板垣退助は、日本の歴史の中で「自由民権運動」をすすめ、日本に国会や政党政治が根づくきっかけをつくった政治家です。
教科書では名前だけ知っているという人も多いかもしれませんが、板垣退助の考え方や行動は、現在の日本の民主主義や選挙で投票できる仕組みにまでつながっています。
この記事では、板垣退助がどんな人物だったのか、何をした人なのかを、初めて学ぶ人にもわかりやすいように、エピソードや有名な言葉も交えながら整理して解説します。
難しい専門用語はできるだけ使わず、中学生でも理解できるレベルでまとめていますので、テスト勉強や歴史の復習、子どもへの説明などにも役立てていただけます。
板垣退助とはどんな人物?プロフィールを簡単に紹介
生年月日・出身地などの基本情報
板垣退助は1837年5月21日に土佐国高知(現在の高知県高知市)で生まれた政治家です。
本名(旧姓)は乾退助で、のちに板垣家を継いで板垣退助と名乗るようになりました。
武士の家に生まれ、若いころから土佐藩主山内容堂に仕える立場で政治や軍事に関わっていました。
1919年7月16日に東京で亡くなり、83年の生涯を閉じました。
幕末から明治にかけて活躍した背景
幕末のころ、板垣退助は土佐藩の中心的な人物の一人として、江戸幕府を倒して新しい政治をつくろうとする討幕運動に参加しました。
戊辰戦争では新政府軍の参謀として各地を転戦し、新しい明治政府ができる過程で軍事と政治の両方で重要な役割を果たしました。
明治維新のあとには新政府の要職に就き、参与や参議として中央政府の政治に深く関わりました。
しかし、朝鮮への出兵を主張する征韓論が退けられたことで政府を辞め、その後は政府の外から国民の権利や国会開設を求める自由民権運動の指導者として活動していきました。
板垣退助は何をした人?代表的な功績をわかりやすく解説
功績① 自由民権運動をリードし「民権の父」と呼ばれた
板垣退助は明治政府を辞めたあと、政府に対して国民の権利を認めるよう強く求める立場に立ちました。
1874年には仲間たちとともに、国民が選んだ議員による議会をつくるよう求めた「民撰議院設立建白書」を政府に提出しました。
さらに板垣退助は、愛国公党や立志社といった政治結社をつくり、各地で演説や集会を開いて自由民権運動を全国に広げていきました。
こうした活動から、板垣退助は国民の自由や権利を守ろうとした指導者として「民権の父」と呼ばれるようになりました。
功績② 国会開設を求め「自由党」を設立した
板垣退助は、国民の代表が集まって話し合う国会を早く開くべきだと考え、その実現のために政党づくりにも力を入れました。
1881年には国会開設を求める運動を土台に、日本で本格的な近代政党の一つとされる「自由党」を結成し、自ら総理(党首)となりました。
自由党はフランスの自由主義思想の影響を受け、政府の専制的な政治をおさえるために、憲法制定や国会開設を強く求めました。
こうした政党としての組織だった運動が続いたことで、政府も最終的に国会を開く方針を明確にし、のちの帝国議会の開設へとつながっていきました。
功績③ 言論の自由を訴え、政治参加の道を開いた
自由民権運動では、国会をつくることだけでなく、新聞や演説などで自由に意見を述べられる「言論の自由」を守ることも大きな目標でした。
板垣退助は全国をめぐって演説会を開き、多くの人たちに政治の話をわかりやすく伝え、政治は一部の人だけのものではないという考えを広めました。
明治政府はときに集会や言論を取りしまりましたが、それでも板垣退助たちは法の範囲内で粘り強く活動を続けました。
その結果、国民が集会を開いたり新聞で意見を述べたりしながら、政治に関心を持ち参加していくことが少しずつ当たり前のこととして受け入れられていきました。
もっと簡単に!板垣退助の功績を3つの要点で整理
国民の政治参加を求めた先駆者
板垣退助は、国の政治は一部の人だけで決めるのではなく、国民が選んだ代表が話し合って決めるべきだと考えました。
そのために、民撰議院設立建白書を提出して国会をつくることを求めたり、各地で演説をして多くの人に政治への参加をうながしたりしました。
当時としてはとても新しい考え方であり、国民が政治にかかわることを当然のこととして広めていった点で、板垣退助は先駆的な存在だったといえます。
政党政治の基礎をつくった人物
板垣退助は、同じ考えを持つ仲間たちと組織をつくり、まとまった力として政府に意見をぶつけることが大切だと考えました。
愛国公党や立志社などの結社に加え、1881年には自由党を結成し、日本で本格的な近代政党の一つとされる組織づくりを進めました。
こうした活動は、のちに複数の政党が国会で議論し合う政党政治の土台となり、日本の政治の進め方に大きな影響を与えました。
日本の民主主義に大きく貢献
板垣退助が中心となって行った自由民権運動や国会開設運動は、日本に憲法と議会を持つ立憲国家をつくる流れを後押ししました。
その結果として、大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設など、現在の日本国憲法と国会へとつながる制度づくりが進みました。
国民の権利や自由を重視する姿勢は、その後の民主主義の発展に引き継がれ、現代の日本社会にも大きな影響を残しています。
板垣退助にまつわる有名なエピソード
「板垣死すとも自由は死せず」の名言の背景
「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、板垣退助が暴漢に襲われて重傷を負ったときに発したと伝えられている有名な言葉です。
1882年4月6日、板垣退助は岐阜の神道中教院の門前で演説会に向かう途中、自由民権運動に反発する人物に突然短刀で襲われました。
このとき板垣退助は血を流しながらも、「自分は傷ついても、自由という考えそのものは決してなくならない」という思いをこめてこの言葉を叫んだとされています。
実際の言い回しや、その場で本当に言ったのかどうかについては諸説がありますが、人々の記憶の中では、命をかけて自由と権利を守ろうとした板垣退助の象徴的な言葉として受け継がれています。
暴漢に襲われた「岐阜事件」とは?
「岐阜事件」または「岐阜遭難」と呼ばれる出来事は、1882年に岐阜で起きた板垣退助暗殺未遂事件のことです。
自由党の党首として各地を遊説していた板垣退助は、この日も岐阜で演説会を行う予定でしたが、会場に入ろうとしたところで相原尚褧という人物に短刀で胸部を刺されてしまいました。
板垣退助は重傷を負いながらも一命をとりとめ、その後も政治活動を続けたことで、自由民権運動の象徴的存在としてさらに知られるようになりました。
犯人は逮捕されましたが、この事件そのものは逆に世論の同情を呼び、国会開設や言論の自由を求める世の中の流れをいっそう強める結果につながったと考えられています。
板垣退助はなぜ現代でも評価されるのか
自由と権利を求めた思想が現代に与えた影響
板垣退助が進めた自由民権運動は、国民の権利や自由を守り、憲法と議会にもとづいて政治を行うべきだという考え方を広めました。
この流れの中で、大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設が進み、日本が立憲国家として歩み出す土台が形づくられました。
その後、戦後の日本国憲法でも、主権は国民にあることや、基本的人権の尊重が重視されており、自由民権運動で強調された考え方がより広い形で受け継がれています。
選挙で代表を選び、国会で議論をして政治を進める現在の仕組みは、板垣退助たちが求めた「国民のための政治」を実現しようとする長い努力の結果だといえます。
歴史教育で重視される理由
中学校や高校の歴史教科書では、自由民権運動と板垣退助は、明治時代の政治の流れを理解するうえで欠かせない存在として必ず取り上げられています。
幕末の討幕運動から明治新政府の成立、そして国民の権利を求める運動へとつながる流れの中で、板垣退助は「政府の中の指導者」から「政府の外で民権を求める指導者」へと立場を変えた人物として位置づけられています。
教科書では、自由民権運動が立憲体制の成立にどのようにつながったのかを説明する際に、板垣退助の名前や活動が具体例として示され、民主主義の成り立ちを学ぶ入り口の一つになっています。
そのため、板垣退助は単なる過去の偉人ではなく、現在の日本の政治制度や国民の権利がどのように形づくられてきたのかを学ぶときに、今も重要な手がかりを与えてくれる人物として評価され続けているのです。
年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1837年 | 天保8年 | 土佐国高知城下に生まれる。 |
| 1868年 | 慶応4年/明治元年 | 戊辰戦争で甲州勝沼の戦いに勝利し、この頃乾姓から板垣姓に改める。 |
| 1873年 | 明治6年 | 征韓論に敗れて参議を辞職し、明治政府を去る。 |
| 1874年 | 明治7年 | 愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書を提出して国会開設を求める。 |
| 1881年 | 明治14年 | 国会期成同盟などを土台に自由党を結成し、総理として自由民権運動をリードする。 |
| 1882年 | 明治15年 | 岐阜で遊説中に暴漢に襲われる(岐阜遭難事件)。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で知られる事件である。 |
| 1890年 | 明治23年 | 第1回帝国議会が開会し、長年続いた国会開設運動の成果が具体的な制度として実現する。 |
| 1896年 | 明治29年 | 第2次伊藤内閣で内務大臣となり、立憲政治の運営に直接関わる。 |
| 1898年 | 明治31年 | 大隈重信とともに日本初の政党内閣とされる隈板内閣を組織する。 |
| 1919年 | 大正8年 | 東京で死去する。 |
まとめ:板垣退助は“日本の自由と民主主義の礎を築いた人”
要点の再確認
板垣退助は1837年に土佐で生まれ、明治維新では新政府樹立に関わり、その後は自由民権運動の中心人物として活躍した政治家です。
政府を辞めたあと、民撰議院設立建白書の提出や各地での演説活動を通じて、国民が政治に参加し国会を開くべきだと強く訴え続けました。
1881年には自由党を結成し、日本における本格的な近代政党の一つをつくることで、政党政治と議会政治の基礎を形づくりました。
こうした取り組みは、大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設、さらに現在の日本国憲法と国会にもつながる流れを後押しし、日本の民主主義の大きな土台となりました。
さらに学びたい人へのおすすめテーマ
さらに深く学びたい場合は、板垣退助と同じ時代に自由民権運動で活躍した中江兆民や植木枝盛などの思想家や政治家について調べてみると、当時の議論の広がりがよくわかります。
また、民撰議院設立建白書や自由党の綱領など、当時の文書の原文や現代語訳を読むと、国民の自由や権利についてどのように考えられていたのかを具体的に知ることができます。
自由民権運動から大日本帝国憲法制定、そして日本国憲法制定へと続く流れを追っていくと、日本の政治がどのようにして現在の形になったのかを、より立体的に理解できるようになります。
板垣退助を入口として、日本の近代政治史全体を眺めてみることで、今自分たちが当たり前だと感じている選挙や言論の自由のありがたさをあらためて実感できるはずです。

