南北朝時代とは?何があったかを簡単にわかりやすく解説!【日本史まとめ】

南北朝時代とは?何があったかを簡単にわかりやすく解説!【日本史まとめ】 日本の歴史

南北朝時代は、日本の歴史の中でも特に「天皇が二人いた」異例の時代として知られています。

鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が理想の政治を目指した建武の新政から始まるこの時代は、足利尊氏との対立をきっかけに南朝と北朝が約60年にわたって争いました。

本記事では、南北朝時代の始まりから終結までの流れを、主要人物や出来事とともにわかりやすく解説します。

南北朝時代とは?いつの時代かを簡単に解説

南北朝時代の始まり:鎌倉幕府の滅亡から建武の新政へ

南北朝時代は鎌倉時代と室町時代の間に位置する時代区分であり広義には室町時代に含まれると説明されます。

1333年に鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が天皇親政を掲げた建武の新政を開始したことが大きな転換点でした。

建武の新政は理想の政治を目指しましたが公家優位への反発や武家の不満が高まり短期間で不安定化しました。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立が生んだ「南北朝の分裂」

足利尊氏は京都で北朝の天皇を擁立し建武政権に対抗する動きを強めました。

対立の激化により後醍醐天皇は京都を離れ南朝を樹立しここから二つの朝廷が並立する南北朝の時代が始まりました。

一般に1336年から1392年までを南北朝時代と捉える見解が広く用いられていますが始期を1333年からとする説明も見られます。

南朝と北朝、それぞれの中心地はどこ?

南朝は奈良県の吉野を拠点として展開し山地の行宮を拠点に勢力を維持しました。

北朝は京都を中心として室町幕府の支援を受けながら政務と軍事の体制を整えました。

このように吉野の南朝と京都の北朝が並立したことが南北朝時代の最大の特徴でした。

南北朝時代に何があった?主な出来事を時系列で整理

1333年:鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

1333年に新田義貞らの攻勢で鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇は同年に天皇親政を掲げる建武の新政を開始しました。

建武政権は恩賞配分や公家優位への不満などから武士の支持を十分に得られず短期間で動揺し各地で反発が強まりました。

この政権不安がのちの南北朝分裂の直接的な背景となりました。

1336年:足利尊氏が京都を制圧、北朝を樹立

建武政権に反発した足利尊氏は1336年に京都を制圧し持明院統の光明天皇を擁立して北朝を成立させました。

後醍醐天皇は京都を離れて吉野へ移り南朝を開いたため同時期に二つの朝廷が並立する体制が始まりました。

この年を起点として室町幕府の権力基盤が固まり公武の対立は全国規模の内乱へと展開しました。

南北朝の戦いが続いた約60年の流れ

南北朝期には建武の乱や各地の合戦に加え足利政権内部の対立が激化し1350年から1352年にかけて観応の擾乱が発生しました。

観応の擾乱は尊氏方の高師直派と直義派の抗争が発端で南北両朝の思惑も交錯し内乱が長期化する要因となりました。

この過程で一時的な南北統一である正平一統が見られましたが持続せず各地の戦闘と離合集散が続きました。

1392年:南北朝の合一と戦乱の終結

1392年に足利義満の主導で明徳の和約が成立し後亀山天皇が後小松天皇に神器を譲って南北朝は合一しました。

合一後は室町幕府の体制が優位を保ち朝廷の分裂は終息し南北朝期の内乱は終結しました。

こうして半世紀余りに及んだ分裂は幕府中心の政治秩序の下で収束しました。

南北朝時代の登場人物と勢力図

南朝側の中心人物:後醍醐天皇・楠木正成

後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すために皇位を利用し天皇親政を志した人物です。

その後、武士の支持を失ったことで京都を追われ吉野に拠点を移し、南朝を開きました。:

また、楠木正成は後醍醐天皇に仕え忠義を尽くした武将として名高く、特に「湊川の戦い」で壮絶な最期を遂げたことでも知られています。

北朝側の中心人物:足利尊氏・足利義満

足利尊氏は鎌倉幕府末期から台頭し、後醍醐天皇との対立を背景に北朝を擁立して実質的な武家政権を確立した人物です。

その後、足利義満が幕府の実権を固め南北朝を終結に導き、室町幕府の体制を強めました。

両朝の主張の違い(正統をめぐる争い)

南朝は後醍醐天皇による皇統の正統性を掲げ、「大覚寺統」から続く正統な皇位継承を主張しました。

一方、北朝は幕府の支持を受け持明院統の天皇を立て、「武家政権による実効支配」が現実的な力であると主張しました。

南北朝時代の影響とその後の日本史

室町幕府の成立と全国支配の始まり

この時代の終結に伴い、室町幕府が実質的に全国支配を確立しました。南北朝の分立が解消されることで、将軍・足利義満ら幕府中心の政治体制が強化されました。

幕府は守護・地頭制度の整備を進め、地方武士による国衙支配を幕府が上から制御する仕組みを拡充させました。 

このように南北朝時代の混乱を踏まえて、幕府の支配体制が全国的に安定を図る流れが生まれました。

南北朝の争いがもたらした社会の混乱

南北朝の並立によって、日本全国では長年にわたる内乱が続きました。地方では守護大名が実質的な支配者となるケースが増え、武士の自治的活動が活発化しました。

この結果、各地に戦乱の“常態化”が起こり、農村や都でも社会・経済・人心ともに大きな影響を受けました。

幕府・朝廷という従来の枠組みが揺らぎ、後の戦国時代への土台となる “地方分権/戦国化” の芽がこの時期に見られます。

南北朝時代の終結が日本史に残したもの

南北朝時代の終わりは、天皇が二手に分かれて並立した特殊な時代の「統一」を意味し、歴史的には王朝正統性や支配構造の転換点でした。

終結後は皇位継承・朝廷の位置付け・幕府との関係があらためて整理されました。

また、この時期を経験したことで、将軍・幕府・守護・地頭など武家の制度や役割が明確化され、室町文化を含む中世の日本社会・文化の基盤が形成されました。

こうして南北朝時代は「分裂」から「再統一」への流れとして、日本史の重要な分岐点の一つとなりました。

まとめ:南北朝時代は「二つの朝廷」が戦った分裂の時代

南北朝時代の流れを一言でまとめると?

南北朝時代は鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政の失敗から始まりました。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立によって朝廷が南朝と北朝に分かれ、約60年にわたって全国で争いが続きました。

最終的には1392年に南北朝が統一され、室町幕府の支配が確立しました。

つまり南北朝時代は「理想の政治を求めた天皇と、現実的な武家政権を築いた将軍の対立」が生んだ分裂の時代だったといえます。

覚えておきたいポイントと年号まとめ

南北朝時代の流れを振り返ると、以下のような年号が重要です。

1333年に鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まりました。

1336年には足利尊氏が京都を制圧し、北朝を樹立しました。

そして1392年に南北朝が統一され、長い戦乱が終結しました。

この時代を理解することで、日本史における「武家政権の確立」や「天皇の権威の変遷」をより深く把握できます。

南北朝時代は混乱の中にあっても、のちの室町文化や統一政権の礎を築いた重要な過渡期でした。

出典情報:Wikipediaコトバンク奈良県公式サイト

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