マゼランとは?何をした人か簡単にわかる世界一周の偉業を解説!

マゼランとは?何をした人か簡単にわかる世界一周の偉業を解説! 日本の歴史

マゼランは、大航海時代にスペイン王の支援で艦隊を率いた探検家で、彼の遠征隊が人類初の世界一周を達成したことで知られます。

1519年に出航し、南米南端の海峡を抜けて太平洋を横断し、地球が海でつながることを実証しました。

本人は航海途中に戦死しましたが、部下のエルカーノらが1522年に帰還して偉業を完結させました。

本記事では、人物像から航海の目的と流れ、残した影響や名前が残る地名・天体までを、初心者にもわかりやすく解説します。

マゼランとはどんな人?簡単なプロフィール

マゼランの出身地と生まれた時代背景

フェルディナンド・マゼランは1480年ごろにポルトガルのポルト近郊で生まれた航海者です。

彼が生きた15世紀末から16世紀初頭は香辛料をめぐる貿易競争が激化し、ポルトガルとスペインが海外進出を競った大航海時代でした。

若い頃のマゼランはポルトガル王室の遠征に従軍し、1505年にはインド洋方面に渡り、1509年にはマラッカ方面の航海に参加して東方の海と香辛料交易の現場を経験しました。

しかし1513年のモロッコ遠征で負傷したのち十分な恩賞が得られず不満を抱き、以後の進路を模索するようになりました。

航海に興味を持ったきっかけ

東回り航海で得た実務経験と香料貿易の利益性の大きさを体感したことが、西へ向かう新航路構想につながりました。

マゼランは天文学者ルイ・ファレイロと計画を練り、トルデシリャス条約で定められた勢力圏を侵さずに西回りでモルッカ諸島へ到達できると主張しました。

1517年にスペインへ移り、1518年にカルロス1世と契約して準備を進め、1519年に遠征隊の出航へと至りました。

マゼランが成し遂げた「世界一周航海」とは

マゼラン艦隊の出発と目的

マゼランはスペイン王室の支援を受けて5隻の船隊を組織し、1519年9月20日にアンダルシアのサンルカル・デ・バラメダを出航しました。

目的は、トルデシリャス条約の枠内で西回りに香料諸島へ至る新航路を開拓し、香辛料交易の利益と国家的優位を得ることでした。

この計画は、既存のアフリカ南端回りを避けて太平洋側から到達できるかを実地で確かめる挑戦でもありました。

マゼラン海峡の発見とその意味

艦隊は南米沿岸を南下し、1520年10月から11月にかけて大西洋と太平洋を結ぶ天然の水路を通過し、のちに「マゼラン海峡」と呼ばれる航路の存在を明らかにしました。

1520年11月28日には太平洋へ乗り出し、穏やかな天候にちなんでマゼランはこの大洋を「平和な海」と表現しました。

この通過は二大洋が航行可能な海路でつながることを示し、西回りのアジア航路開拓に決定的な意味を持ちました。

航海の途中でマゼランが亡くなった理由

艦隊は1521年3月にフィリピン諸島へ到達し、現地首長との関係調整に乗り出しましたが、マクタン島での武力衝突に巻き込まれました。

1521年4月27日のマクタン島の戦いで、マゼランはラプ=ラプの軍勢との交戦中に戦死しました。

指揮官の戦死は艦隊に大きな動揺を与えましたが、航海は中止されずに継続されました。

部下たちが世界一周を達成した経緯

艦隊はマルク諸島(モルッカ諸島)で香料を積み込み、帰路の方針を協議したのち、旗艦トリニダードとビクトリアの両船が別行動を取りました。

トリニダードは太平洋東回りを試みて失敗し、最終的にビクトリア号だけがアフリカ南端の喜望峰を回って西進し続けました。

フアン・セバスティアン・エルカーノの指揮下でビクトリア号は1522年9月6日にサンルカル・デ・バラメダへ帰還し、数日後にセビリアへ到着して人類初の世界一周を成就しました。

この帰還によって地球規模の海路が連続していることが実証され、以後の航海・交易・地理知識の発展に大きな弾みがつきました。

マゼランの偉業が世界に与えた影響

地球が丸いことの証明

マゼランの遠征隊が1522年に帰還して世界一周が成立し、地球が一続きの海でつながる球体であることを実地に示しました。

地球球体説自体は古代から学術的に共有されていましたが、連続航海の達成はその理解を確証へと押し上げる効果を持ちました。

この成果は当時の地理認識と世界観を更新し、以後の長距離航海や世界図の改訂を加速させました。

航海術・地理学の発展への貢献

遠征で蓄積された海路や風系・潮流の知見は海図と航海記録の精度を高め、天文航法や測位の実務がいっそう洗練されました。

16世紀後半には等角航路が直線として表せるメルカトル図法の世界地図が登場し、遠洋航海に適した図法が広く用いられるようになりました。

こうした技術と知識の進歩は新航路開拓と世界的商業ネットワークの拡大を促し、地理学と地図学の体系化に拍車をかけました。

マゼランの名が残るもの

マゼラン海峡・マゼラン星雲とは?

マゼラン海峡は南米大陸南端で大西洋と太平洋を結ぶ天然の航路で、1520年にマゼラン艦隊が通過したことでその存在が欧州世界に広く認識されました。

パナマ運河が開通する以前は外洋船舶の主要経路として重視され、ビーグル水道と並ぶ歴史的な要衝として今日も地名にその名を残しています。

天文学でいう「マゼラン星雲」は、大マゼラン雲と小マゼラン雲という天の川銀河の近傍にある不規則形の銀河の通称で、南半球の夜空に雲のように見えることから名づけられました。

大マゼラン雲は地球から約160000光年の距離にあり、星形成の研究対象としてアルマ望遠鏡などで精密観測が進んでいます。

小マゼラン雲は地球からおよそ190000光年に位置し、重元素の少ない環境における星や分子の進化を探る手がかりを与える天体として注目されています。

現代でも語り継がれるマゼランの功績

世界一周の達成から500年の節目を迎えた2019年から2022年にかけて、メディアや研究者は航海の意義をあらためて検証し、支援者や同時代人の役割も含めた歴史像の再評価を伝えました。

日本の教育現場でも、太平洋の呼称の由来や大航海時代の地理観の変化が教材や資料で取り上げられ、航海が世界のつながりを可視化した出来事として位置づけられています。

生物や地名・天体に残る命名も功績の伝達手段となっており、マゼランペンギンやマゼラン海峡、マゼラン星雲などが今日まで広く知られています。

マゼランの年表

西暦主な出来事
1480年ごろポルトガル王国のポルト近郊に生まれたとされる。
1505年ポルトガル艦隊に従軍してインド洋方面へ出航した。
1509年マラッカ遠征に参加し、東方航路と香料交易の現場を経験した。
1513年モロッコ遠征に従軍して負傷し、以後の進路を模索するようになった。
1517年スペインへ移住して西回り新航路計画の支援を求めた。
1518年カルロス1世と西回りで香料諸島を目指す契約(カピトゥラシオン)を結んだ。
1519年5隻の艦隊を率いサンルカル・デ・バラメダを出航した。
1520年パタゴニアのサン・フリアン湾で越冬し、艦内反乱を鎮圧した。
1520年南米南端の海路を通過し、後にマゼラン海峡と呼ばれる航路を確立した。
1521年フィリピンに到達しセブ島に入港した。
1521年マクタン島の戦いで戦死した。
1522年ビクトリア号がサンルカル・デ・バラメダに帰還し、遠征隊の世界一周が成立した。

まとめ:マゼランは「世界をつないだ探検家」だった

マゼランは自らの生涯で世界一周を完遂したわけではありませんが、彼が率いた遠征隊は1519年に出航し、1522年に帰還したことで人類史上初めて世界の海路が連続していることを実地で示しました。

南米南端の海峡通過によって大西洋と太平洋が航行可能な海で結ばれることが明確になり、太平洋という名称の定着や後続の航路開拓に道を開きました。

この偉業は地理認識と世界観を更新し、航海術や地図学の発達を加速させ、香辛料交易をはじめとするグローバルな経済と文化交流の拡大を促しました。

同時に、遠征は現地社会との衝突や犠牲も生み、探検と帝国拡張が背中合わせであったことを私たちに考えさせます。

学びを深める次の一歩として、当時の航海日誌や航路図をあわせて読み、エルカーノやラプ=ラプなど関わった人びとの視点も追うことで、多面的に歴史を理解できます。

地図アプリで実際の航路をなぞり、海峡や太平洋横断の距離感を体感してみると、マゼランの挑戦がいかに規格外であったかがいっそう実感できます。

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