織田信秀とは?何をした人かを簡単に解説【初心者向けにわかりやすく】

織田信秀とは?何をした人かを簡単に解説【初心者向けにわかりやすく】 日本の歴史

織田信秀は、戦国時代に尾張国で勢力を伸ばした武将であり、後に天下統一をめざす織田信長の父として知られる人物です。

また、経済活動が盛んな津島や熱田の宗教勢力・商人との関係を重視し、軍事力だけでなく経済力や外交力を背景に影響力を広げた点が特徴です。

この記事では、織田信秀がどのような人物で、何を成し遂げたのかを、歴史に詳しくない方にもわかりやすく解説します。

織田信秀とはどんな人物?

生年・出身地・家系などの基本情報

織田信秀は、1511年頃に尾張国で生まれた戦国時代の武将です。

尾張国南西部の勝幡城を本拠とした織田弾正忠家の当主であり、清洲三奉行の一つとされた有力な家柄に属していました。

父は勝幡城主の織田信定で、信秀はその長男として生まれ、のちに家督を継いで一族を率いる立場になります。

織田氏はもともと守護代織田家の一族として尾張に勢力を広げた武家であり、その中でも弾正忠家は尾張下四郡で影響力を持つ家系でした。

信秀は、そうした名門の庶流から頭角を現し、尾張国内で強い軍事力と経済力を持つ武将へと成長していきました。

父としての役割:織田信長との関係

織田信秀は、後に天下統一をめざす織田信長の父として最もよく知られています。

信長は信秀の子として尾張に生まれ、織田弾正忠家の跡継ぎとして育てられました。

信秀は生前に那古野城などを拠点として尾張で勢力を拡大し、その地位や領地はのちに信長へと受け継がれます。

1551年に信秀が亡くなると、信長は家督を継いで一族をまとめる立場となり、父が築いた軍事力と経済基盤を活かしながら勢力をさらに広げていきました。

そのため、織田信秀は単に「信長の父」というだけでなく、信長が活躍するための土台を用意した人物として重要な存在だといえます。

織田信秀は何をした人?主な功績を簡単に解説

尾張支配の強化と勢力拡大

織田信秀は、尾張国内での実際の支配力を高めることで戦国大名として頭角を現した人物です。

1520年代後半に父の織田信定から家督を受け継ぎ、勝幡城を本拠とする織田弾正忠家の当主になります。

1538年ごろには今川氏豊の居城だった那古野城を謀略で手に入れ、本拠地を移すことで名古屋周辺一帯への支配を強めました。

1539年には古渡城を新たに築いて熱田周辺も押さえ、宗教と商業の中心地を取り込むことで勢力をさらに広げていきます。

1548年には末森城を築いて再び本拠地を移し、城を動かしながら要所を押さえるという大胆な戦略で尾張各地への影響力を強めました。

こうした一連の動きによって、形式上は守護代家の家臣でありながら、実質的には尾張を代表する戦国大名として振る舞う力を持つようになりました。

経済力強化:津島湊・熱田神宮との関係

織田信秀の大きな特徴は、軍事力だけでなく経済力を重視して勢力を伸ばした点にあります。

織田弾正忠家は木曽川沿いに位置する津島を早い時期から支配しており、津島湊は伊勢湾と内陸を結ぶ重要な交易拠点として大きな利益を生む港でした。

津島には津島神社の門前町が発達しており、信秀はこの地を押さえることで商人や流通からの収入を得て、軍事行動や外交の資金源としました。

一方で、古渡城の築城によって支配を強めた熱田周辺には、草薙剣を祀る熱田神宮と、その門前町として栄えた市場や港がありました。

信秀は熱田を自らの勢力圏に取り込むことで、尾張南部から名古屋一帯にかけての宗教勢力と商業ネットワークを押さえることに成功しました。

こうして津島湊と熱田という二つの経済拠点を握ったことで、信秀は多額の銭や物資を朝廷や伊勢神宮に献上できるほどの財力を持ち、官位の昇進や名声の獲得にもつなげていきました。

美濃への侵攻など軍事行動のポイント

織田信秀は、周辺の有力大名とも激しく戦いながら勢力を広げた武将でもあります。

三河では、松平氏の内紛や混乱に乗じて出兵し、安祥城を攻略するなどして三河西部にまで勢力を伸ばしました。

その結果、今川氏や松平氏との間で小豆坂の戦いなどの合戦が起こり、尾張と三河をめぐる攻防の中心人物となっていきます。

また、美濃では守護土岐氏を支援して斎藤道三と対立し、大垣城を一時的に押さえるなど積極的に侵攻しました。

1544年ごろには稲葉山城下まで軍を進めましたが、加納口の戦いで斎藤道三の反撃を受けて大敗し、多くの将兵を失う結果となりました。

それでも信秀は、美濃や三河、今川氏との戦いを通じて、尾張の一地方豪族から周辺諸国と対等に戦う戦国大名へと織田家の存在感を押し上げたといえます。

織田信秀が評価される理由とは?

後の織田家繁栄につながる基盤づくり

織田信秀が評価される大きな理由は、後に天下統一へ向かう織田信長の基盤を作った人物だからです。

信秀は守護代家の庶流という立場から出発しながら、那古野城や古渡城、末森城などを次々と拠点とし、尾張各地と西三河の一部まで支配を広げました。

この結果、織田弾正忠家は尾張を代表する有力勢力となり、信長が家督を継いだ時点で既に一地方豪族ではなく戦国大名級の力を備えていました。

また、父が築いた勝幡城周辺の津島の権益を引き継ぎ、さらに熱田の支配を加えたことで、軍事だけでなく経済面でも安定した収入基盤が整えられていました。

信秀は那古野城を早い段階で信長に譲り、周囲から「大うつけ」と評されていた息子をあくまで後継者として扱い続けたと考えられています。

このように、領土拡大と経済基盤の整備、さらに後継者選びを通じて、信秀は織田家が後に大きく飛躍するための土台を築いた人物として高く評価されているのです。

外交力・商業政策による影響力の拡大

織田信秀は、戦で強かっただけでなく、外交と経済政策によって影響力を広げた点でも評価されています。

尾張での経済力を背景に、信秀は京の朝廷や室町幕府にたびたび献金し、従五位下や備後守などの官位を得て、公家社会とのつながりを強めました。

1540年ごろには伊勢神宮の式年遷宮のために大量の材木や銭を献上し、1543年には内裏修理の費用として非常に多額の銭を寄進したことが知られています。

これにより信秀の名は都でもよく知られるようになり、地方の戦国大名でありながら、朝廷から一目置かれる存在となりました。

一方で、津島や熱田といった商業都市や港を押さえたことは、織田家の商業政策の出発点といえる動きでした。

宗教勢力や商人と結びつき、港町や門前町の流通を活性化させることで、軍事行動を支える財力を確保しつつ、自らの評判も高めていったのです。

こうした外交力と商業重視の姿勢は、後に全国規模で経済と政治を動かした信長にも受け継がれたと考えられ、信秀の先見性として高く評価されています。

織田信秀の生涯の流れを簡単にまとめ

若い頃の動きと家督継承

織田信秀は1511年に尾張国の勝幡城周辺で生まれた織田信定の長男です。

父の信定は尾張守護代である織田大和守家に仕え、勝幡城と津島の町をおさめる清洲三奉行の一人として重い役目を担っていました。

信秀はその跡継ぎとして育てられ、1520年代後半には父から家督をゆずられて織田弾正忠家の当主になります。

当主となってまもなく、主家である織田大和守家の後継者・織田達勝と清洲三奉行の一人である織田寛故との争いに関わりましたが、最終的には講和によって周辺との関係をまとめました。

1530年代の初めには京都から公家や蹴鞠の名家を招いて大きな蹴鞠会を開き、若い頃から都とのつながりを重視しながら自らの存在感を示したことがわかります。

1534年には後継ぎとなる織田信長が生まれ、家督を継いだばかりの信秀のもとで織田弾正忠家は本格的な拡大期を迎えていきました。

戦国大名としての活躍

戦国大名としての信秀の活躍は、まず尾張国内での拠点づくりと勢力拡大にあらわれます。

1538年ごろには今川氏豊が治めていた那古野城を手に入れて本拠を移し、現在の名古屋市周辺への支配を強めました。

1539年には古渡城を築いて熱田をおさえ、1540年代後半には末森城に本拠を移すなど、城を移しながら尾張の要地を順番に押さえていきます。

一方で三河国には森山崩れの後の混乱を利用して進出し、1540年ごろには安祥城を奪って長男の織田信広を置き、1542年の第一次小豆坂の戦いでは今川・松平連合軍を退けて西三河への影響力を高めました。

美濃国では、追放された守護土岐頼芸らを支援して斎藤道三と戦い、大垣城を奪い稲葉山城下に攻め込むなど、尾張の外にも積極的に軍を出しています。

その一方で、伊勢神宮の式年遷宮や内裏修理の費用を献上して朝廷や将軍足利義輝とつながりを持ち、官位を得るなど、経済力と外交力を背景に名実ともに戦国大名としてふるまいました。

最期とその後の織田家への影響

1540年代後半になると、織田信秀は今川氏や斎藤氏、さらには織田大和守家など周囲との戦いが続き、次第に勢力がゆらぎ始めます。

1547年には岡崎城を攻めて松平広忠を降伏させ、竹千代(のちの徳川家康)を人質として手中にするなど一時は三河への影響力を強めましたが、第2次小豆坂の戦いでは今川方に敗れ、西三河での優位を失いました。

このころから信秀は病に苦しむようになったとされ、三河での敗北や安祥城陥落によって織田家の立場も次第に厳しくなっていきます。

1552年3月に信秀は末森城で42歳の生涯を閉じ、名古屋市中区の萬松寺で多くの僧が集まる盛大な葬儀が行われました。

この葬儀の際、若い織田信長が抹香をつかんで位牌に投げつけたというエピソードは、父の死と家督継承をめぐる緊張した空気と、信長の型破りな性格を象徴する話として語り継がれています。

信秀の死後、織田家は内外の敵に囲まれて一時は窮地に立たされましたが、尾張各地の城と津島・熱田を中心とした経済基盤が残っていたことで、信長はその土台を生かして勢力を立て直し、のちの大きな飛躍へとつなげていくことができました。

織田信秀の年表

西暦和暦主な出来事
1511年永正8年尾張国勝幡城主・織田信定の長男として生まれたとされる。
1526〜1527年大永6〜7年父信定から家督を譲られ、勝幡城主として織田弾正忠家の当主となった。
1532年天文元年主家である清洲織田氏の当主・織田達勝と清洲三奉行の一人織田寛故との争いに関与し、のちに講和して勢力を保った。
1533年天文2年蹴鞠の宗家や公家を京都から招き、勝幡城と清洲城で盛大な蹴鞠会を開き、自らの威勢と財力を誇示した。
1534年天文3年嫡男となる織田信長が誕生し、弾正忠家の後継ぎが定まった。
1538年頃天文7年頃今川氏豊の居城であった那古野城を奪い取り、本拠を移して名古屋一帯への支配を強めた。
1539年天文8年古渡城を築き、熱田の地を支配下におさめ、第2の経済拠点として勢力を拡大した。
1540〜1541年天文9〜10年伊勢神宮の式年遷宮のための材木や銭を献上し、さらに朝廷にも多額の献金を行って官位を得るなど、経済力を背景に中央との関係を強めた。
1542年天文11年三河国小豆坂で今川義元・松平広忠方と戦い、第一次小豆坂の戦いで勝利して西三河への影響力を高めた。
1543年天文12年内裏倒壊の修理料として朝廷に多額の銭を献上し、都での知名度と権威をさらに高めた。
1547年天文16年美濃国稲葉山城下に進出したが、斎藤道三に加納口の戦いで大敗し、美濃方面での軍事的劣勢が明らかになった。
1548年天文17年末森城を築いて本拠を移しつつ、第二次小豆坂の戦いで今川・松平連合軍に大敗し、西三河での優位を失った。
1549年天文18年那古野城主となっていた織田信長を政務に参加させ、末森城の信秀と那古野城の信長による二元的な領国支配体制を築いたとされる。
1550〜1551年天文19〜20年今川氏の進出により知多や鳴海方面で織田方の諸勢力が次々と今川方に転じ、信秀の勢力は圧迫され、同時期に信秀自身も病を得ていったとされる。
1552年3月27日天文21年3月3日末森城で死去したとされる。享年は42であり、家督は嫡男の織田信長が継いだ。

まとめ:織田信秀は「織田信長の土台を作った人物」

初心者でも押さえるべき3つのポイント

織田信秀は、尾張国で勢力を広げた戦国大名であり、織田信長の父にあたる人物です。

守護代家の一族という立場から出発しながら、那古野城や古渡城などを拠点に尾張での支配力を高め、織田家を有力大名の地位へ押し上げました。

津島湊や熱田の経済圏をおさえることで、軍事行動を支える豊かな財力を手に入れた点も大きな特徴です。

さらに、朝廷や伊勢神宮に多額の献金を行い官位を得るなど、政治的な権威とのつながりを重視したことで、地方大名でありながら都でも名が知られる存在となりました。

こうした領土拡大、経済力の確保、外交的な働きかけの三つが、後に信長が活躍するための土台となったと考えられます。

信秀の功績が現在でも語られる理由

織田信秀の功績が今でも語られるのは、信長の父という立場を超えて、織田家の飛躍に欠かせない基盤を整えた人物だからです。

信秀の代に尾張国内の拠点が整えられ、津島や熱田の経済力が織田家の財政を支えるようになったことで、信長は若くして一定の勢力を受け継ぐことができました。

また、朝廷や伊勢神宮との結びつきによって得た権威や人脈は、信長が上洛して中央政権を握っていく際の背景としても位置づけられます。

織田家が後に天下統一へと向かっていく長い流れの中で、信秀の時代はそのスタートラインにあたり、「信長の時代を準備した人物」として歴史書や解説でたびたび取り上げられています。

そのため、織田信秀を理解することは、信長の活躍だけでなく戦国時代全体の流れをつかむうえでも役に立つと言えます。

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