後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は平安時代末期から鎌倉時代初期に在位した天皇であり政治と文化の両面で強い影響を残しました。
天皇親政の理想を掲げて武家政権である鎌倉幕府に対抗し承久の乱を起こしたことで知られます。
一方で和歌を深く愛し勅撰集である新古今和歌集の編纂を主導するなど文化の保護者としても大きな役割を果たしました。
本記事では人物像と時代背景を整理し承久の乱の流れや文化的功績を初心者にも分かりやすく解説します。
後鳥羽天皇とはどんな人物?
後鳥羽天皇の基本プロフィール
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は日本の第82代天皇で1183年に即位し1198年に譲位しました。
諱は尊成で父は高倉天皇母は七条院藤原殖子であり後白河法皇の孫に当たります。
1180年に生まれ1239年に隠岐で崩御し御陵は京都市左京区の大原陵とされます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 代数 | 第82代 |
| 諱 | 尊成 |
| 在位 | 1183年〜1198年 |
| 生年・没年 | 1180年生・1239年没 |
| 父母 | 高倉天皇・七条院藤原殖子 |
| 主要ゆかりの地 | 京都大原陵・隠岐 |
在位した時代と背景(平安時代末期〜鎌倉時代初期)
後鳥羽天皇の在位は平安時代末期から鎌倉時代初期にまたがり朝廷貴族の政治から武家政権への移行が急速に進んだ時期でした。
平氏と源氏の抗争が続く中で1185年以降は源頼朝の勢力が確立し1192年に鎌倉幕府が成立して以後朝廷と幕府の二元政治が本格化しました。
この構図の中で後鳥羽天皇は即位後もしばらくは後白河法皇の院政のもとに置かれその死去後に朝廷側の主導権をめぐる動きが活発化しました。
天皇になった経緯と政治状況
1183年に平氏が安徳天皇を奉じて都を離れたため後白河法皇の詔により尊成親王が践祚して後鳥羽天皇となりました。
即位後もしばらくは後白河法皇の院政が続き1192年の法皇崩御後には関白九条兼実が実権を握りました。
やがて朝廷内部の勢力関係は変化し源通親らの台頭を経て1198年に後鳥羽天皇は土御門天皇へ譲位し上皇として院政を主導していきました。
後鳥羽天皇は何をした人?主な功績と出来事
① 承久の乱を起こした理由と結果
1221年、後鳥羽上皇は執権であった北条義時を討伐することを宣言し、武士たちを御所に招集して反幕府の動きを図りました。
その結果、鎌倉幕府側が圧勝し、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇らがそれぞれ配流され、朝廷側の実権は大きく後退しました。
② 鎌倉幕府との関係と対立の背景
後鳥羽天皇(上皇)は朝廷の影響力を回復しようとし、武家政権である鎌倉幕府と衝突していきました。
具体的には、実朝将軍の暗殺後、幕府側が皇子の下向を求めたことや荘園の地頭権をめぐる要求が拒まれたことなどが対立の火種となりました。
③ 和歌・文化への貢献(『新古今和歌集』の編纂)
後鳥羽上皇は文化人ともして名高く、1201年頃から勅命で新古今和歌集の編纂を命じ、1205年には全二十巻が完成しました。
この和歌集には上皇自身の歌も収録されており、流罪となった隠岐の地でも多くの和歌を詠み続けたことで知られています。
後鳥羽天皇の性格や人物像を簡単に解説
情熱的で芸術を愛した天皇
後鳥羽天皇は幼少期から物怖じせず、祖父である後白河法皇に対しても遠慮ない態度を見せていたと伝えられています。
和歌・蹴鞠・笛・馬術など多方面に秀でており、『増鏡』では「万事に明らかであった(よろづの道々にあきらけくおはしませ)」と評されています。
流罪の地である隠岐でも和歌を詠み続け、文化への献身が晩年まで衰えなかったこともその情熱を物語っています。
政治への強い意志と理想
後鳥羽天皇は朝廷の力を回復し、理想の天皇像を追い求めた人物として知られています。
武家政権である鎌倉幕府に対しても退かず、政権構造を変えようとした強い意志をもって行動しました。
そのため「理想主義的で負けず嫌い」とされる一方で、同時に「過激な権力争いを引き起こした」と評価されることもあります。
流罪後も文化活動を続けた理由
承久の乱に敗れた後、後鳥羽天皇は隠岐に流されましたが、その地でも文化的な活動を継続しました。
この背景には自身の芸術的志向だけでなく、天皇としてあるべき文化的表現を通じて権威や存在意義を保持しようとする思いがあったと考えられています。
流刑先でも歌会や和歌づくり、さらには刀鍛冶(御番鍛冶)など文化の振興に力を注いだ記録が残されています。
後鳥羽天皇と承久の乱をわかりやすく整理
承久の乱の流れを3ステップで理解
第一に、1221年(承久3年)5月に、後鳥羽天皇(上皇)が、鎌倉幕府の執権・北条義時を追討するための院宣(命令)を全国の武士に発しました。これが乱の発端です。
第二に、幕府側は迅速に対応し、軍を動員して京に迫ると、6月中旬には宇治川などで朝廷・上皇側の軍を破りました。
第三に、上皇方が敗北し、後鳥羽天皇を含む院政を行っていた上皇たちは流罪となり、朝廷の実権は大きく減退し、幕府の支配力が全国に及ぶ契機となりました。
敗北後の影響と日本史上の意義
この敗北によって朝廷は軍事的な実力を失い、地頭・守護・武士といった武家勢力が朝廷を代替する政治構造が確立しました。
さらに、幕府は京都に六波羅探題を設けて朝廷を監視し、武家政権が朝廷に対し優位な立場を明確にしました。
その結果、以後長きにわたり日本の政治は武家政権を中心とする時代へと移り変わりました。
承久の乱から学べる時代の転換点
承久の乱は「朝廷」という旧来の支配構造から「武家政権」へ明確に政治の実権が移るターニングポイントとされています。
同時に、武士という階級が国家レベルでの影響力を持ち始め、以後の日本史における武家の時代を象徴する出来事でもあります。
年表:後鳥羽天皇(1180年〜1239年)
以下は後鳥羽天皇の生涯から主要なできごとを抜粋した年表です。
正確さを期しておりますが、和暦と西暦の対応年には異説もありますのでご了承ください。
| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 1180年 | 7月14日(治承4年)に、尊成親王(のちの後鳥羽天皇)として誕生。 |
| 1183年 | 8月20日(寿永2年)に践祚し、第82代天皇として即位。 |
| 1185年 | 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、源氏政権が全国的に勢力を拡大。 |
| 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府が成立。 |
| 1198年 | 2月18日(建久9年1月11日)に天皇を譲位し、上皇となる。 |
| 1205年頃 | 勅命により和歌集「新古今和歌集」の編纂がほぼ完了。 |
| 1221年 | 5月、後鳥羽上皇が「執権 北条義時」追討の院宣を発し、承久の乱が勃発。上皇方は敗北し流罪となる。 |
| 1239年 | 2月22日(延応元年)に隠岐にて崩御。享年58歳。 |
この年表は「誕生」「即位」「譲位」「文化的功績」「承久の乱」「崩御」という節目を中心に構成し、初心者の方にも流れが掴みやすいようにしています。
もしもっと詳しく「各年の出来事(例えば院政期の動き、和歌集の内容、流罪後の生活など)」まで含めた拡張版をご希望でしたら、続けて作成可能です。
まとめ:後鳥羽天皇は「文化と政治」に情熱を注いだ理想家の天皇
後鳥羽天皇が残した日本史への影響
後鳥羽天皇は、朝廷中心の古い政治体制から武家政権へと大きく舵を切る転換点に立った存在です。
彼が起こした承久の乱によって、朝廷の実力は大きく後退し、鎌倉幕府の支配が全国的に確立する契機となりました。
一方で、和歌・文化の面では勅撰和歌集である新古今和歌集の編纂を通じて皇室・貴族文化を牽引し、「文武両道」の天皇としても名を馳せています。
初心者でも覚えておきたいポイント3つ
- 「第82代天皇」「在位1183年~1198年」「生年1180年・没年1239年」という基本プロフィールを押さえること。
- 承久の乱を起こした理由として、朝廷の権威回復を図ったこと、そして幕府との権力争いが決定的になったことを理解すること。
- 文化人としての顔も持っていたこと、特に和歌や芸能、武術など多方面で才能を発揮した
このように、後鳥羽天皇は「政治的理想」と「文化的情熱」の両方を兼ね備えながら、大きな時代の節目を作った重要な人物です。
次のステップとしては、承久の乱の詳しい年表や「新古今和歌集」の具体的な内容に触れてみると、さらに理解が深まります。

