足利義昭(あしかがよしあき)は、戦国時代に室町幕府の最後の将軍として活躍した人物です。
兄・足利義輝の死後、織田信長に擁立されて将軍となりましたが、やがて信長と対立し、幕府は滅亡へと向かいます。
本記事では、足利義昭がどんな人だったのか、何をしたのか、信長との関係やその後の生涯を、初心者にもわかりやすく解説します。
義昭の人生を通して、戦国の時代がどのように変わっていったのかを見ていきましょう。
足利義昭とはどんな人?
室町幕府の最後の将軍としての立場
足利義昭は室町幕府第15代将軍であり最後の将軍です。
生年は1537年で在職は1568年から1573年までとされます。
織田信長の軍勢に護送されて1568年に上洛し将軍に就任しましたがやがて信長と対立し1573年に京都を追われました。
この追放によって室町幕府は名実ともに終焉を迎え室町時代の幕を下ろしました。
本節の記述は日本の辞典および日本語版の公的な解説記事を参照して確認しています。
兄・足利義輝との関係と将軍就任までの流れ
足利義昭は第12代将軍足利義晴の次男で第13代将軍足利義輝の実弟です。
幼少時に奈良一乗院で出家して覚慶と称していましたが1565年に兄義輝が永禄の変で三好勢に討たれると還俗し名を義秋のちに義昭と改めました。
三好勢の妨害で京入りできない時期が続く中で各地の大名に支援を求め最終的に織田信長と結び1568年に上洛して将軍に就任しました。
将軍就任後は二条御所を拠点として幕政再建を志しましたが畿内の勢力図は流動的で信長の軍事力と政治主導に依存せざるを得ない構図となりました。
足利義昭が行ったこと・何をした人なのか
織田信長に擁立されて上洛した経緯
足利義昭は兄義輝の死後に還俗し各地の大名に支援を求めていましたが最終的に織田信長と結び1568年に岐阜から義昭を奉じて上洛しました。
信長は都での実力行使を背景に義昭を第15代将軍に就け幕政再建を掲げましたが当初は将軍権威と織田の軍事力が相互に利用し合う関係でした。
この上洛と将軍就任は永禄期の政局を大きく転換し室町幕府の名目上の再興をもたらした出来事でした。
本節は日本語の公的解説や事典項目を検索のうえ年次と経緯を確認して要約しています。
信長包囲網を作り信長と対立した理由
義昭は将軍主導の政治回復をめざして独自の外交と人事を進めた結果信長と主導権を巡って対立を深めました。
1570年以降義昭は本願寺顕如や浅井長政や朝倉義景や武田信玄ら反織田勢力と連携を図りいわゆる信長包囲網の形成に動きました。
1573年には山城国槇島で挙兵しましたが信長に敗れて京都を追放され室町幕府は実質的に終焉しました。
義昭が諸大名に宛てて講和や協同を促す御内書を発給した史料も残り将軍権威を梃子に広域連携を構想していたことがうかがえます。
義昭の政治的な目標とその失敗
義昭の目標は将軍を中心とする秩序の回復であり朝廷や寺社や諸大名との関係再編を通じて幕政の実権を取り戻すことでした。
しかし畿内情勢は流動的で幕府の軍事基盤は脆弱であり実力を備えた織田政権に依存せざるを得ない矛盾を抱えていました。
義昭は独自外交と挙兵によって主導権奪回を試みましたが各勢力の利害は分散し連携は長続きせず最終的に追放と幕府消滅という結果に至りました。
足利義昭と織田信長の関係を簡単に解説
最初は協力関係にあった二人の関係性
足利義昭と織田信長の関係は当初は明確な協力関係にありました。
1568年に信長が義昭を奉じて上洛したことで信長は朝廷や諸大名に対して政治的正当性を得て義昭も将軍としての地位を回復することができました。
信長は義昭を支援し都の治安を回復し朝廷との関係を調整するなど秩序回復に努めました。
義昭も当初は信長を重用し織田政権の後ろ盾として活動していました。
しかし将軍の権威と実権の分担をめぐって次第に摩擦が生じ関係は徐々に変化していきます。
なぜ義昭は信長に追放されたのか?
義昭は将軍権威の下に政治を主導しようと試みましたが信長は実力による支配を進め幕府の権限を事実上制限しました。
これに不満を抱いた義昭は反信長勢力と連携し各地の大名や寺社勢力に働きかけて包囲網を形成しました。
1573年義昭は槇島城で挙兵しましたが信長の大軍に包囲され降伏しました。
この戦いで義昭は京都から追放され室町幕府は実質的に滅亡しました。
信長にとって義昭追放は中央政権樹立への布石であり以後信長は独自の統治体制を整えました。
義昭にとっては理想とした幕政再建が挫折した瞬間であり時代の流れに翻弄された将軍として歴史に刻まれました。
足利義昭のその後と最期
追放後の生活と各地での活動
足利義昭は1573年に京都を追放された後一時は紀伊や鞆の浦などを転々としました。
広島県福山市の鞆の浦では「鞆幕府」と呼ばれる仮の政庁を置き信長に対抗する勢力との連携を模索しました。
この時期には毛利輝元ら西国の大名を頼り将軍権威の維持を試みましたが次第に実権を失い政治的影響力は限られたものとなっていきました。
鞆の浦での義昭は外交文書を発し朝廷との関係維持にも努めましたが全国的な支援を集めることはできませんでした。
信長が本能寺の変で倒れた後も義昭は一定の政治的存在として生き残りましたが幕府復活の夢は実現しませんでした。
豊臣秀吉との関係・最期の様子
本能寺の変以後義昭は豊臣秀吉のもとに迎えられ京都へ戻りました。
秀吉はかつて信長に追放された義昭を厚遇し朝廷との関係調整にも義昭を利用しました。
義昭は将軍位を失った後も朝廷から一定の地位を与えられ公家としての体裁を保ちながら静かに余生を送りました。
1597年に京都で死去し享年61と伝えられます。
その生涯は戦国の混乱期を生き抜いた幕府最後の将軍として幕政終焉と新しい時代の転換を象徴するものでした。
年表|足利義昭の主要な出来事
以下は、足利義昭(あしかが よしあき/1537-1597年)の人生における主要な年次・出来事を整理した年表です。
| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 1537年 | 足利義昭が生まれる(天文6年)。 |
| 1565年 | 兄の足利義輝が「永禄の変」で討たれ、義昭は一乗院から脱出・還俗して義秋(後に義昭)と名乗る。 |
| 1568年 | 織田信長によって擁立されて上洛。10月18日、将軍に宣下され、室町幕府第15代将軍に就任。 |
| 1570年代(1570年頃) | 反信長の動きが本格化し、義昭は反織田の勢力と連携して「信長包囲網」の形成を模索。 |
| 1573年 | 義昭は京都を追われ、室町幕府は実質的に滅亡。 |
| 1588年 | 義昭が将軍職を辞し出家。公式にはこれをもって将軍職を退いたとされる。 |
| 1597年 | 義昭が京都で死去(慶長2年)。享年61と伝えられる。 |
足利義昭の功績と評価を簡単にまとめ
戦国時代における義昭の役割とは?
足利義昭は室町幕府最後の将軍として戦国時代の大きな転換点に立った人物です。
彼が将軍に就任したことで戦国大名たちは中央政権との関係を再認識し織田信長の上洛もその正当性を強化する政治的契機となりました。
義昭は各地の大名に命令書を発し幕府権威の再興を目指しましたが実力を持つ戦国大名の台頭によってその影響力は限定的でした。
それでも義昭の存在は室町幕府の伝統的秩序と戦国大名による新たな支配体制をつなぐ重要な橋渡しの役割を果たしました。
歴史的に見た義昭の功罪
義昭の評価は時代と視点によって分かれます。
信長と対立したことで「無能な将軍」と評されることもありますが実際には秩序回復のために外交と調停を駆使した政治的手腕も見られます。
一方で戦国時代の現実を十分に理解せず伝統的な幕府体制に固執した面もあり結果的に自らの立場を弱めてしまいました。
しかし信長包囲網の形成や鞆幕府の設立などその行動は戦国末期の権力構造を動かす一因となり後の豊臣政権や江戸幕府へと続く政治的流れを生み出しました。
義昭は時代に抗いながらも新旧の価値観が交錯する中で奮闘した「時代の節目を象徴する将軍」として今日では再評価が進んでいます。
出典情報:コトバンク「足利義昭」・コトバンク「室町幕府」、Wikipedia日本語版「足利義昭」・Wikipedia日本語版「信長包囲網」、・Wikipedia日本語版「豊臣秀吉」、福山市公式観光サイト「鞆の浦」

