東郷平八郎は、日露戦争で日本海軍を率いて勝利に導いたことで知られる日本の海軍軍人です。
名前は聞いたことがあっても、具体的に何をした人なのか、なぜ「日本海軍の英雄」と呼ばれるのかまでは知らない人も多いと思います。
本記事では、日本史初心者の方にもわかりやすいように、東郷平八郎の人物像や功績、日本海海戦のポイントをシンプルに整理して解説します。
難しい軍事用語はできるだけ避けて、学校の授業や受験、教養として役立つような内容になるよう心がけています。
読み終わるころには、東郷平八郎が「なぜすごいのか」が自分の言葉で説明できるようになることを目指します。
東郷平八郎とはどんな人物?
東郷平八郎の基本プロフィール
東郷平八郎は1848年1月27日に鹿児島県で生まれ1934年5月30日に亡くなった日本の海軍軍人です。
薩摩藩士の家に生まれ若いころには戊辰戦争の海戦に従軍しその後も一貫して海軍軍人としての道を歩みました。
明治初期にはイギリス海軍に留学して最新の海軍技術や戦術を学び帰国後は日本海軍の中枢で重要な役職を歴任しました。
日清戦争では軍艦「浪速」の艦長として活躍し続く日露戦争では連合艦隊司令長官として日本海軍全体を指揮しました。
その功績が評価され東郷平八郎は海軍大将から元帥にまで昇進し日本を代表する軍人の一人として知られるようになりました。
死後は東郷神社などで顕彰され現在も日本近代史を語るうえで欠かせない人物として記憶されています。
なぜ「日本海軍の英雄」と呼ばれるのか
東郷平八郎が「日本海軍の英雄」と呼ばれる最大の理由は日露戦争の日本海海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃滅し日本を勝利に導いたことです。
世界有数の大国であったロシアの主力艦隊を遠く日本海まで誘い込み短時間のうちにほぼ壊滅させた戦果は当時の世界の海軍関係者に大きな衝撃を与えました。
この戦いぶりから東郷平八郎はイギリス海軍の名提督ホレーショネルソンになぞらえて「東洋のネルソン」と称賛され海外でも高く評価されました。
また東郷平八郎は冷静沈着な性格で知られ部下からの信頼が厚く連合艦隊全体をまとめあげた強い指揮力も英雄とされる理由の一つになりました。
軍人としての功績だけでなく謙虚で落ち着いた人柄や運の強さを買われて重要な任務を託されたことも東郷平八郎の特別さを示しています。
東郷平八郎は何をした人?簡単にわかる3つのポイント
1. 日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破
東郷平八郎が最も有名になった出来事は1905年の日本海海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を打ち破ったことです。
バルチック艦隊はヨーロッパから極東まで長距離を航海してきたロシアの主力艦隊で日本側にとっては国家の命運を左右する脅威でした。
東郷平八郎は連合艦隊司令長官としてこの艦隊を対馬沖で待ち受け有利な位置をとって砲撃戦を開始し短時間で敵の主力艦を次々と撃沈させました。
その結果ロシア側は多くの戦艦や巡洋艦を失い日本側の損害は比較的軽微にとどまったため世界からも驚きと称賛を集める大勝利となりました。
2. 日露戦争の勝利を導いた指揮官として世界に名を残す
日露戦争は日本とロシアという当時の大国同士が朝鮮半島と満州をめぐって争った戦争で日本にとっては国の存続がかかった一大事でした。
その中で東郷平八郎は連合艦隊の最高指揮官として旅順港のロシア艦隊への対応やバルチック艦隊迎撃の準備など海軍作戦の中心的役割を担いました。
特に日本海海戦での決定的な勝利はロシアに大きな打撃を与え講和交渉を有利に進める大きな材料となり日露戦争全体の流れを日本に有利な方向へと導きました。
このため東郷平八郎は日本国内だけでなく海外でも日露戦争の勝利を決定づけた指揮官の一人として歴史に名を残す存在になりました。
3. 「東洋のネルソン」と称される戦術とリーダーシップ
東郷平八郎は日本海海戦で敵艦隊の進路に対し自艦隊を横切るように展開することで一斉射撃を行う有利な態勢を作り出しました。
この戦い方は一般に「丁字戦法」として知られ砲撃力を最大限に生かす工夫として後の海戦研究でも取り上げられています。
東郷平八郎は慎重で無駄なリスクを避けつつ決断すべき時には大胆に動く指揮官であり部下からの信頼も厚く連合艦隊全体を統率しました。
こうした戦術眼とリーダーシップが高く評価され同じく大海戦で活躍したイギリス海軍の名提督ホレーショネルソンになぞらえて「東洋のネルソン」と呼ばれるようになりました。
東郷平八郎の功績をさらにわかりやすく解説
日本海海戦とは?初心者にもわかる概要
日本海海戦は1905年5月27日から28日にかけて日本海の対馬沖で行われた日露戦争最大の海戦です。
日本側は東郷平八郎が率いる連合艦隊でロシア側はバルチック艦隊と呼ばれるヨーロッパから長距離を航海してきた主力艦隊でした。
この戦いは日本が自国周辺の海を守れるかどうかや戦争全体の勝敗を左右する決戦として位置づけられていました。
東郷平八郎は敵艦隊の進路を予測し対馬海峡で待ち受けて有利な位置から砲撃戦を開始しました。
その結果ロシア艦隊の大部分が撃沈もしくは降伏し日本側の主力戦艦は一隻も失われないという圧倒的な勝利となりました。
日本海海戦は近代海戦史の中でも例外的な大勝利として評価され世界の海軍からも強い関心を集めました。
採用した「丁字戦法」とその歴史的意味
日本海海戦で東郷平八郎が用いたことで広く知られるようになったのがいわゆる「丁字戦法」(T字戦法)と呼ばれる戦い方です。
丁字戦法とは縦に一列で進んでくる敵艦隊の進路を自分の艦隊が横切るように動かし艦の側面に並んだ砲を一斉に撃てるようにする戦法です。
この陣形は上から見ると漢字の「丁」あるいは英語の「T」の字のように見えることからその名がつきました。
敵の先頭艦に火力を集中させて大きな損害を与えることで隊列全体の動きを乱し主導権を握ることが狙いでした。
艦の側面には多くの主砲や副砲が並んでいるため正面から撃つよりもはるかに大きな攻撃力を発揮できる点も大きな利点でした。
日本海海戦で実際に完全な丁字形になったかどうかについては専門家の間で議論がありますが敵の頭を押さえて一方的に砲撃するという考え方はまさに丁字戦法の発想に沿うものでした。
この戦法はその後各国の海軍学校で研究され近代海戦における砲戦戦術の象徴的な例として長く取り上げられるようになりました。
戦後の日本・世界への影響
日本海海戦での勝利は日本にとって国際社会での立場を大きく高める出来事でした。
アジアの小国と見られていた日本がヨーロッパの大国ロシアの艦隊を打ち破ったことは世界に強い衝撃を与え日本は列強の一員として認められるようになりました。
この勝利は日露戦争の講和交渉を有利に進めるための重要な材料となりアメリカで結ばれたポーツマス条約の締結にも影響を与えました。
国内では日本海海戦の勝利が大きな誇りとして受け止められ新聞や教科書で東郷平八郎や連合艦隊の名が広く知られるようになりました。
一方でこの成功体験が日本社会に軍事力への過信を生み後の時代の進路に影響したという指摘もあります。
海外の海軍にとっても日本海海戦は重要な研究対象となりとくにアメリカ海軍は自国の艦隊運用や将来の戦争計画を考える際に日本海海戦の教訓を取り入れました。
このように日本海海戦は一つの海戦にとどまらず日本の国際的地位や世界各国の海軍戦略に長期的な影響を与えた出来事でした。
東郷平八郎の人物像とエピソード
質素で謙虚な生活ぶり
東郷平八郎は若いころには料亭に数日間泊まり込むなど遊びも好んだと言われますが晩年になると質素倹約を身上とする落ち着いた生活へと変わっていきました。
晩年の趣味は主に盆栽と囲碁であり派手な娯楽や贅沢からは距離を置いて過ごしていたと伝えられています。
自宅では七輪を使って自分で簡単な料理を作ることもあり高位の軍人でありながら身の回りのことをできるだけ自分で済ませようとする一面を持っていました。
妻が新婚時代に内職で家計を助けた思い出を新聞記者に話したところ東郷は家族に経済的な不安を与えていたかのように受け取られることを恥じて激しく怒ったというエピソードも残っています。
こうした姿から東郷平八郎は名声におごらず家庭ではむしろ不器用で真面目な性格の持ち主であったことがうかがえます。
若いころイギリス留学の選抜をめぐって大久保利通から「おしゃべりではいけない」と見られていたと聞かされたことをきっかけに以後は寡黙に努めたとされ後年「沈黙の提督」と評されるほど言葉を慎む人柄になっていきました。
世界の軍事関係者からの評価
日本海海戦での勝利によって東郷平八郎は日本国内だけでなく世界の海軍関係者からも名提督として高く評価されるようになりました。
日本では同時代の陸軍の大山巌になぞらえて「陸の大山海の東郷」と称えられさらにイギリスの名将ホレーショネルソンにちなみ「東洋のネルソン」と呼ばれるようになりました。
海軍軍人山梨勝之進は世界史の中で名将として挙げるべき提督の一人に東郷平八郎を選びネルソンやファラガットと並ぶ存在として位置づけています。
1926年にはアメリカのニュース雑誌「タイム」の表紙を飾り日本人として初めてカバーパーソンになったことからも東郷の名声が世界的なものであったことがわかります。
1934年の国葬ではイギリスアメリカフランスイタリア中国など各国海軍の軍艦が日本を訪れて弔砲を撃ちイギリスでは「東洋のネルソン」ドイツでは「東洋のティルピッツ」が逝去したと伝えられました。
東郷の遺髪がネルソン提督の遺髪と共に江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に保管されていることも両者が世界的な海軍の象徴として並び称されていることを示しています。
後世への影響と名言
東郷平八郎の名言として最も有名なのは日本海海戦の開戦に際して掲げられた「皇国の興廃この一戦に在り各員一層奮励努力せよ」という言葉でありこの一節は東郷元帥の決意を象徴するものとして広く知られています。
この文言は事前に各艦の乗組員に伝えられ戦闘直前に旗艦「三笠」にZ旗が掲げられたことを合図に再確認され全艦の士気を鼓舞したとされています。
現在では信号文の細かな作者について参謀たちの関与を指摘する説もありますが日本では長く東郷平八郎の言葉として語り継がれてきました。
「皇国の興廃この一戦に在り」という一節はその後も演説や学校教育などで繰り返し引用され日本語における「ここ一番の勝負どころ」を象徴する表現として定着しています。
また戦前の軍人向け写真帳には東郷平八郎がしたためた「聖訓五箇条」が皇居の写真と並んで掲載されることがあり若い将校や兵士にとって日々の心構えを示す模範として受け止められていました。
東郷平八郎は大正期に東宮御学問所総裁として皇太子時代ののちの昭和天皇の教育にも関わり規律や節度を重んじる姿勢を身をもって示した存在でもありました。
死後には東京や福岡に東郷神社が創建され各地の公園名や銅像記念館などにもその名が残り東郷平八郎の人物像と名言は日本の軍事史と地域の記憶の中で今も受け継がれています。
東郷平八郎についてよくある質問(FAQ)
なぜ東郷平八郎は有名なの?
東郷平八郎が有名なのは日露戦争の日本海海戦で連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊を撃破したからです。
当時ロシアは世界有数の大国でその主力艦隊を一方的に近い形で破ったことは世界の軍事関係者に大きな衝撃を与えました。
この勝利によって日本は列強と呼ばれる国々の一員として国際的な地位を高めることになり東郷平八郎の名も世界に知られるようになりました。
日本国内では「日本海軍の英雄」「東洋のネルソン」と讃えられ教科書や映画小説などさまざまな形で語り継がれてきました。
学校で習う東郷平八郎と実際との違いは?
学校では東郷平八郎が日本海海戦で活躍した英雄として端的に紹介されることが多く細かな経歴や人物像まではあまり触れられないことがあります。
実際の東郷平八郎は日清戦争以前から長く海軍で経験を積みイギリス留学や海軍大学校校長などを通じて海軍の教育や戦術研究にも深く関わっていました。
また日本海海戦の戦術は東郷一人のひらめきだけでなく参謀や先人の研究成果を踏まえて練られたものであることも研究で指摘されています。
さらに東郷平八郎は慎重で寡黙な性格として知られ勝ち戦の影にある補給や訓練の重要性を理解していた点など派手な英雄像だけでは見えにくい面も持っていました。
そのため近年の研究では東郷平八郎を日本海軍を育てた長期的な指導者の一人として捉える傾向が強くなっています。
日露戦争における東郷の役割はどこまで大きかった?
日露戦争において東郷平八郎は海軍の連合艦隊司令長官として海上作戦全体の最終的な決断を下す立場にありました。
バルチック艦隊がどの海峡を通るかを予測し対馬海峡に戦力を集中させた判断や長期の訓練と待機を続けたことは日本海海戦の大勝利に直結しました。
一方で戦争の勝敗は陸軍の戦い外交交渉国内の経済力など多くの要素が絡み合って決まるため東郷一人の力だけで勝てたと見るのは正確ではありません。
海軍の側でも作戦計画や戦術研究には多くの参謀や士官が関わっており東郷はそうした組織をまとめ最終決心を引き受けた指揮官という位置づけになります。
まとめると東郷平八郎は日露戦争とくに海戦の勝利に大きく貢献した中心人物でありながらその成果は組織全体の努力と組み合わさって生まれたものだといえます。
東郷平八郎の生涯の流れが一目でわかる年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1848年 | 弘化4年12月22日 | 薩摩国鹿児島郡加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町)に東郷平八郎が生まれる。 |
| 1863年 | 文久3年 | 十代半ばで薩摩藩士として薩英戦争に参加しイギリス海軍の砲撃力を目の当たりにして近代海軍の重要性を強く意識する。 |
| 1868年 | 慶応4年〜明治元年 | 戊辰戦争の阿波沖海戦や宮古湾海戦箱館戦争などに艦船乗組士官として従軍し実戦経験を重ねる。 |
| 1871年 | 明治4年 | 明治政府の第1回海軍留学生としてイギリスのポーツマスに官費留学しおよそ7年間最新の海軍術と英語を学ぶ。 |
| 1878年 | 明治11年 | 軍艦「比叡」に乗って帰国し以後さまざまな艦に乗り組んで日本海軍の近代化に寄与する。 |
| 1891年 | 明治24年 | 防護巡洋艦「浪速」艦長となり外洋航海や海外派遣を通じて指揮官としての経験を積む。 |
| 1894年 | 明治27年 | 日清戦争が始まり「浪速」艦長として豊島沖海戦に参加する。同年清国兵を輸送していた高陞号を撃沈する高陞号事件の処置で国際的注目を集める。 |
| 1903年 | 明治36年 | 連合艦隊司令長官に任命され日本海軍主力部隊の最高指揮官となる。 |
| 1904年 | 明治37年 | 日露戦争が勃発し連合艦隊司令長官として旅順口攻撃や黄海海戦など一連の対ロシア海戦の指揮を執る。 |
| 1905年 | 明治38年5月27日〜28日 | 日本海海戦で旗艦「三笠」に座乗しバルチック艦隊を撃破する。日本側主力艦の損失がない圧倒的勝利で「日本海軍の英雄」「東洋のネルソン」と称されるようになる。 |
| 1905年 | 明治38年 | 日露戦争終結後海軍軍令部長となり日本海軍の作戦・戦略全体を統括する立場に移る。 |
| 1913年 | 大正2年4月21日 | 元帥海軍大将に列せられ日本海軍最高位の軍人の一人となる。 |
| 1914年 | 大正3年 | 東宮御学問所総裁に就任し皇太子時代ののちの昭和天皇の教育にも関わる。以後大正期を通じて元帥として象徴的存在となる。 |
| 1934年 | 昭和9年5月29日〜30日 | 5月29日に侯爵議員として貴族院議員に就任し翌5月30日に東京で死去する。同年国葬が行われ多くの外国軍艦も参列してその功績をたたえる。 |
まとめ|東郷平八郎は何をした人か簡潔に整理
日本の歴史に残る海軍提督の功績
東郷平八郎は明治時代の日本海軍を代表する提督であり日清戦争と日露戦争の両方で重要な役割を果たした人物です。
とくに1905年の日本海海戦で連合艦隊を率いてロシア帝国のバルチック艦隊を打ち破ったことにより日本の勝利を決定づけ国際社会から大きな注目を集めました。
この勝利によって日本はヨーロッパ列強に肩を並べる海軍国と見なされ国際的地位を一段と高めることに成功しました。
東郷平八郎はその功績により元帥の称号を与えられ死後も神社や記念館で顕彰されるなど日本の近代史に名を残す海軍提督として語り継がれています。
初心者でも理解できる東郷の「すごさ」
東郷平八郎の「すごさ」は一言でいえば国の運命を左右する決戦で圧倒的に不利と見られていた側を勝利へ導いた指揮能力にあります。
敵艦隊の動きを冷静に読み切り有利な位置取りを選び抜いたうえで丁字戦法と呼ばれる砲戦の考え方を生かし短時間で戦局を決めた判断力は世界の海軍関係者からも高く評価されました。
同時に東郷平八郎はむやみに派手な行動をとるのではなく長期の訓練や準備を重視し危険を最小限に抑えながら最大の成果を狙う現実的な指揮官でもありました。
日本国内では英雄として尊敬され海外では「東洋のネルソン」と称されるほど名声を得たことからも一人の提督としての生き方と決断が国際社会の歴史に深い爪痕を残したことがわかります。

