荻野吟子は、明治時代に日本で初めて公的に認められた女性医師となった人物です。
自らの病気治療の経験から、女性が安心して受診できる医療の必要性を痛感し、当時ほとんど前例のなかった女性医師を志しました。
女性であることを理由に学ぶ場や試験の受験資格を拒まれながらも、制度の壁に挑み続け、ついに医術開業試験に合格して日本初の公認女性医師となりました。
その後は診療活動だけでなく、女性の権利向上や衛生知識の普及にも力を尽くし、現代の私たちにもつながる女性医療と男女共同参画の礎を築いた先駆的な存在として知られています。
荻野吟子はどんな人?簡単プロフィール
生年月日・出身地・家族構成
荻野吟子は1851年3月3日に生まれた日本の女性です。
生まれた場所は、当時の武蔵国幡羅郡俵瀬村で、現在の埼玉県熊谷市俵瀬にあたります。
実家は代々名主を務める家柄で、村の運営を担う有力な農家でした。
父は荻野綾三郎、母は嘉与で、吟子は五女として大家族の中で育ちました。
幼いころから聡明で学問好きだったと伝えられており、近くの寺子屋などで読み書きや教養を身につけていきました。
なぜ医師を目指したのか
荻野吟子は十代の終わりごろに結婚しましたが、ほどなくして婦人科の病気を患い、長い入院生活を送ることになりました。
その際に男性医師から診察を受けることへの恥ずかしさやつらさを痛感し、同じ思いをする女性が大勢いることに気づきました。
当時は女性の体の悩みを男性医師に打ち明けること自体が大きな心理的負担となっており、十分な診察や治療を受けられない女性も少なくありませんでした。
自分と同じように苦しむ女性を救いたいという思いから、吟子は「女性が女性のために診療する医師になりたい」と強く決意しました。
しかし当時の日本では、医師になるための医術開業試験は男性しか受験できないのが当たり前とされており、この決意は社会の常識に挑む大きな一歩でもありました。
荻野吟子が何をした人なのか簡単に解説
日本で初めて女性として医師免許を取得
荻野吟子は1885年に医術開業試験に合格し、日本で初めて公に認められた女性医師になった人物です。
当時の日本では医術開業試験は男性が受けるものと考えられており、女性が受験する前例はありませんでした。
吟子は女性であることを理由に願書を受理されない状況が続く中で、制度の矛盾を訴え続け、粘り強く交渉を重ねました。
その結果としてようやく受験が認められ、合格を勝ち取ったことで、女性にも医師への道が開かれる大きなきっかけをつくりました。
女性医療の普及と女性の社会進出に貢献
荻野吟子は自らの病気治療の経験から、女性が安心して診察を受けられる環境が必要だと強く感じていました。
男性医師に診てもらうことへの恥ずかしさや不安から、十分な診察を受けられない女性が多かった中で、吟子は女性の身体や心の悩みに寄り添う医師として診療を行いました。
診療所では婦人科の病気や出産、性に関する悩みなど、当時は人に打ち明けにくかった問題にも丁寧に向き合い、女性が医療にアクセスしやすくなるよう力を尽くしました。
また、診療活動だけでなく、女性や子どもの衛生、暮らしに役立つ知識を広めることで、女性が社会の一員として自立して生きていくことを後押ししました。
医師としてどんな活動をしていたのか
荻野吟子は医術開業試験に合格した後、東京の湯島で「荻野医院」を開き、多くの女性患者を診察しました。
診療では婦人科系の病気をはじめ、女性や子どもの健康相談に応じ、地域の人々から信頼される存在になりました。
同時に、女性や弱い立場の人を守るための社会運動にも関わり、女性の地位向上や権利拡大を訴える活動も行いました。
その後は北海道に移り、理想の共同体づくりを目指しながら医師として診療を続けるなど、場所を変えながらも生涯にわたって人々の健康と暮らしを支える活動を続けました。
荻野吟子の人生の重要な出来事
若い頃の苦難と差別
荻野吟子は1851年に現在の埼玉県熊谷市で生まれ、10代の終わりごろに親が決めた相手と結婚しました。
しかし夫から性病をうつされてしまい、長い治療生活を送った末に子どもが産めない体になったとして離縁されるという大きな苦難に直面しました。
当時の社会では性病にかかった女性は強く偏見の目で見られ、病気の原因が夫にあっても女性側が責められることが少なくありませんでした。
吟子自身も男性医師の診察に深い恥ずかしさと屈辱を感じ、病気と差別の両方に苦しめられた経験を通して、同じような女性を救いたいという強い思いを持つようになりました。
医学を学ぶための努力と挑戦
医師になることを決意した荻野吟子は、まず学問の基礎を固めるために寺子屋や塾で学び、やがて上京して東京女子師範学校に入学しました。
そこで優秀な成績をおさめて卒業した後、本格的に医学を学ぶために医学校への入学を目指しましたが、多くの学校で「女人禁制」を理由に入学を断られました。
それでもあきらめずに働きながら勉強を続けた結果、私立医学校の好寿院が受け入れてくれることになり、吟子は男子学生に負けないどころか上回る成績で医学を修めました。
好寿院卒業後も道は平たんではなく、医術開業試験の受験願書は何度も突き返されましたが、吟子は関係者への訴えや交渉を粘り強く続けました。
その結果1884年に女性の願書がようやく受理され、難関の前期試験と後期試験を経て1885年に日本で初めて女性として医術開業試験に合格するという快挙を成し遂げました。
医師として開業し、女性の味方として活躍
医術開業試験に合格した荻野吟子は、1885年に東京の本郷湯島で産婦人科の「荻野医院」を開業し、多くの女性患者を診察しました。
男性医師には相談しにくい婦人科の病気や性の悩み、出産や育児に関する不安などに親身に向き合い、女性が安心して診察を受けられる場を提供しました。
また、キリスト教婦人矯風会などの活動にも参加し、衛生や性に関する正しい知識を広めることで、女性や子どもを守る社会づくりにも力を注ぎました。
その後、吟子は再婚した夫の志方之善とともに北海道に渡り、今金町や瀬棚町周辺で診療所を開いて地域医療に貢献しながら、日曜学校や信仰活動を通じて人々の生活全体を支える存在としても活動しました。
晩年には東京に戻って再び医院を開業し、生涯にわたって患者のそばに立ち続けたことから、多くの女性にとって心強い味方であり続けた女医として記憶されています。
荻野吟子が歴史に残った理由とは?
女性医師の道を切り開いた先駆者
荻野吟子が歴史に名を残している最大の理由は、日本で最初の公認女性医師として、女性にも医師への道を切り開いた先駆者だからです。
当時の日本では医術開業試験を受けるのは男性が当然とされ、制度上も慣習上も女性は医師になることを想定されていませんでした。
その中で吟子は、女性であることだけを理由に願書が受理されない不合理さを粘り強く訴え続け、ついには受験と合格を実現することで、制度の壁そのものを揺さぶりました。
荻野吟子が医術開業試験に合格したことで、「女性でも医師になれる」という前例が生まれ、その後の女性医師たちが同じ道を歩むための大きな一歩となりました。
現在でも埼玉県などでは、日本初の公認女性医師であり女性解放運動の先駆者として吟子の名を紹介しており、その挑戦と功績が近代日本の女性史の中で高く評価されています。
現代にも影響を与えるその功績
荻野吟子の歩みは、単に「日本初の女性医師」という肩書きにとどまらず、現代の男女共同参画やジェンダー平等の考え方にもつながる影響を与えています。
埼玉県では、荻野吟子の不屈の精神にならい、男女共同参画の推進に顕著な功績を挙げた個人や団体を表彰する「さいたま輝き荻野吟子賞」を設けており、その名は今も生きた形で受け継がれています。
また、熊谷市などゆかりの地域では、荻野吟子の生涯が小説や舞台、映画などで繰り返し取り上げられ、多くの人とくに女性に「自分も一歩踏み出してよい」という勇気や希望を与える存在として紹介されています。
男性中心とされた職業や社会制度の中で、自らの経験から女性のための医療の必要性を訴え、実際に医師として活動した姿は、職業選択の自由や仕事と生き方の多様性を考えるうえで、今も重要な示唆を与えています。
女性が医師をはじめさまざまな専門職として活躍することが当たり前になりつつある現代においても、その道の出発点の一人として荻野吟子の名が語り継がれていることが、彼女の功績の大きさを物語っています。
荻野吟子の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1851年 | 嘉永4年 | 武蔵国幡羅郡俵瀬村(現・埼玉県熊谷市俵瀬)に生まれる |
| 1868年 | 慶応4年 | 稲村貫一郎と結婚する |
| 1870年 | 明治3年 | 病気により協議離婚し、入院して女医を志す |
| 1875年 | 明治8年 | 東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学する |
| 1879年 | 明治12年 | 私立医学校好寿院に入学する |
| 1882年 | 明治15年 | 好寿院を卒業し、医術開業試験の願書が却下され続ける |
| 1884年 | 明治17年 | 医術開業試験の受験許可が下りる |
| 1885年 | 明治18年 | 医術開業試験に合格し、日本初の公認女性医師として医院を開業する |
| 1886年 | 明治19年 | 本郷教会で洗礼を受け、東京婦人矯風会に入会する |
| 1887年 | 明治20年 | 大日本婦人衛生会を設立する |
| 1890年 | 明治23年 | 議会婦人傍聴禁止撤回運動に参画し、志方之善と再婚する |
| 1894年 | 明治27年 | 北海道へ渡り、夫とともにキリスト教による理想郷建設を目指して入植する |
| 1905年 | 明治38年 | 夫・志方之善が死去する |
| 1908年 | 明治41年 | 東京へ戻り、再び医院を開業する |
| 1913年 | 大正2年 | 死去する(享年62) |
【まとめ】荻野吟子は「日本初の女性医師」であり女性医療の礎を築いた
荻野吟子は1851年に現在の埼玉県熊谷市で生まれ、自身の病気と差別の経験をきっかけに、女性が安心して診察を受けられる医療をつくろうと決意した人です。
女性には医師への道が閉ざされていた時代に、医学の勉強を続けながら制度の壁に何度も挑み、1885年に日本で初めて公に認められた女性医師となりました。
その後は東京の湯島などで医院を開き、婦人科の病気や出産、性の悩みなどを抱えた多くの女性たちの診療にあたり、女性医療の重要性を具体的な形にしていきました。
同時に、衛生知識の普及や女性や弱い立場の人を守る社会活動にも取り組み、医師という枠をこえて女性の地位向上に貢献した点も大きな特徴です。
現代では、女性医師やさまざまな分野で活躍する女性が当たり前になりつつありますが、その出発点の一人として荻野吟子の挑戦があったことは見過ごせません。
荻野吟子が切り開いた道は、医療の世界における女性の活躍だけでなく、「性別にかかわらず自分の意思で生き方を選ぶ」という考え方にもつながっており、今を生きる私たちにとっても多くの示唆を与えてくれる生涯だったと言えます。

