奥平信昌は戦国時代から江戸初期にかけて活躍した徳川家の重臣であり、大軍に包囲された長篠城を守り抜いたことで名を高めた人物です。
天正3年の長篠・設楽原の戦いに先立つ籠城戦で粘り強く抗戦し、織田・徳川連合軍の勝利につながる決定的な時間を稼いだことで評価されました。
この功績により信長から「信」の一字を与えられて信昌と改名し、家康の長女である亀姫を正室に迎え、のちに加納藩10万石の大名として要地の統治や治水整備にも力を尽くしました。
本記事では、基本プロフィールや代表的な功績、家康との関係、晩年と後世の評価までを、初学者にも分かりやすく丁寧に解説します。
史跡めぐりや授業・試験対策の要点整理にも役立つよう、重要な年代と事実関係を明確に示していきます。
奥平信昌とは?基本プロフィール
奥平信昌の生まれと出身地
奥平信昌は1555年に生まれ、戦乱のただ中にあった三河国で成長したと伝えられます。
奥平氏はもともと上野国(現在の群馬県高崎市吉井町下奥平)に本貫を持ちますが、戦国期に三河国作手へ拠点を移し、信昌の代には奥三河(現在の愛知県新城市周辺)を本拠として活動していました。
どんな時代を生きた人物なのか
奥平信昌が生きたのは、室町末から安土桃山期を経て江戸初期へ至る大転換期です。
1575年の長篠の戦いでの奮戦で頭角を現し、1600年には京都所司代に就任、1601年には美濃国加納城の初代城主となって要地を預かりました。
1615年に加納で没するまで、徳川政権の成立過程を現場で支え続けた実務派の大名として歩みました。
家族・血筋と奥平家の背景
父は奥平貞能とされ、奥平氏は平姓を称する武家として知られます。
信昌は徳川家康の長女・亀姫を正室に迎え、嫡子の奥平家昌をはじめとする子女に恵まれ、徳川一門と強い姻戚関係を築きました。
一族は今川氏に属したのち家康に帰参し、上野国小幡で3万石を領した後、1601年に美濃国加納10万石を与えられて近世藩政の基盤を固めました。
奥平信昌は何をした人?代表的な功績を簡単に紹介
武田家から徳川家への寝返りの経緯
奥平信昌はもとは徳川家に属しましたが、武田氏の圧力が強まる中で一時的に武田方に属する選択を余儀なくされました。
しかし1573年に徳川方へ帰参する方針を固め、家康の長女である亀姫との婚約を受けて徳川家との結びつきを強めました。
この帰参に対して武田方は報復として奥平家の人質を処刑し、信昌は苦渋の決断の代償を負いながらも徳川家臣としての道を選びました。
帰参後の信昌は長篠城の守備を命じられ、奥三河における徳川方の最前線を担う立場に就きました。
長篠の戦いでの活躍と武田勝頼との戦い
1575年に武田勝頼が大軍で長篠城を包囲すると、信昌は劣勢の兵力で籠城を断行し、援軍到着まで城を死守しました。
この過程で家臣の鳥居強右衛門が援軍の到来を伝えて殉死し、城方の士気を保ったことが籠城継続に大きく寄与しました。
やがて織田・徳川連合軍が設楽原に布陣して武田軍を破り、信昌の持久戦は決戦を呼び込む決定打となりました。
功績により信昌は織田信長から「信」の一字を賜って改名し、家康の取りなしで同年に亀姫を正室として迎え、新城城の築城を命じられました。
徳川家康からの信頼と岡崎城への任命
長篠籠城とその後の戦功により、信昌は徳川家から重用され、1600年には京都所司代、1601年には美濃加納10万石へ加増転封といった要職・要地を任されました。
一方で「岡崎城主への任命」については一次情報での裏付けが見当たらず、岡崎城は家康の嫡男である松平信康や豊臣系の田中吉政、本多・水野・松平(松井)諸氏が歴代城主を務めたことが確認できます。
このため、信昌に対する家康の信任は、長篠城の守将任命や新城築城の下命、京都所司代就任と加納10万石の処置に示されたと理解するのが実証的です。
奥平信昌と徳川家康の関係
信昌の娘・亀姫と家康の息子の婚姻
見出しの表現には誤りがありますが、亀姫は徳川家康の長女であり奥平信昌の正室です。
亀姫は1560年生まれで、1575年に17歳で信昌の妻となりました。
長篠の戦い後に信昌は新城城を築き、亀姫は新城で約15年を過ごしました。
夫婦には4男1女が生まれ、長男の家昌が家督を継ぎ、四男の忠明は松平姓を称して大名としての地位を得ました。
この婚姻は奥平家を徳川一門に密接に結び付け、家康が信昌を重要拠点の城主に据える根拠にもなりました。
信昌が徳川家の家臣団に与えた影響
信昌は長篠での功績と縁戚関係を背景に登用が進み、1600年に京都所司代、1601年に美濃加納10万石へ加増転封されました。
京都所司代は朝廷との折衝や京都の治安維持を担う要職であり、家康は娘婿である信昌を初代に据えることで新政権の統制力を高めました。
加納藩の設置により奥平家は譜代大名として幕政の中心に組み込まれ、子息や分家が各地の藩主となることで徳川家の支配網を補強しました。
特に四男の忠明が松平姓を称した事例は、奥平家が徳川の親族的地位を得て家臣団の結束を強めたことを示します。
奥平信昌のその後と功績の評価
晩年の活躍と奥平家の繁栄
奥平信昌は1600年の関ヶ原の戦い後に京都所司代を務め、同年から翌1601年春まで京畿の治安と残敵掃討にあたりました。
1601年には美濃加納に10万石で入封し、加納城の初代城主として城下整備や治山治水に尽力しました。
信昌は加納で政務にあたり、1615年に61歳で没しました。
家督は長男の家昌が継ぎ、奥平家は譜代大名として存続し、のちに豊前国中津に移って幕末まで藩主家として続きました。
現代に伝わる奥平信昌の評価とは
信昌の名を最も高めたのは1575年の長篠城籠城であり、長篠城跡は現在も史跡として保存され、その功績が地域史とともに顕彰されています。
加納では加納城跡が国指定史跡となり、初代城主としての信昌の位置づけが案内や解説に明記され、城下整備に努めた治政の記憶が受け継がれています。
また、京都所司代就任は徳川政権成立直後の要職登用として評価され、関ヶ原後の秩序回復に果たした役割が各種事典や解説で指摘されています。
さらに、信長から「信」の一字を与えられて改名した事実は、長篠での功績が同時代から高く評価されていたことを示し、現在は中津城の奥平家資料展示などを通じて一族の歩みとともに紹介されています。
奥平信昌の年表
奥平信昌の生涯を西暦で整理した年表です。戦功と官途、そして転封の流れが一目で分かるように、年と出来事、関連事項を簡潔にまとめました。
| 年 | 出来事 | 関連・備考 |
|---|---|---|
| 1555 | 三河国に生まれます。 | 初名は定昌、通称は九八郎といいます。 |
| 1570 | 姉川の戦いに初陣します。 | 父・奥平貞能とともに徳川家康に従います。 |
| 1572~1573 | 一時的に武田氏に属します。 | 武田信玄の死後に徳川へ帰順します。 |
| 1575 | 長篠城で武田軍の攻囲を耐え抜きます。 | 籠城の粘りが長篠・設楽原の勝利につながります。 |
| 1576 | 織田信長から偏諱を受けて「信昌」に改名します。 | 同年に新城城を築いて拠点を整えます。 |
| 1576 | 徳川家康の長女・亀姫を正室に迎えます。 | のちに四男一女をもうけて縁戚関係を強めます。 |
| 1584 | 小牧・長久手の戦いで戦功をあげます。 | 実戦での働きが引き続き評価されます。 |
| 1588 | 従五位下・美作守に叙任されます。 | 官途が整い、家中での地位が固まります。 |
| 1590 | 家康の関東移封に随い、上野国甘楽郡の小幡領に入封します。 | 居所は宮崎城で、関東経営に従事します。 |
| 1600 | 関ヶ原後に初代・京都所司代を務めます。 | 治安維持にあたり、安国寺恵瓊の捕縛に関与したと伝わります。 |
| 1601 | 美濃国加納へ加増転封されます。 | 加納城の初代城主として城下整備や治山治水に尽くします。 |
| 1602 | 隠居します。 | 家督を三男・忠政に譲ります。 |
| 1615 | 美濃加納で没します。 | 享年61です。 |
長篠の籠城と新城城の築城、そして京都所司代から加納転封という流れが、信昌の評価と役割の推移を物語っています。
まとめ|奥平信昌は“徳川家を支えた陰の功労者”だった
信昌の生涯から学べること
奥平信昌は長篠城を守り抜く籠城戦で時間を稼ぎ、織田・徳川連合軍の勝利につなげたことで歴史に名を残しました。
この功により信長から偏諱を受けて信昌と改名し、家康の長女である亀姫を正室に迎えることで徳川一門との結びつきを強めました。
関ヶ原後には京都所司代を務め、1601年には美濃加納10万石に加増転封されて城下整備や治山治水に尽くしました。
武勇と政務の双方で成果を重ねた生涯は、局地戦の粘り強さがやがて体制の安定に結びつくことを示しています。
戦国時代における忠義と決断の意味
信昌の転機は、混迷の中で最終的に徳川へ帰参し、その選択を命がけの実績で裏づけた点にあります。
強敵に囲まれても退かず、味方の到来を信じて耐え抜く姿勢は、忠義が感情だけでなく現実的な判断と責任ある行動に支えられることを教えてくれます。
家族との縁組や所司代就任に見られるように、信昌は個人の武名を一門の繁栄と政権の安定へと接続し、長期的な秩序の構築に寄与しました。
変転の激しい時代においても、拠って立つ主君と地域を守るという一貫した選択こそが、後世の評価につながることを体現した人物でした。
出典情報:新城市公式サイト、キラッと奥三河観光ナビ(新城市観光協会)、岐阜県公式サイト、岐阜市歴史博物館、コトバンク、大分県中津市公式サイト

