鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、戦国時代の「忠義の象徴」として語り継がれる人物です。
彼は長篠の戦いの際、籠城中の味方に援軍到着を伝えるため、命をかけて敵陣を突破した伝令として知られています。
本記事では、鳥居強右衛門がどのような人物で、なぜ後世まで語り継がれているのかを、初心者にもわかりやすく解説します。
鳥居強右衛門とは?簡単にわかるプロフィール
鳥居強右衛門の生まれと時代背景
鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は戦国時代中期に活躍した奥平家の家臣で、長篠城攻防の場面で名を残した人物です。
生年は確定していませんが、1540年ごろに三河国宝飯郡市田村(現在の愛知県豊川市市田町)に生まれたと伝えられます。
当時の三河・遠江一帯は織田・徳川連合と武田氏が覇権を争う最前線で、強右衛門の名が歴史に現れる1575年の長篠の戦いは火器の大量運用で知られる大転換点でした。
どんな武将に仕えていたのか
強右衛門は三河の国衆である奥平氏に仕え、のちに長篠城主となる奥平貞昌(のちの奥平信昌)の配下として活動しました。
長篠城が武田勝頼の大軍に包囲された際、奥平方の足軽として重要な伝令役を担い、奥平家の窮地に直結する任務を受ける立場にありました。
名前の読み方と由来
「強右衛門」は「すねえもん」と読みます。
近世以降の辞典類では本名を「勝商(かつあき)」とする記載があり、通称として「強右衛門」が用いられました。
史跡解説・自治体資料・事典類はいずれも読みを「とりい・すねえもん」と示しており、近代の錦絵や史跡案内でも同様の表記が採用されています。
鳥居強右衛門は何をした人?命をかけた伝令の物語
長篠の戦いとは?(背景を簡単に)
長篠の戦いは1575年に三河国の長篠城と設楽原一帯で行われた合戦で、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼軍を破った出来事として知られます。
当時の長篠城は武田軍に包囲されており、籠城側は兵糧や弾薬が逼迫する厳しい状況に置かれていました。
この攻防の渦中に、城内の士気と運命を左右する伝令として名を刻んだのが奥平家の家臣である鳥居強右衛門でした。
鳥居強右衛門の使命と勇気ある行動
強右衛門は包囲された長篠城から脱出し、徳川家康のいる岡崎城へ援軍を求めに向かうという極めて危険な任務を自ら担いました。
彼は川を潜って包囲網を突破し、短期間で長篠城と岡崎城を往復して援軍到着の確報を得たうえで帰城を試みました。
帰路で武田方に捕らえられ、城兵に「援軍は来ない」と偽りを叫ぶよう迫られましたが、強右衛門は約束を違えず「援軍は必ず来る」と城内に叫んで味方を鼓舞しました。
その結果、彼は磔刑に処されましたが、城内の士気は保たれ、援軍到着までの時間をつなぐ大きな意味を果たしたと評価されています。
捕らえられても裏切らなかった理由
強右衛門が最後まで真実を伝えた背景には、主君である奥平家への忠義と、援軍到着の確証を得た者として「知らせを届ける」という責務への強い自覚がありました。
武田方の圧力に屈して虚偽を叫べば一時の延命はできたかもしれませんが、城は落ち、約束は破られます。
彼は自分の行動が仲間の命運を左右することを理解し、信義を優先して最期まで使命を貫いたのです。
なぜ鳥居強右衛門は有名なのか?その功績と評価
彼の行動が与えた影響
鳥居強右衛門は包囲下の長篠城から脱出して援軍の確報を得て戻ろうとし、捕縛後も「援軍は来る」と真実を城内に伝えたことで籠城軍の士気を高めました。
この行動は長篠城が落城せずに援軍到着まで持ちこたえる上で象徴的な役割を果たしたと評価されており、長篠の戦い全体の勝利叙述の中で重要な一幕として語られます。
後世に語り継がれた理由
強右衛門の最期は新城市の設楽原歴史資料館などで「磔図」として詳しく紹介され、地域の史跡や碑とともに物語として継承されてきました。
明治以降は浮世絵や錦絵の題材にも取り上げられ、武士の忠義と信義を体現する人物像として全国的に知られる存在になりました。
教科書にも登場する忠義の象徴
大正期の国定教科書に鳥居強右衛門の物語が掲載されたことが周知化を押し広げ、学校教育を通じて「忠義の鑑」としてのイメージが定着しました。
映画化などの文化的紹介も重なり、地域史の人物を超えて日本史上の代表的実例として一般に理解されるようになりました。
鳥居強右衛門から学べること
忠義と信念の大切さ
鳥居強右衛門は包囲下の長篠城から脱出して援軍の確報を得て戻ろうとし、捕縛後も真実を叫んだことで磔刑に処されました。
彼の行動は主君や仲間への忠義だけでなく、自分が引き受けた使命を最後まで果たすという信念がいかに大きな力を持つかを示しています。
長篠城の士気が保たれたという叙述は、個人の信義が組織全体の持久力や判断に影響することを物語っており、困難な局面ほど原則に立ち返る重要性を教えてくれます。
現代にも通じる「約束を守る勇気」
強右衛門は「援軍は来ないと言えば命は助ける」と迫られても約束を曲げず、城内に「援軍は近くまで来ている」と伝えました。
短期的な利益や保身よりも、共有された目的と事実に基づくコミュニケーションを選んだ姿勢は、現代の職場や地域社会における信頼構築の原則と重なります。
不利な状況でも正確な情報を伝える勇気は、チームの方向性をぶらさず、最終的な成果と安全を守る行動へとつながるのです。
年表|鳥居強右衛門の主な出来事
鳥居強右衛門の生涯と長篠・設楽原の戦い前後の主要な出来事を、西暦表記で時系列に整理します。
| 年月日 | 出来事 | 補足 |
|---|---|---|
| 1540年ごろ | 三河国宝飯郡市田村に生まれます。 | 生年は確定ではありませんが、1540年生まれと伝わります。 |
| 1575-05-08 | 武田勝頼軍が長篠城を包囲し攻撃を開始します。 | 長篠城の攻防が本格化します。 |
| 1575-05-14 夜 | 長篠城から脱出し岡崎城へ向かいます。 | 川を潜り包囲を突破したと伝わります。 |
| 1575-05-15 | 雁峰山で狼煙を上げ脱出成功を知らせ、岡崎城に到着して援軍派遣の約束を得ます。 | 知らせを一刻も早く伝えるため直ちに帰路につきます。 |
| 1575-05-16 早朝 | 再び狼煙を上げ入城を試みる途中、有海村付近で捕縛されます。 | 城内に向けて「援軍は必ず来る」と真実を叫び、のちに磔刑に処されます。死亡日は1575-05-16または1575-05-17と伝わります。 |
| 1575-05-18 | 織田信長軍と徳川家康軍が設楽原に到着して陣を築きます。 | 長篠城の西方約4キロメートルの設楽原に布陣します。 |
| 1575-05-20 | 武田軍が長篠城の包囲を解き設楽原へ進出します。 | 決戦に向けて両軍の陣が対峙します。 |
| 1575-05-21 | 長篠・設楽原の決戦で織田・徳川連合軍が勝利します。 | 長篠の戦いとして知られる合戦が終結します。 |
| 1603年 | 新城市甘泉寺に墓が移されたと伝わります。 | 墓所の伝承に関する年次です。 |
| 1763年 | 新城市新昌寺で鳥居強右衛門の墓碑が新たに建立されます。 | 後世の顕彰の一例として位置づけられます。 |
| 1919年 | 新昌寺の墓所で大規模な拡張工事が行われます。 | 現在見られる墓所整備に関わる出来事です。 |
上記の日付は一次史料および自治体の公式解説と事典類を照合し、戦闘経過と伝令行動の前後関係が分かるように整理しています。
まとめ|鳥居強右衛門は「忠義を貫いた武士」だった
簡単に振り返る鳥居強右衛門の生涯
鳥居強右衛門は三河出身の奥平家の家臣で、1575年の長篠城攻防において城を脱出して岡崎に赴き援軍要請を果たした人物です。
帰路に武田方に捕らえられても「援軍は必ず来る」と城内へ真実を叫び、磔刑に処されながらも味方の士気を支えました。
この行動は長篠城が持ちこたえる叙述の核となり、長篠・設楽原の戦いの勝利物語の中で象徴的な場面として受け継がれています。
今でも語り継がれる理由を理解しよう
強右衛門の物語は新城市の史跡や資料館での展示、事典類の記述、錦絵などの文化資料によって地域史を越えて広く共有され続けています。
主君と仲間のために約束を守り抜いた姿は、困難な状況でも事実に基づく行動を選ぶ勇気の模範として現代にも通用します。
彼の名が歴史教育や地域の顕彰で繰り返し紹介されてきた背景を知ることで、忠義と信義が共同体を支える力であることが具体的に理解できます。
出典情報:新城市公式サイト「鳥居強右衛門」・「長篠・設楽原の戦い」・「鳥居強右衛門磔図-名品10選」、コトバンク、Wikipedia、奥三河観光ナビ、桑名市公式サイト

