戦国時代の中でもひときわ異彩を放つ人物・松永久秀(まつながひさひで)。
「悪名高い裏切り者」「東大寺を焼いた男」など、彼の名はしばしば悪人として語られます。しかし、その一方で優れた政治手腕と文化人としての一面も持ち合わせていました。
本記事では、松永久秀の生涯や悪名の理由、そして隠された功績を年表やエピソードを交えてわかりやすく解説します。
松永久秀とはどんな人?
戦国時代に活躍した武将・政治家
松永久秀は、大和国を拠点に畿内政治に大きな影響力を及ぼした戦国期の武将であり、しばしば「松永弾正」とも呼ばれます。
生年には諸説がありますが、没年は1577年で、奈良の多聞城や信貴山城を拠点に政務と軍事を両立させた実務派の指導者として知られます。
奈良市北部に築いた多聞城は、政治運営の拠点となり、後世の城郭へ影響を与える先駆的構造を備えたと評価されています。
織田信長・三好長慶との関係
久秀は三好長慶のもとで頭角を現し、大和支配の要衝に多聞城を築いて勢力を固めました。
1568年に織田信長が上洛すると久秀はいったん従属し、大和支配権を認められるなど協調関係を築きます。
しかしその後は対立と和睦を繰り返し、1577年には信長に背いて信貴山城に籠城し、ここで生涯を閉じます。
なぜ「悪名高い武将」と呼ばれるのか
久秀は、1565年の将軍足利義輝の横死に関わる政変(永禄の変)や、1567年の「東大寺大仏殿の戦い」による大仏殿焼失と結び付けて語られることが多く、さらに信長に対する再三の離反も相まって「梟雄」像が定着しました。
一方で東大寺の焼失は南都一帯での激戦のさなかに起きた兵火で、原因については諸説が示されており、近年は出来事の背景を丁寧に検討する見直しも進んでいます。
松永久秀の生涯を簡単に年表で紹介
松永久秀の動きを年代順に整理すると、畿内政治の転変と戦局の推移が見えてきます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1510年ごろ | 生年は1510年とされる説が知られますが確証はなく、出身地にも諸説があります。 |
| 1559年~1560年 | 奈良北部に多聞城を築き、大和支配の拠点とします。 |
| 1565年 | 将軍足利義輝が討たれた永禄の変が起こります。 |
| 1567年 | 東大寺大仏殿の戦いの兵火で大仏殿などが焼失します。 |
| 1568年 | 織田信長の上洛に従い、久秀は大和の支配権を認められます。 |
| 1573年 | 反信長勢力の瓦解を受けて降伏し、命脈を保ちます。 |
| 1574年 | 出家して「道意」と号したと伝わります。 |
| 1576年 | 信長の命で多聞城が破却されます。 |
| 1577年 | 信貴山城に籠城して抗戦し、自害して生涯を閉じます。 |
生まれと出身地
松永久秀の生年は1510年とする見解が広く紹介されていますが、確実な一次史料は乏しく、1510年前後とみるのが妥当です。
出身地は山城国や摂津国など複数の説があり、山城西岡出身説や摂津五百住の土豪出身説などが並立します。
三好家の重臣としての台頭
久秀は三好長慶のもとで頭角を現し、畿内政治に深く関与しました。
1559年から1560年にかけて奈良北部の眉間寺山に多聞城を築き、軍事と政務の中心として機能させました。
多聞城は四階櫓や長屋状の櫓が推定され、近世城郭の先駆と評価されています。
将軍・信長との関係と裏切り
1565年の永禄の変では足利義輝が討たれ、のちに久秀の関与が強調されることがありますが、当日の所在や行動を踏まえると首謀と断じ切れない点が指摘されています。
1568年に織田信長が上洛すると久秀はいったん従い、大和支配権の承認を得ます。
信長包囲網の動揺後の1573年に久秀は降伏して赦免され、以後は一時的に織田方のもとに留まります。
最後の戦いと壮絶な最期
1576年には信長の命で多聞城が破却され、久秀の面目は大きく損なわれます。
1577年に久秀は信貴山城へ籠城し、織田方の大軍に包囲されると抗戦の末に自害しました。
松永久秀の「悪人伝説」は本当?
東大寺大仏殿を焼いたのは本当?
東大寺大仏殿は1567年に畿内の戦闘に伴う兵火で焼失しています。
寺側の記録では「三好・松永の兵火」により大仏殿や戒壇堂などが焼けた経緯が示されています。
一方で焼失は双方の交戦の中で生じた延焼とみる見解もあり、久秀個人が意図的に放火したと断定できる一次史料は限定的です。
当時の情勢や「東大寺大仏殿の戦い」の経過を踏まえると、戦闘の結果としての兵火が実態に近いと整理できます。
三度の裏切りと信長の対応
一般には「久秀は信長を三度裏切った」と語られます。
しかし史料に基づく離反として確実視されるのは1573年の降伏前後の離反と1577年の信貴山挙兵の二度とする解説が主流です。
1573年に久秀は多聞山城を包囲されて降伏し、1574年には赦免を受けて織田政権下に戻っています。
1577年には再び信長に背いて信貴山城に籠城し、ここで最期を迎えました。
信長が一度は久秀を赦免した背景には、軍事や政務の能力に加え、当時の政治状況や名物茶器をめぐる駆け引きがあったと説明されます。
平蜘蛛の茶釜と爆死伝説の真相
名物「古天明平蜘蛛」は久秀が所持した茶釜として知られ、信長が繰り返し所望した逸品でした。
信貴山城落去の際に久秀が平蜘蛛を叩き割り、自刃したと伝わります。
「茶釜を抱いて爆死した」という有名な描写は軍記や後世の伝承色が濃く、地域資料でも「自爆したとも伝えられる」といった表現が採られます。
したがって、茶釜と爆死は象徴的な物語として流布した面が大きく、実際には自害と城の焼失が重なった最期とみるのが妥当です。
実はすごい!松永久秀の功績と魅力
文化人としての一面(茶の湯・文化の保護)
松永久秀は、戦乱の只中にあっても茶の湯を愛好した文化人として語られます。
信貴山城跡では茶臼や石臼の破片が見つかっており、城内での喫茶活動や茶との結びつきが具体的に示されています。
また、名物茶道具として知られる古天明「平蜘蛛」の茶釜を所持したことが広く伝わり、茶の湯を通じた威信とネットワーク形成に長けていたことがうかがえます。
近年は、茶の湯を政治の言語として扱った同時代の文脈の中で、久秀の教養と審美眼を評価する見解も示されています。
戦国の政治バランスを支えた知略
久秀は畿内の要衝に多聞城を築いて大和経営の拠点とし、軍事のみならず政務の中枢として機能させました。
多聞城には後の天守に相当する四階櫓や、のちに「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓が備わったとされ、統治と防衛を両立させる近世城郭の先駆として評価されます。
1568年に織田信長が上洛すると、久秀は大和の支配権の承認を得て畿内秩序の再編に参画し、戦局に応じて立場を調整しながら地域統治を維持しました。
こうした柔軟な政略は、畿内の複雑な勢力図の中で均衡を取り続けるための現実的手腕として理解できます。
悪人ではなく「現実主義者」だった?
「梟雄」「悪名」のイメージが先行しますが、研究や解説では久秀像の見直しが進んでいます。
畿内政治の激変に応じた離反や和睦は、勢力均衡と統治を最優先した現実的判断として捉え直され、教養の高い知略家という評価も提示されています。
また、信長との対立過程で名物茶器をめぐる駆け引きが取り沙汰される一方、最期の「平蜘蛛と爆死」の物語性は後世の脚色も大きく、実像はより冷静な政治家像に近いとする論調が目立ちます。
まとめ:松永久秀は「悪人」だけでは語れない戦国の智将
裏切りの背景にあった政治的判断
松永久秀の離反や和睦は、畿内の勢力が激しく交錯する中で、自身の領国運営と秩序維持を最優先した現実的な判断だったと考えられます。
1568年に織田信長が上洛したのち久秀は大和支配権の承認を得て体制に参加し、1576年に多聞城が破却されると立場は大きく揺らぎ、1577年の信貴山籠城に至りました。
東大寺大仏殿の焼失は1567年の広域戦闘のさなかに生じた兵火として寺の史料にも記され、久秀個人の意図的放火と断定するよりも戦闘被害として理解するのが妥当です。
最期の信貴山城では名物「平蜘蛛」の茶釜を割ったという伝承とともに自害に及んだと伝わり、軍事的・政治的に追い詰められた末の結末として位置づけられます。
歴史的評価が変わりつつある理由
江戸期以降の軍記や講談が形づくった「梟雄」像に対し、近年は公家日記や地域の一次・公的資料を踏まえた史料批判が進み、久秀の行動を同時代政治の文脈で捉え直す動きが広がっています。
多聞城が政務と軍事を兼ねる先進的拠点として評価されるなど、城郭と地域統治の研究の進展が政治家としての実像の復元を後押ししています。
一般向けの解説でも「将軍殺害」「主家乗っ取り」「大仏殿焼き討ち」といった三悪伝承を検証的に扱い、久秀を教養と審美眼を備えた知略家として描く再評価が浸透しつつあります。
伝承や創作が付与した劇的な描写に依存せず、出来事の時系列と地域の一次情報を丹念に照合して読むことで、久秀は「悪人」だけでは語れない現実主義の政治家として浮かび上がります。
理解を深めるためには、東大寺や奈良県の公的解説で出来事の骨格を押さえ、あわせて近年の研究的解説を参照しながら当時の畿内政治の構図と照らして読み解くことが有効です。
出典情報:東大寺 公式サイト、奈良県 歴史文化資源データベース、平群町 公式観光サイト、コトバンク、Wikipedia、藤田美術館

