阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、奈良時代に生まれ、中国・唐の国で高官にまで上りつめた日本人です。
若くして遣唐使として渡り、唐の文化や政治の中で活躍しましたが、日本に帰ることは叶いませんでした。
その一方で、詩人としても優れた才能を発揮し、有名な漢詩「天の原」は今も語り継がれています。
この記事では、阿倍仲麻呂が「何をした人」なのかを、功績やエピソードを交えてわかりやすく解説します。
阿倍仲麻呂とは?どんな人だったのか
奈良時代に生まれたエリート貴族
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698年〜770年)は、奈良時代に活躍した阿倍氏の名門に生まれた人物です。
父は朝廷で要職を務めた阿倍船守で、祖父に筑紫大宰帥として知られる阿倍比羅夫をもち、幼少期から学問と政務の素養を身につけました。
後に唐で「朝衡(ちょうこう)」とも名乗り、長安を中心に学問・政治の両面で頭角を現します。
日本では文人・貴族として位置づけられますが、その活動舞台の多くは国境を越えた唐の都であり、生涯の大半を異国で過ごした点に大きな特色があります。
若くして遣唐使に選ばれるほどの秀才
仲麻呂は若くして学才を評価され、716年に遣唐留学生に選ばれ、717〜718年にかけての遣唐使に随行して入唐しました。
唐では太学で学び、科挙に及第して官人の道を歩み始めます。
帰国を望みつつも機会に恵まれず、やがて唐での登用が進み、学識と言語運用能力を買われて朝廷に近い部署に任じられるようになります。
日本の都・平城京で育ったエリートが、当時の国際文化の中心地であった長安に乗り込み、制度化された高等教育と官僚登用試験を突破したという事実は、当時としては驚異的なキャリアでした。
のちに彼は中国名「朝衡」を用い、詩文にも優れた才を示し、唐の文人たちからも一目置かれる存在へと成長していきます。
阿倍仲麻呂は何をした人?主な功績をわかりやすく紹介
唐(中国)に渡り、官僚として高い地位に就く
阿倍仲麻呂は奈良時代の日本から唐へ渡り、太学で学んだのち科挙に登第し、洛陽の司経校書や左拾遺、左補闕などの官職に就きました。
その後も昇進を重ね、秘書監や衛尉卿といった中枢近くの要職を歴任し、粛宗期には左散騎常侍に抜擢されます。
とりわけ注目されるのは、安南都護・安南節度使として現在のベトナム北部を統治する重任を担った点で、唐の地方統治を任されるほどの信任を受けた日本人であったことがうかがえます。
晩年には功績により潞州大都督を贈られ、唐朝の官僚としてきわめて高い評価を得た生涯でした。
日本に帰れなかった悲劇と、その背景
仲麻呂は折にふれて帰国を願い出ましたが、玄宗の時代には才を惜しまれて許されず、ようやく許可が出た753年の帰国航海では暴風に遭って船が安南方面へ漂着し、長安へ引き返さざるを得ませんでした。
安史の乱を経て唐の政情が揺らぐなかでも再び登用され、結果として日本の土を踏むことなく770年に長安で没します。
学識と言語運用に秀でたがゆえに唐朝に必要とされ、国際情勢の変動も重なって帰国の機会を逸していったことが、この「帰れなかった」悲劇の背景にありました。
唐の詩人たちと交流し、文化を広めた人物
仲麻呂は唐名「晁衡(ちょうこう)」を名乗り、李白や王維、儲光羲、包佶ら当代一流の詩人と詩歌を贈答する文人的交流を深めました。
彼らは別れや再会に際して詩を作り、仲麻呂の才を称えています。
こうした往来は、単なる私的交友にとどまらず、日本からの留学生が唐の学芸世界のど真ん中で評価され、相互の文化理解が進んだことを物語ります。
仲麻呂自身も詩文の才により名声を得ており、学問と文学の両面で日中の知的交流を象徴する存在となりました。
有名な漢詩「天の原」とは?
望郷の思いを詠んだ感動の詩
阿倍仲麻呂が詠んだ和歌「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は、広々とした空(「天の原」)を仰ぎ見て、遠く故郷の奈良・春日野の三笠山にかかる月を思い起こすという詠嘆に満ちた一首です。
この歌の詞書には「唐土(もろこし)にて月を詠みける」とあり、異国の地・唐で月を眺めながら故郷を想った心情が込められていると伝えられています。
詩に込められた意味と現代まで伝わる理由
この和歌では、「天の原」が広く大きな空を表し、「ふりさけ見れば」は「遠く仰いで見れば」という意味です。
そして「春日なる 三笠の山に 出でし月かも」と詠むことで、唐の地で見上げた月が、かつて日本・奈良の三笠山に昇った月と同じであろうか…という、淡い望郷の思いがほのかに漂います。
このような「遠く離れた地で同じ月を見る」という情景は、時代を超えて人の共感を呼び、現代でも教科書や百人一首のかるたで親しまれています。
なお、この和歌を通じて、阿倍仲麻呂がいかに唐で密かに故郷を思い続けていたか、自らの位置を客観的に見つめていたかが浮かび上がります。
帰国を願いながらも唐朝での任務にとどまらざるをえなかった彼の運命が、この一首に凝縮されていると言えるでしょう。
阿倍仲麻呂がすごいと言われる理由
異国で出世した日本人としての偉業
阿倍仲麻呂が「すごい」と言われる最大の理由は、異国・唐という当時の世界最先端の大帝国で、正式な官僚として高位に昇りつめたことです。
彼は単なる留学生ではなく、科挙という非常に難関な試験に合格し、唐の正式な官職に就いた日本人でした。
唐では厳しい身分社会と官僚制度の中で外国人が登用されることは極めて珍しく、仲麻呂が左散騎常侍や安南都護といった地位にまで昇ったことは、まさに歴史的快挙といえます。
彼の政治的才能と誠実な人格が唐の皇帝に信頼されていた証拠でもあり、その功績は日本人として初めて「グローバルに成功した人」として語り継がれています。
国際交流の先駆けとしての存在
阿倍仲麻呂は、唐での政治的活動だけでなく、文化・文学の面でも重要な役割を果たしました。
唐の詩人・李白や王維らと詩を贈り合い、唐文化の粋を直接体験した人物として、後の日本文化にも大きな影響を与えています。
また、彼の存在は単なる「異国で成功した日本人」という枠を超え、国家や民族の垣根を越えて交流を築いた先駆者として高く評価されています。
仲麻呂の生き方には、現代にも通じる「国際理解」や「多文化共生」の精神が息づいており、千年以上の時を経てもその姿勢が共感を呼び続けています。
唐での成功と望郷の詩を残した阿倍仲麻呂の生涯は、学問と文化、政治と人間性を結びつけた「国際人」としての理想像を示しています。
彼の業績は、現代における国際的な活躍を志す人々にとっても、多くの学びを与えてくれる存在といえるでしょう。
まとめ:阿倍仲麻呂は日本と中国をつないだ“国際人”だった
簡単に振り返る阿倍仲麻呂の功績
阿倍仲麻呂は、奈良時代の日本から唐に渡り、異国で高官にまで昇りつめた稀有な存在でした。
学問に優れ、科挙に合格して唐の正式な官僚となり、玄宗や粛宗の時代に重用されたことは、当時として驚異的な偉業でした。
彼の人生は、単なる留学生の成功を超え、国境を越えた知の交流そのものであり、文化・政治の両面で日中の懸け橋として重要な役割を果たしました。
また、望郷の思いを詠んだ「天の原」の和歌は、彼の深い人間性と、遠く離れた故郷への変わらぬ愛情を今に伝えています。
今に通じるグローバルな精神とは?
阿倍仲麻呂の生涯から学べるのは、異なる文化や価値観を理解し、敬意を持って関わることの大切さです。
彼は唐という巨大な異文化の中で、自らの能力を発揮しながらも謙虚さを失わず、詩や友情を通じて人々と心を通わせました。
その姿勢は、現代社会で求められるグローバルマインドそのものであり、国際交流が当たり前となった今でも、多くの人にとっての理想的なモデルといえるでしょう。
異国で成功しながらも故郷を思い続けた阿倍仲麻呂の人生は、「どこにいても自分らしく生きること」の意味を静かに教えてくれます。
千年以上の時を超え、彼の精神は現代の私たちにも深い共感と勇気を与え続けているのです。
阿倍仲麻呂の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 698年 | 現在の奈良県付近にて生誕。阿倍氏の貴族の家系に生まれ、幼少期より学問に優れていたとされる。 |
| 717-718年 | 遣唐使として唐(長安)へ渡航。日本側の派遣使節団に加わる。 |
| 720年代前半 | 唐の太学などで学び、科挙(唐の官僚試験)に合格したと伝えられている。 |
| 725年頃 | 洛陽あたりで行政職に就く。記録には「行政位置に就いた」との言及。 |
| 734年 | 日本帰国を試みたが、船のトラブル等により唐に留まることを余儀なくされた。 |
| 752年 | 再び帰国を試みるも、安南(現在のベトナム北部)付近で船が難破し、再び唐へ戻る。 |
| 755年 | 安史の乱が起き、帰国がさらに困難となった時期であり、唐朝での任官が続いた。 |
| 761-767年 | 安南都護(唐朝の地方官職)に任じられ、現在のベトナム北部で統治を行った。 |
| 770年 | 長安(唐の都)にて没。日本には帰ることが叶わなかった。年齢は約72歳とされる。 |

