持統天皇とは?何をした人かを簡単にわかりやすく解説!【日本史まとめ】

持統天皇とは?何をした人かを簡単にわかりやすく解説!【日本史まとめ】 日本の歴史

持統天皇(じとうてんのう)は、日本史の中でも特に重要な女性天皇の一人です。

夫の天武天皇の後を継ぎ、政治の安定と律令国家の基礎づくりを進めました。

日本初の本格的な都「藤原京」を造営し、天皇中心の政治体制を確立したことで知られています。

本記事では、持統天皇がどんな人物で、どのような功績を残したのかを、わかりやすく解説します。

持統天皇とはどんな人物?

持統天皇の生まれと家系

持統天皇は645年に生まれ、父は天智天皇、母は蘇我氏の蘇我遠智娘です。

幼名は「鸕野讃良(うののさらら)」と伝わります。

天智の皇女として王権中枢の血統を受け継ぎ、飛鳥時代の政変と制度改革のただ中で成長しました。

生涯の拠点は大和(奈良県)で、晩年は藤原京で没し、陵は檜隈大内陵とされています。

夫・天武天皇との関係

持統天皇は叔父にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎ、662年に草壁皇子をもうけました。

672年の壬申の乱で大海人皇子が勝利して即位すると、持統は皇后として新体制を支えます。

天武崩御後は、草壁皇子を後継に据えるために院政的に朝政を主導しましたが、草壁は689年に早逝しました。

この不測の事態に対し、皇統の安定を最優先に据えた持統は、自らが即位して政治の継続性を確保する決断を下しました。

女性として2人目の天皇に即位した背景

690年、持統は即位し、在位は697年まで続きました。女性の即位という点では、推古・斉明に続く三人目の女性天皇にあたります。

即位の直接の動機は、草壁皇子の系統に皇位を継承させるための「つなぎ」としての役割でしたが、持統自身が実権を握り、律令国家の基礎固めと遷都事業を推し進めたことで、単なる中継ではなく統治者として明確な意思を示しました。

697年には孫の軽皇子(文武天皇)に譲位し、太上天皇として引き続き政治を後見する体制を整えました。

持統天皇が行った主な功績

① 日本初の都「藤原京」を造営

持統天皇は694年に藤原京への遷都を断行し、条坊制に基づく計画的な都城を整備しました。

唐の都・長安をモデルに南北・東西に碁盤目状の大路小路を配した本格的な都であり、天皇が政治儀礼を司る宮と官衙区画を中心に国家中枢を置くことで、統治の舞台を明確にしました。

藤原京は710年の平城京遷都までのあいだ国家政治の中心として機能し、後世の都城計画の原型を提示した点で画期的でした。

② 中央集権体制の強化と律令国家の確立

持統天皇の治世では、天武朝から進められてきた律令編纂を受け継ぎ、689年に飛鳥浄御原令を頒布して、太政官を頂点とする中央官制の枠組みを整えました。

翌690年には全国的な戸籍である庚寅年籍の作成が進められ、口分田の配分や租庸調の賦課を前提とする人民把握の仕組みが具体化しました。

これらの施策は、のちの大宝律令(701年)へとつながり、天皇を頂点とする律令国家の制度的基盤を確立するうえで決定的な役割を果たしました。

③ 天皇中心の政治体制を安定させた功績

持統天皇は697年に孫の軽皇子へ譲位して文武天皇を即位させ、自身は太上天皇の称号を用いて後見にまわりました。

皇位継承の混乱を避けつつ、即位から譲位・院政的後見までを制度として整えた点は、以後の日本政治において先例となりました。

藤原京での統治と制度整備、そして円滑な代替わりの実現によって、天皇中心の政治秩序は動揺を免れ、次代へと安定的に継承されました。

持統天皇の政治の特徴と影響

持統天皇の政治方針とその狙い

持統天皇は、夫である天武天皇から引き継いだ中央集権体制の強化をさらに推し進めるという明確な方針を掲げていました。

具体的には、豪族の私的所有地と人民を国家のものとする「公地公民」制度の確立などに取り組み、国家権力を天皇のもとに集約しようとしました。

また、都を新しく計画都市として造営し、官僚制や法令に基づく統治機構を整備することで、従来の豪族主体の政治から脱却する意図がありました。

変化の激しい時代にあって、天皇を中心とした政治秩序を安定させることがこの方針の狙いでした。

後の天皇(文武天皇)への継承と影響

持統天皇は、孫の 文武天皇 を皇位に立てることで、皇位継承の混乱を避け、制度としての天皇制を安定させました。

697年に譲位した後も「太上天皇(だいじょうてんのう)」として政治の実権を保ち、若年即位の文武天皇を支えたことで、後世の院政制度につながる先例を残しました。

このように、持統天皇の政治体制の整備は、次代天皇に引き継がれ、律令国家体制が本格化する上での橋渡し的な役割を果たしました。

女性天皇としての意義と歴史的評価

持統天皇が女性天皇として即位したことは、当時としては非常に特異な出来事であり、皇統の維持と国家統治を実現するための戦略的な選択でもありました。

その在位期間は短くとも、彼女が行った政治改革と継承体制の構築は「女性」という枠を超えて国家を支える存在として評価され、男性天皇支配が主流となる後世にも女性天皇のひとつのモデルとなりました。

日本史における女性天皇の位置づけを変え、天皇制の柔軟性を示した点でも注目されます。

持統天皇の時代背景を簡単に理解しよう

壬申の乱後の日本の政治情勢

672年に起こった壬申の乱は、皇位継承を巡って天智天皇の子である大友皇子と、その弟である大海人皇子(後の天武天皇)との間で争われた一大内乱です。

この乱に勝利した天武天皇は、新たな国家体制の構築を急ぎ、天皇を中心とした支配秩序の強化を図りました。

このような背景において、持統天皇(当時は皇后鸕野讃良皇女)は天武政権を受け継ぎつつ、安定した皇位継承と制度改革を果たしていく役割を負いました。

律令国家への道を開いた時代の流れ

この時期は、飛鳥時代の終盤にあたり、国家が豪族中心の散在的な支配構造から、天皇を頂点とする律令国家へと移行しようとする重要な時代でした。

具体的には、唐や隋といった中国大陸の律令制度が参考にされ、官僚制・戸籍・班田制といった制度整備が急ピッチで進みました。

また、694年には都を新たに造営する遷都が行われ、国の中心を明確にすることで中央集権化がさらに進展しました。

持統天皇の年表

こちらは、持統天皇(645年-703年)を中心に、その生涯および政治的な主な出来事を年代順に整理したものです。

各年の出来事を把握することで、彼女の役割やその時代の流れをより理解しやすくなります。

年(西暦)出来事
645年大化元年に生まれる(和名:鸕野讃良/うののさらら皇女)とされる。
657年頃叔父である天武天皇(大海人皇子)と結婚。
672年壬申の乱発生。天武天皇が勝利し皇位を確立。持統天皇(当時皇后)がその政治体制を支える。
686年(朱鳥元年)天武天皇崩御。持統天皇が「臨朝称制(政務を天皇として行う)」に入る。
690年2月14日正式に天皇として即位、在位期間開始(第41代天皇)。
694年計画都市としての都、藤原京への遷都が実行され、都政・国家統治基盤の強化が図られる。
696年‐697年律令国家体制の具体化(戸籍、班田制など)を進める。翌697年8月1日に譲位。
697年8月1日孫の文武天皇を天皇として即位させ、持統天皇は太上天皇となり後見体制をとる。
703年1月13日(大宝2年12月22日)持統天皇崩御。和歌や政治制度に大きな足跡を残して、歴史にその名を刻む。

※注意:都造営や制度整備の正確な年次については研究者間で若干の見解の違いがあるため、おおよその流れとして把握してください。

まとめ|持統天皇は「日本の基礎を築いた女性天皇」

持統天皇が残した日本史への影響

持統天皇は、律令制度の整備と都の建設を通じて、日本の国家体制の根幹を築いた天皇です。

夫・天武天皇が開始した改革を引き継ぎ、藤原京の造営や中央集権的な政治体制の確立など、後の日本の政治制度の基礎を築きました。

特に、女性でありながら強い指導力を発揮し、天皇中心の国家運営を安定化させた功績は、古代日本における女性統治の可能性を示すものでもあります。

藤原京に代表される「都の整備」と「法と制度による統治」は、律令国家の成熟を支える礎となり、奈良時代の国家体制へと発展していきました。

テストで覚えておきたいポイント3つ

① 持統天皇は夫・天武天皇の政治を引き継ぎ、690年に即位した女性天皇です。
② 694年に日本初の本格的な都である藤原京を完成させ、中央集権体制を整えました。
③ 697年に孫の文武天皇へ譲位し、太上天皇として政治を後見しました。この体制は後の院政の先駆けともなりました。

このように、持統天皇は日本の政治史において「国家のかたち」を明確にした人物といえます。

律令制度や都城の整備など、彼女の施策は日本の基礎構造を形づくり、平城京や奈良時代の繁栄へとつながっていきました。

日本史の中で彼女の存在を理解することは、国家形成の流れをつかむうえで欠かせません。

出典情報:Wikipedia壬申の乱|関ケ原町歴史民俗学習館nippon.com

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