尊ばれた“東山文化”の象徴となっています。

このように、金閣が華やかさや権威を前面に出した建築であったのに対し、銀閣は内省的・風流的な暮らしを反映した建築として位置づけられています。

銀閣寺に込められた「わび・さび」の美意識

銀閣では書院造・庭園・茶の湯が絡み合い、枯山水や池泉回遊式庭園などを備え、簡素さ・静けさ・経年変化を重んじる美意識が形になっています。

義政本人が書画や茶の湯を嗜み、庭園の意匠や建物の配置にも深く関与したとされ、文化人としての顔が色濃く表れています。

そのため「わび・さび」の精神や隠れた美、静謐さを求める日本文化の一つの礎として銀閣寺が評価されているのです。

足利義政の功績と失敗

政治的な失敗:応仁の乱による幕府の衰退

足利義政の治世最大の失敗は、応仁の乱を防げなかったことにあります。

後継者問題をめぐって義政の弟義視と子義尚の対立が起こり、守護大名同士の対立と結びついたことで全国規模の戦乱となりました。

戦乱によって京都は焼失と荒廃を繰り返し、幕府の統治力は急速に低下しました。

この内乱をきっかけに地方の武士が自立し、戦国時代へと移行していきます。

義政は最終的に政治への関心を失い、文化活動へ傾倒していきました。

文化的な功績:東山文化の確立

義政が残した最大の功績は、東山文化の確立です。

この文化は、禅の精神を基調にした簡素で優雅な美意識を特徴とし、建築では書院造、芸術では水墨画や茶の湯、連歌、華道などが発展しました。

義政は自ら芸術を嗜み、唐物や名物道具の収集を通じて美意識を高めました。

こうした文化活動の中心となったのが、東山殿、すなわち後の銀閣寺です。

この地から生まれた美意識は、のちに「わび・さび」として定着し、日本文化の核心を形づくりました。

結果として残した日本文化への影響

義政の時代は政治的混乱の中にありながら、文化史的には極めて重要な転換期でした。

彼の創出した東山文化は、後世の桃山文化や江戸文化にも受け継がれ、茶道・建築・庭園・書院などの分野で深い影響を与えました。

政治では失敗した将軍でありながら、文化では時代を超える遺産を残した人物として、足利義政は今も評価されています。

足利義政の主要な出来事を年表に

以下は、足利義政の生涯における主要な年を西暦で整理したものです。

出来事
14361月2日、足利義政出生(第6代将軍足利義教の三男として)。
1441「嘉吉の乱」が起き、父・義教が暗殺される。
1443兄・足利義勝が死亡し、将軍家当主としての立場が取り沙汰される。
14494月29日、室町幕府第8代将軍に就任。
1451明との貿易(勘合貿易)を復活させる動き。
1467「応仁の乱」が京都で勃発、幕府の権威が大きく揺らぐ。
147312月19日、将軍職を子・足利義尚に譲り、義政は隠居。
1489「銀閣寺」(慈照寺)建立の観音殿(通称“銀閣”)が上棟。
14901月27日、義政没。法号は慈照院喜山道慶。享年54。

まとめ:足利義政は「政治の失敗」と「文化の成功」を残した将軍

足利義政は、室町幕府の権威が衰退する中で政治的混乱を止められなかった将軍として知られています。

しかし一方で、彼が生み出した東山文化は日本美の礎を築き、後世にまで大きな影響を与えました。

政治においては応仁の乱の勃発によって幕府の求心力を失い、結果として戦国時代への幕を開けることとなりました。

その一方で、義政は芸術や文化の発展に心血を注ぎ、銀閣寺を中心とした文化空間を創造しました。

ここで生まれた「わび・さび」の精神は、日本の美意識を象徴する概念として現代にも息づいています。

義政が築いた日本文化の土台

義政の文化政策や芸術への関心は、単なる趣味を超えて社会全体に影響を及ぼしました。

書院造の発展や茶の湯、水墨画などの洗練は、彼の庇護と美的感覚がなければ実現しなかったといわれています。

このように、政治的な混乱の時代にあっても文化を育てることの意義を体現した人物といえるでしょう。

今に伝わる「美意識」とその魅力

銀閣寺に象徴される静謐で控えめな美は、日本人の精神文化の根幹となっています。

華やかな金閣に対して、銀閣がもつ落ち着きと余白の美は「わび・さび」の心を今に伝えています。

足利義政は、政治的には不運な将軍でしたが、日本文化における「美の創造者」として高く評価される存在です。

現代においても、彼が築いた東山文化は日本人の感性や美意識の原点として輝き続けています。

出典情報:Wikipedia「足利義政」「応仁の乱」「東山文化」コトバンク「足利義政」「東山時代」銀閣寺 | 臨済宗相国寺派京都市情報館

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