本多忠勝は、戦国時代から江戸時代初期にかけて徳川家康に仕えた武将であり、「徳川四天王」の一人として知られる人物です。
数々の合戦で最前線に立ち、ほとんど傷を負わなかったと伝わるほどの武勇から、「家康最強の家臣」と評されています。
本記事では、本多忠勝がどのような家柄に生まれ、どんな戦いで活躍し、なぜ現代でも人気が高いのかをコンパクトに解説します。
歴史が苦手な方でも、3分程度で本多忠勝の人物像と代表的なエピソードの全体像がつかめるようにまとめています。
本多忠勝とはどんな人物?
出生と家柄|徳川家に仕えた名門の家臣
本多忠勝は1548年に三河国で生まれた徳川家康の譜代家臣です。
父の本多忠高は三河岡崎の松平氏に仕えた武士であり忠勝はその嫡男として武家の家に育ちました。
本多氏は本姓を藤原氏とする一族で中世以来三河で勢力を持ち徳川氏に仕える名門家臣団を形成していました。
忠勝自身も若くして徳川家康に仕え桶狭間合戦の頃からたびたび戦場に出て武功を重ねていきました。
のちに忠勝は上総大多喜藩や伊勢桑名藩の初代藩主となり徳川家を支える譜代大名として重い地位を任される存在になります。
「家康最強の武将」と呼ばれた理由
本多忠勝は生涯でおよそ57回の合戦に参加したとされるほど戦場経験が豊富な武将です。
その多くの戦いを切り抜けながら大きな傷をほとんど負わなかったと伝えられ卓越した戦闘能力と用心深さを併せ持っていたと考えられます。
忠勝は徳川四天王の一人に数えられ家康の側近武将の中でもひときわ勇猛な存在として位置づけられました。
歴史解説では個人の武力だけで見れば徳川家臣団の中で最強格と評価されることもあり家康最強の武将というイメージが定着しています。
また家康にとって忠勝は先鋒や殿など危険な役目を任せられる信頼厚い武将でありその働きが後世の高い評価につながっています。
本多忠勝は何をした人?功績を簡単にまとめ
三方ヶ原の戦いでの奮戦
本多忠勝は1572年の三方ヶ原の戦いで徳川軍の中核として参戦し家康の退却戦を支えた武将として知られます。
この戦いは武田信玄率いる精強な軍勢に徳川家康が大敗を喫した合戦ですがその中で忠勝は殿軍として奮戦し家康本隊の撤退路を確保したと伝えられます。
後年「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」という狂歌が詠まれた背景にはこの頃から抜きん出た武勇を示していたことがあり敵方からも一目置かれる存在になっていきました。
大敗戦の中で主君を守り抜いたこの働きは忠勝が徳川家の中で特別視されるきっかけの一つとなります。
長篠の戦いで示した武勇
1575年の長篠の戦いでは織田信長と徳川家康の連合軍として本多忠勝も参戦し設楽原での決戦に参加しました。
鉄砲隊の一斉射撃で知られるこの合戦で忠勝は徳川方の武将として陣地防衛と突撃戦に尽力し武田軍との激しい攻防の中で武勇を発揮したとされています。
合戦全体は信長の戦術がクローズアップされがちですが忠勝や徳川家臣団の粘り強い戦いぶりも勝利を支える重要な要素でした。
この戦いを経て忠勝の名声はますます高まり徳川軍の主力として各地の合戦に呼ばれる存在になっていきます。
小牧・長久手の戦いでの活躍
1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康と羽柴秀吉が正面から対立し本多忠勝は家康方の重臣として参戦しました。
特に長久手周辺での戦いでは忠勝が先鋒として行動し敵軍との激戦の中で冷静に戦線を維持したと伝えられ徳川方の戦術的勝利に貢献しました。
この合戦は講和によって決着しますが秀吉側から見ても忠勝の戦いぶりは高く評価され後に秀吉が自身の家臣に迎えようとしたという逸話が残るほどです。
三方ヶ原長篠小牧・長久手といった重要な局面で常に期待どおりの働きを見せたことが忠勝を「家康の天下取りを支えた武将」の代表格として語らせる大きな理由になっています。
本多忠勝の強さ・名言・エピソード
生涯負傷なし?「鎧袖一触」の武勇伝
本多忠勝は生涯でおよそ57回もの合戦に出陣しながら「傷一つ負わなかった」と伝えられるほどの武勇で知られます。
実際には全くの無傷であったかどうかは史料によって解釈が分かれますが少なくとも重傷で戦線を離脱することなく常に第一線で戦い続けたことは確かだと考えられます。
合戦では先鋒や殿といった危険な役目を任され敵軍を一気に押し崩す「鎧袖一触」ともいえる突撃ぶりを示したとされています。
そのあまりの強さから豊臣秀吉が「自分の家臣にならないか」と誘ったという逸話も残されており敵味方を問わず畏怖される存在でした。
こうした数々の武勇伝が積み重なった結果後世には「家康最強の武将」「東国無双」といった呼び名で語られるようになります。
愛槍「蜻蛉切」にまつわるエピソード
本多忠勝の代名詞ともいえる武器が天下三名槍の一つに数えられる名槍「蜻蛉切」です。
一般には槍の穂先に止まろうとしたトンボが真っ二つになったことからこの名が付いたという有名な逸話が伝わっています。
一方で後世の由緒書には「日本の形は蜻蛉に似ているので日本切と名付ける代わりに蜻蛉切とした」といった別の由来も記されています。
いずれにしても戦場で実際に用いられた長大な槍であり忠勝の豪快な戦いぶりを象徴する存在だったことは共通して語られています。
現在も蜻蛉切とされる槍は文化財として伝来しており史跡や博物館の展示解説などを通じて本多忠勝のイメージを強く印象づける役割を果たしています。
家康や他大名からの評価
本多忠勝は主君である徳川家康から絶大な信頼を寄せられた家臣として知られます。
家康の天下取りを支える数々の戦いで常に先陣や殿を任されていることからもその信頼の厚さがうかがえます。
また敵方であった豊臣秀吉も忠勝の武勇を高く評価し「わが家臣にならぬか」と誘ったと伝えられており忠勝がこれを丁重に断って終生家康に仕えたという逸話は有名です。
さらに後世の軍記物や歴史解説では織田信長が忠勝を中国の武将になぞらえて「日本の張飛」と称したという話も語られ徳川家臣団の中でも突出した猛将として位置づけられています。
こうした同時代の武将たちからの高い評価が積み重なり本多忠勝は単なる腕自慢ではなく徳川家の象徴的な猛将として記憶される存在になりました。
本多忠勝の人物像と性格
勇猛さだけではない、冷静沈着な戦略眼
本多忠勝はしばしば「戦国最強」と称されるほどの武勇で知られますがその一方で状況判断に優れた冷静沈着な武将でもあったとされています。
生涯およそ57回の合戦に参加しながら致命的な傷を負わなかったという伝承は単に腕力が強かっただけでなく無謀な突撃を避けて危険を見極める洞察力を持っていたことの表れと考えられます。
徳川家康の軍勢では先鋒や殿といったもっとも危険な役目を任されることが多く忠勝は敵味方の布陣や地形を見きわめて戦線を維持しつつ必要な場面では素早く退く判断もできる武将でした。
また長年にわたり前線で戦い続けながら戦死を免れていることから指揮官として自らの身のみならず配下の兵の損害も抑えつつ戦果を上げるバランス感覚を持っていたとも評価されています。
こうした勇猛さと慎重さを併せ持つ姿は単純な豪傑というより戦況を冷静に読むことのできる実務的な武将像として語られています。
忠義に厚い性格と家康との信頼関係
本多忠勝は若い頃から一生を通じて徳川家康に仕え続けた譜代家臣でありその徹底した忠義心は多くの史料や逸話で語られています。
強さを恐れた織田信長や豊臣秀吉からも高い評価を受け家臣として望まれたと伝わりますが忠勝は主君を変えることなく家康の側に留まり続けました。
家康からは三河時代からの重臣として厚く信頼され各地の合戦で先鋒や殿を任されるだけでなく国替えの際には上総や伊勢といった要地を預けられ徳川政権の要所を担う存在となりました。
関ヶ原の戦いののちには西国の猛将として知られる立花宗茂が一時浪人となった際忠勝が宗茂とその家臣たちを預かって面倒を見たとされており敵対勢力に対しても義理を重んじる度量の大きさがうかがえます。
このように主君への忠義と他者への情けを併せ持つ人柄は家康との強固な信頼関係を築くだけでなく後世における本多忠勝の人気や評価を支える重要な要素となっています。
本多忠勝の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1548年 | 天文17年 | 三河国額田郡蔵前に本多忠勝が誕生する。 |
| 1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦いで大高城への兵糧入れに参加し初陣を飾る。 |
| 1561年 | 永禄4年 | 今川方の長沢城攻略に従軍し若年ながら武勇を示す。 |
| 1563年 | 永禄6年 | 三河一向一揆が起こり一族に一向一揆方もいる中で家康方として戦功を挙げる。 |
| 1566年 | 永禄9年 | 徳川家の軍制改革で旗本先手役に抜擢され家康直轄軍の主力武将となる。 |
| 1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦いに参戦し浅井・朝倉連合軍と戦って武名を高める。 |
| 1573年 | 元亀3年 | 三方ヶ原の戦いで撤退戦の殿を務め家康本隊の退却を支える。 |
| 1575年 | 天正3年 | 長篠の戦いで織田・徳川連合軍の一翼として武田軍と戦い勝利に貢献する。 |
| 1584年 | 天正12年 | 小牧・長久手の戦いで徳川方の重臣として各地の戦闘に出陣し戦術的勝利に寄与する。 |
| 1590年 | 天正18年 | 豊臣秀吉の小田原征伐に従軍し北条方への降伏勧告などを務めその功で上総大多喜10万石を与えられ大名となる。 |
| 1600年 | 慶長5年 | 関ヶ原の戦いで東軍の先鋒・軍監として東海道方面を進軍し本戦・前哨戦で活躍する。 |
| 1601年 | 慶長6年 | 関ヶ原での功績により伊勢桑名10万石に転封され桑名藩初代藩主となる。 |
| 1609年 | 慶長14年 | 嫡男本多忠政に家督を譲って正式に隠居し政治と軍事の第一線から退く。 |
| 1610年 | 慶長15年 | 桑名で死去し享年63となる。 |
本多忠勝のまとめ|なぜ今も人気が高いのか
戦国武将としての圧倒的な功績
本多忠勝は戦国時代から江戸時代初期にかけて徳川家康を支えた武将であり徳川四天王の一人として多くの合戦で武功を立てました。
三方ヶ原や長篠小牧・長久手といった天下の行方を左右する合戦で先鋒や殿を務め家康の天下取りに大きく貢献した点が高く評価されています。
生涯およそ57度の合戦に出陣しながら重傷を負わなかったと伝わる逸話や名槍蜻蛉切を振るう勇猛な姿は戦国武将の理想像として語り継がれています。
また上総大多喜藩や伊勢桑名藩の初代藩主として領国経営にも携わり武だけでなく政治面でも徳川政権を支えた大名であったことが知られています。
勇猛さと慎重さ忠義心を兼ね備えた人物像が他の武将にはない戦国最強の家臣というイメージにつながり現在も多くの人を惹きつけています。
ドラマ・ゲームで再評価される理由
本多忠勝の人気が現代でも高い大きな理由の一つはドラマや小説ゲームなどさまざまな作品で個性豊かに描かれていることです。
NHK大河ドラマでは2016年の「真田丸」で藤岡弘、が2017年の「おんな城主直虎」で高嶋政宏が2023年の「どうする家康」で山田裕貴が本多忠勝を演じ豪快で頼もしい家康の側近として幅広い世代に印象づけられました。
ゲーム作品でも「戦国無双」シリーズや「戦国BASARA」シリーズ「信長の野望」シリーズなどにたびたび登場し圧倒的な攻撃力と耐久力を持つキャラクターとして描かれることで最強クラスの武将というイメージが定着しています。
これらの作品では名槍蜻蛉切や家康に過ぎたるものと評されたエピソードなど史実に基づく要素が分かりやすくアレンジされており歴史を詳しく知らない人でもキャラクターから興味を持ちやすくなっています。
史実に裏付けられた武勇と忠義のイメージを現代的なデザインや演出で魅力的に見せていることが本多忠勝が今もなおかっこいい戦国武将の代表として愛され続ける理由だといえます。
- 本多忠勝 – Wikipedia
- 本多氏 – Wikipedia
- 徳川家康 – Wikipedia
- 徳川四天王 – Wikipedia
- 三方ヶ原の戦い – Wikipedia
- 長篠の戦い – Wikipedia
- 小牧・長久手の戦い – Wikipedia
- おんな城主 直虎 – Wikipedia
- 真田丸(NHK大河ドラマ) – Wikipedia
- どうする家康 – Wikipedia
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