大久保利通は何をした人?簡単にわかる功績まとめ【初心者向け】

大久保利通は何をした人?簡単にわかる功績まとめ【初心者向け】 日本の歴史

大久保利通は明治維新を主導し日本の近代化を一気に進めた政治家です。

薩摩藩出身で西郷隆盛や木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」の一人とされ、明治政府の中枢で政策を動かしました。

本記事では、大久保利通がどんな人物で何をした人なのかを、明治維新や廃藩置県、富国強兵や殖産興業といったキーワードとあわせて初心者向けにやさしく解説します。

難しい用語や細かな年号よりも、要点をおさえて「結局どんな役割を果たしたのか」が短時間でわかるようにまとめていきます。

大久保利通はどんな人物?簡単なプロフィール

薩摩藩出身で西郷隆盛の盟友

大久保利通は1830年に現在の鹿児島県にあたる薩摩藩で生まれた武士で、日本の政治家として活躍しました。

幼いころから藩士として学びを重ね、西郷隆盛とは同じ薩摩藩の仲間として若い頃から深い信頼関係を築いていきました。

幕末期には薩摩藩の下級藩士という立場から藩の財政や政治に関わる仕事を任されるようになり、西郷隆盛とともに倒幕に向けた動きを進めていきます。

のちに二人は政治的な方針の違いから対立しますが、幕末から明治初期にかけては日本の将来を思い描きながら行動した盟友として知られています。

明治維新を主導した中心人物の一人

大久保利通は西郷隆盛や木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれ、明治維新を進めた中心人物の一人とされています。

明治新政府では参与や参議といった要職に就き、旧藩体制を解体して中央集権的な国家をつくるための政策づくりを主導しました。

その働きぶりから、内閣制度ができる前の日本で実質的な首相のような役割を果たした人物とも評価されています。

1878年に48歳で暗殺されるまで、日本の近代国家づくりの中枢で改革を推し進めた政治家でした。

大久保利通は何をした人?具体的な功績を簡単に解説

明治維新を推進|近代国家への改革を主導

大久保利通は、幕末から明治初期にかけて倒幕運動と新政府樹立の両方を主導した政治家です。

薩摩藩の代表として長州藩や岩倉具視らと結びつき、王政復古の大号令や戊辰戦争を通じて江戸幕府の政治を終わらせ、新しい明治政府をつくる流れをつくりました。

明治政府が発足した後も、参与や参議として中央集権国家を目指す方針を固め、日本を近代国家へ転換させるための大きな方向性を示しました。

明治初期の改革の多くは、大久保が描いた「欧米列強に負けない独立国家としての日本」を実現するための構想に基づいて進められたとされています。

廃藩置県の中心人物として新政府を確立

大久保利通の功績の中でも特に重要なのが、1871年に実施された廃藩置県を木戸孝允らとともに主導したことです。

廃藩置県は全国に数百あった藩を廃止して府と県に改め、中央政府が任命する県令や府知事を派遣することで、政治の権限を一気に政府に集中させる改革でした。

この改革によって、各藩がそれぞれ軍隊や財政を持つ封建的な体制が終わり、全国を一つの国としてまとめる近代的な中央集権国家の仕組みが整えられました。

大久保は藩主や藩士の身分や生活をある程度保証する方針を示しつつ、反発を抑えながら短期間で廃藩置県を成功させ、新政府の基盤を固めた中心人物とみなされています。

富国強兵・殖産興業を推進し日本の近代化を支えた

明治政府が列強に対抗して独立を守るためには、経済力と軍事力が必要だと考えた大久保利通は、「富国強兵」と「殖産興業」を柱とする近代化政策を強く推進しました。

1873年に内務卿となってからは、鉄道や道路、電信などの交通・通信網の整備を進めるとともに、鉱山、造船、紡績などの官営工場を各地につくり、近代産業の育成に力を入れました。

あわせて、民間の企業にも資金や技術を支援し、西洋の機械や技術、経営方法を取り入れながら、日本全体の産業力と経済力を高めようとしました。

こうした富国強兵と殖産興業の政策は、その後の重工業の発展や資本主義経済の成長につながり、日本が列強と肩を並べる近代国家へと成長していく土台をつくったと考えられています。

大久保利通の重要な政策をわかりやすく紹介

地租改正で国家財政の基盤を整備

大久保利通が関わった代表的な政策の一つが1873年に始まった地租改正です。

それまで年貢は米で納めるのが基本でしたが地租改正によって土地の値段を基準に税額を決め現金で納める仕組みに改められました。

この改革によって豊作や不作に左右されにくい安定した税収が見込めるようになり明治政府は近代国家づくりに必要な財政基盤を整えることができました。

また土地所有者をはっきりさせるために地券が発行されるなど土地制度そのものも近代的な形に整理され日本の資本主義経済が発展していく土台になりました。

岩倉使節団の帰国後に政府の実権を掌握

大久保利通は1871年から1873年にかけて岩倉具視を団長とする岩倉使節団の副使として欧米各国を視察しました。

帰国すると朝鮮への出兵を主張する征韓論をめぐって西郷隆盛らと対立し最終的に西郷らが政府を去る明治六年政変へとつながりました。

この政変のあと大久保は内務省を新設して自ら初代内務卿に就任し警察や地方行政産業振興などを一手に担う強い権限を持つようになります。

こうして大久保は太政官政府の中で実質的な最高権力者となり日本をどのような近代国家にしていくかという大きな方向性を主導していきました。

交通・産業・教育など幅広い分野の近代化を推進

内務卿となった大久保利通は日本を近代国家として自立させるため交通産業教育など多くの分野で近代化を進めました。

鉄道や道路電信などの交通通信網を整備し国内の人や物や情報が素早く動ける仕組みをつくったことは産業の発展にも大きく貢献しました。

さらに富岡製糸場に代表される官営工場を各地に設け鉱業や紡績造船など近代産業の育成に力を入れ民間の企業活動も後押ししました。

教育面でも学制などの制度が整えられ全国で学校設置が進み近代国家を支える人材を育てる仕組みづくりが進展しました。

このように大久保が進めた一連の政策は日本が短期間で近代国家としての体制を整えるうえで大きな役割を果たしたと考えられています。

大久保利通の死とその後の日本への影響

紀尾井坂の変で暗殺される

大久保利通は1878年5月14日に東京の紀尾井町付近で不平士族の一団に襲撃され暗殺されました。

事件は一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ内務卿として強い権限を持ち中央集権化や近代化政策を進めていた大久保に対する反発が背景にあったとされています。

襲撃したのは石川県や島根県などの士族たちで西南戦争後の政府の方針に不満を持つ層から支持を集める形で計画が進められました。

当時大久保は馬車で皇居に向かう途中であり護衛役の中村太郎とともに斬りつけられて命を落とし明治政府は政権の中枢を担っていた指導者を突然失うことになりました。

大久保の改革が日本の近代国家の基礎となる

大久保利通の死は明治政府にとって大きな痛手でしたが彼が生前に進めた中央集権化や富国強兵殖産興業などの政策はその後も基本方針として受け継がれていきました。

廃藩置県によって全国を府県制のもとにまとめた仕組みや内務省を中心とした行政機構は大久保の死後も維持され日本が一つの統一国家として機能する土台となりました。

また鉄道や通信網官営工場の整備といった近代産業の育成政策は後継の指導者たちによって拡大され日本は短期間で列強に近づく近代国家へと成長していきました。

大久保の専制的とも言われる強力なリーダーシップには批判もありますがその決断力と実行力がなければ日本の近代化はこれほどのスピードでは進まなかったと評価されることが多いです。

暗殺というかたちで生涯を終えながらも大久保利通が築いた制度や政策の枠組みは明治以降の日本政治と社会の基本構造として長く影響を与え続けました。

大久保利通の年表

西暦和暦主な出来事
1830年文政13年薩摩藩鹿児島城下に生まれる。
1854年安政元年藩政に関わり始め、西郷隆盛らとともに藩の国事周旋に携わるようになる。
1863年文久3年薩英戦争の前後に藩の実務を担い、以後薩摩藩の対幕府・対外国政策の中核となる。
1866年慶応2年薩長同盟の成立に関与し、倒幕に向けた薩摩藩の方針を固める。
1868年慶応4年/明治元年明治新政府の参与として王政復古後の政治に参加し、戊辰戦争後の新体制づくりに関わる。
1869年明治2年版籍奉還の実施に関わり、藩主が土地と人民を朝廷に返上する改革を推進する。
1871年明治4年廃藩置県の実施を木戸孝允らとともに主導し、中央集権国家への大転換を実現する。同年末から岩倉使節団の副使として欧米へ出発する。
1873年明治6年岩倉使節団から帰国後、征韓論をめぐって西郷隆盛らと対立し、西郷らが政府を去る明治六年政変が起こる。大久保は内務卿に就任し、実権を握る。
1873年明治6年地租改正が本格実施され、土地に対する近代的な税制を整備し、国家財政の基盤を固める。
1874年明治7年佐賀の乱など不平士族の反乱に対処しつつ、鉄道や電信、官営工場の建設など殖産興業政策をさらに推し進める。
1877年明治10年西南戦争が勃発し、政府側の指導者として鎮圧にあたる。
1878年明治11年5月14日、東京紀尾井町の紀尾井坂付近で不平士族らに襲撃され暗殺される(紀尾井坂の変)。

まとめ|大久保利通は日本の近代化を進めたキーマン

明治政府の礎を築いた功績は大きい

大久保利通は薩摩藩出身の政治家として明治維新の中心に立ち江戸幕府を終わらせて新しい明治政府をつくる過程を主導しました。

明治政府が発足したあとも廃藩置県によって全国を府県にまとめ中央政府に権限を集中させることで近代的な統一国家の仕組みを整えていきました。

さらに内務卿として富国強兵と殖産興業を掲げ鉄道や通信網官営工場などを整備し日本が欧米列強と肩を並べるための経済力と社会基盤を築きました。

このような一連の改革は日本が短期間で近代国家として成長していくうえで欠かせない土台となり大久保は明治政府の基礎をつくったキーマンとして位置付けられています。

「何をした人?」が短時間でわかる重要ポイント

あらためて整理すると大久保利通は明治維新を進めて新政府をつくり上げた中心人物であり廃藩置県により日本を一つの国家としてまとめた人物です。

同時に内務卿として地租改正や殖産興業などの政策を通じて国家財政を安定させ鉄道や工場の整備など近代化の具体的な施策を強力に押し進めました。

48歳で紀尾井坂の変により暗殺されるまでの間に大久保が実行した中央集権化と産業育成の政策はその後も引き継がれ日本の政治や経済の基本構造として長く影響を与え続けました。

「大久保利通は何をした人か」を一言でまとめるなら明治維新と近代化をリードし日本の近代国家としてのかたちをつくった政治家ですと言うことができます。

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