和気清麻呂とは?何をした人か簡単にわかる!神社や道鏡との関係も解説

和気清麻呂とは?何をした人か簡単にわかる!神社や道鏡との関係も解説 日本の歴史

和気清麻呂(わけのきよまろ)は、奈良時代に活躍した官人であり、のちに「護王大明神」として神社に祀られるほど敬われた人物です。

本記事では、清麻呂の生涯を初めて学ぶ方にもわかりやすいように、どんな家に生まれ、どのような性格で、何を成し遂げたのかを順を追って解説します。

とくに、道鏡が権力を握った時代に清麻呂が果たした役割や、宇佐八幡宮の神託に関する逸話、政治家としての功績、そして神として祀られるに至った理由について丁寧に紹介します。

記事の最後には年表も用意し、学習や受験対策に役立つよう全体像を整理します。

和気清麻呂はどんな人?簡単なプロフィール

奈良時代末から平安初期にかけて活躍した官人で、道鏡の台頭期に宇佐八幡宮の神託を奏上したことで歴史に名を残しました。

出身は備前国(現在の岡山県周辺)で、733年に生まれ、799年に亡くなっています。

姉の和気広虫とともに称徳天皇に仕え、のちに桓武天皇のもとで信任を得て活躍しました。

和気清麻呂の生まれと時代背景

清麻呂は天平5年(733年)に生まれ、奈良時代の後半という仏教勢力と政治が密接に絡み合う時代を生きました。

称徳天皇の治世では、僧の道鏡が権力を強める一方で、朝廷内部では皇位継承の正統性をめぐる緊張が高まっていました。

神護景雲3年(769年)には宇佐八幡宮の神託が政治問題化し、清麻呂は使者として宇佐に派遣され、皇位は皇族から立てるべきだとする神意を持ち帰ったことで歴史の転換点に関与しました。

宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御すると情勢は変化し、道鏡は失脚し、清麻呂は都へ復帰していきます。

どんな家に生まれたの?和気氏とは

清麻呂は備前の在地有力氏族である和気氏の出で、父に磐梨別乎麻呂(いわなしのわけのおまろ、または平麻呂)を持ちます。

姉の和気広虫は孤児の救済で知られ、称徳天皇に近侍した女性としても史料に名が見えます。

清麻呂自身は官人として中央で昇進し、のちに従三位に至りました。

和気氏は地方豪族としての基盤を持ちながら、都の政界でも存在感を高め、清麻呂の代には宇佐神託事件を契機に中央政界の要路で役割を果たす家となりました。

清麻呂の性格や特徴

同時代史料が人格を詳細に描写することは多くありませんが、清麻呂は宇佐八幡宮の神託をめぐり、時の権勢であった道鏡に阿ることなく「天つ日嗣は必ず皇の氏(すめらみおや)を立てよ」とする趣旨の神意を奏上した人物として記憶されています。

この行動は、朝廷の正統性を守る信念と勇気の象徴として後世に評価されました。

配流ののちに名誉を回復し、平安京遷都期には桓武天皇の信任を受けたことからも、実務能力と責任感の強さがうかがえます。

京都の護王神社では、清麻呂が猪に守られ難を逃れたという伝承にちなみ「足腰の守護神」として崇敬され、義に厚く不撓不屈の人物像が広く親しまれています。

和気清麻呂は何をした人?主な功績をわかりやすく解説

道鏡事件で朝廷を守った人物

まず、和気清麻呂が登場する最大の転機は、道鏡が皇位への野望を抱いたとも伝えられている事件、いわゆる「道鏡事件」です。

769年(神護景雲3年)、道鏡は女帝・称徳天皇の寵愛を受け「天皇になれば天下は太平になる」という神託を、九州・宇佐八幡宮を通じて奏上させようとしました。

称徳天皇はこの神託の真偽を確かめるため、清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に派遣しました。

清麻呂は神託の現場に赴き、「皇位は皇族が継ぐべきであり、臣下たる道鏡のような者を立ててはならぬ」という神意を奏上しました。

この行動によって道鏡の皇位継承を阻み、朝廷の皇統の正統性を守ったとされ、清麻呂は「皇位簒奪を阻止した英雄」として後世に語り継がれています。

宇佐八幡宮の神託を伝えた逸話

清麻呂が宇佐八幡宮で神託を確かめた際の逸話にも力強いドラマがあります。

清麻呂は神殿に入り、宣命(天皇勅旨)を読み上げようとしましたが神が拒否し、再度請願すると身の丈三丈(およそ九メートル)にも及ぶ僧形の大神が現れ、次のように述べたといいます。

「我が国は開闢より君臣の秩序は定まれり。臣下を君主とすること未だ之有らず。天つ日嗣(すめらみおや)必ず皇の氏を立てむ。無道の者宜しく早く掃除せよ」

この神託を清麻呂が朝廷に奏上したことで、道鏡の皇位継承企図は潰える運びとなり、宇佐八幡宮の神意を代弁する人物として清麻呂の名は強く印象づけられました。

政治家としての貢献とその後の活躍

この神託事件の後、清麻呂は一時期流罪となるという苦難を経験しますが、称徳天皇崩御後、名誉を回復し、次第に朝廷内で重要な役割を果たしていきます。

その後、平安京への遷都(794年)に関与した「造宮大夫」としての役割や、各地方の国司・国造としての任務を通じて、奈良時代から平安時代初期の政界において実務的な貢献を果たしました。

このように、和気清麻呂は単に神託を奏上しただけでなく、政治家として皇統を守るという信念を行動に移し、朝廷と国家構造を背景にした大きな転換点に立ち向かった人物と言えます。

和気清麻呂と道鏡の関係とは?

道鏡が天皇になろうとした事件とは

奈良時代末期、僧侶でありながら政界で急速に権勢を拡大していた 道鏡 は、 称徳天皇 の寵臣として太政大臣や「法王」の位にまで登り詰めました。

そして、 宇佐八幡宮 の神託を利用して「道鏡を天皇にすれば天下太平になる」という口実を用い、皇位継承の正統性を揺るがす動きを起こしたとされています。

清麻呂が下した決断とその影響

この状況を調べるために、称徳天皇は忠実で評判のあった 和気清麻呂 を勅使として宇佐八幡宮に派遣しました。

清麻呂は神前で神意を問い、「天つ日嗣(すめらみおや=皇位)は必ず皇の氏を立つべし。

臣をもって君とすること未だ之有らず」との託宣を得て帰還しました。

これにより道鏡の皇位案は実質的に潰れ、皇統の正統性を守る方向へと朝廷の舵が切られました。

なぜ和気清麻呂は流罪になったのか

しかし、この忠誠ある行動は道鏡側・称徳天皇側の怒りを買い、清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられ、脚のけん(腱)を切られたうえで大隅国(現在の鹿児島県)へ流罪とされました。

その後、称徳天皇の崩御により道鏡の勢力は衰え、清麻呂は朝廷に召還・名誉回復がなされました。

なぜ和気清麻呂は神として祀られたの?

宇佐八幡宮・護王神社との深い関係

まず、和気清麻呂 が神として祀られるきっかけになったのは、宇佐八幡宮 での神託事件への関与です。

清麻呂は勅使として宇佐八幡宮に赴き、「臣を君とすること未だ之有らず」という神託を奏上し、皇統を守る重要な役割を果たしました。

その功績があって、後世に「皇権を護った忠臣」として尊敬され、神格化される土台が築かれたのです。

さらに、京都にある護王神社 は、もともと清麻呂を祀る廟として創建され、明治時代に現在地に遷座されながら「別格官幣社」に列せられました。

「護王大明神」と呼ばれる理由

和気清麻呂が「護王大明神」と称されるのは、清麻呂が天皇・皇統・国家の「王=おおきみ」を護ったという評価からです。

実際に清麻呂には足腰を負傷し流刑に処された際、300頭の猪に助けられたという伝承も残り、京都の護王神社では狛犬ではなく“狛猪(こまいのしし)”が並び、足腰の守護神という信仰が根付いています。

また、1851年(嘉永4年)には孝明天皇 により清麻呂に正一位と「護王大明神」の神号が贈られました。

今も語り継がれる和気清麻呂の教え

和気清麻呂の教え・歴史的評価として特に強調されるのは、「正しいものを信じ、権勢におもねらず、国家と天皇を守る覚悟をもつ」という姿勢です。

彼の行動は後世の武士たちからも模範とされ、信義や忠義の象徴となりました。

また、神社に祀られることで「足腰の健康」「子育て」「国家の護り」において幅広いご利益が信じられ、現代でも多くの参拝者がその精神を慕い訪れています。

まとめ:和気清麻呂は日本の正義を貫いた英雄

和気清麻呂が残した功績を振り返る

和気清麻呂は、奈良時代末期という政教が入り混じった混乱の時代にあって、皇位継承の正統性を守った忠臣として知られています。

宇佐八幡宮の神託事件で、道鏡の野望を阻み、朝廷の秩序を守る決断を下したその姿勢は、政治家としての信念と勇気を象徴しています。

その後の流罪や名誉回復を経て、平安京遷都に尽力したことも、彼の誠実さと国家への献身を示す出来事でした。

歴史から学べる「信念を貫く強さ」

和気清麻呂の生涯が現代に伝える教訓は、「権力に屈せず、正義を貫くことの大切さ」です。

称徳天皇や道鏡の圧力の中でも、真実を伝える勇気を持ち続けた清麻呂の姿は、時代を超えて多くの人々の心を打ちます。

その信念の強さは、現代社会においても、困難な状況に立ち向かう勇気や、公正な判断を重んじる姿勢として学ぶべきものといえるでしょう。

和気清麻呂の年表

出来事
733年(天平5年)備前国(現・岡山県)に生まれる
769年(神護景雲3年)宇佐八幡宮の神託を奏上、道鏡の皇位継承を阻止
770年(神護景雲4年)称徳天皇崩御、道鏡失脚。清麻呂の流罪解除・名誉回復
794年(延暦13年)平安京遷都に関与、造宮大夫として活躍
799年(延暦18年)死去。のちに「護王大明神」として祀られる

和気清麻呂の人生は、国家と天皇を守るという使命に生きた一人の官人の物語であり、日本の歴史における「正義を貫いた英雄」として、今も多くの人々の尊敬を集めています。

護王神社などで今も信仰される存在であることが、その生涯の輝きを物語っています。

出典:コトバンク宇佐神宮護王神社Wikipedia京都観光Navi「護王神社」

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