聖徳太子とはどんな人?何をしたのかを簡単に説明してみた

聖徳太子とはどんな人?何をしたのかを簡単に説明 日本の歴史

聖徳太子(しょうとくたいし)は、日本の歴史の中でも特に有名な人物のひとりです。彼は飛鳥時代に活躍し、日本の政治制度や文化の基礎をつくった人物として知られています。

本記事では、「聖徳太子とはどんな人なのか?」「どんなことをしたのか?」を、日本史初心者にもわかりやすく解説します。

十七条憲法や冠位十二階、仏教の広まりなど、太子の功績を簡潔に整理して紹介していきましょう。

聖徳太子とは?簡単にいうとどんな人?

聖徳太子の本名と生まれた時代

聖徳太子(しょうとくたいし)は、生前には「聖徳太子」という名前では呼ばれておらず、実際の名前(諱/いみな)は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」または「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」とされています。

出生年は一般に 574 年とされ、没年は 622 年と伝えられ、飛鳥時代の人物です。「厩戸」という名が付いた理由には諸説あり、母親が馬屋(厩舎)の戸口あたりで出産したという伝承があること、また「馬(うま)」の字を年の干支(午)に結びつけた説などが伝えられています。

どんな立場の人だったの?(推古天皇の摂政)

聖徳太子は天皇の代わりに政治を補佐する立場である「摂政」に任じられました。593 年、女性天皇である推古天皇のもとで摂政として政務を取りしきる地位を与えられ、実質的には国家運営の中心を担ったと伝えられています。

ただし、当時「摂政」という制度が後世の言葉であって、当時の文献(特に『日本書紀』)では「天皇の事を取り行ふ者」「万機を総じる者」という表現が用いられており、後世の歴史観の影響を踏まえて「摂政」と呼ばれるようになったという見方もあります。

彼は蘇我氏(とくに蘇我馬子)らとの協調を背景に、豪族同士の対立を抑えつつ天皇中心の政治体制を模索したとされています。

聖徳太子が行った主なこと(功績まとめ)

十七条憲法を制定し、政治の考え方を示した

聖徳太子は、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定したと伝えられています。これは、いわゆる法律というよりも、天皇や豪族、官吏が守るべき道徳や心得をまとめたものです。第一条の「和をもって貴しとなす(人々が協調することを尊ぶ)」という言葉は特に有名で、国の統治の基本理念として掲げられました。

この憲法には、仏教・儒教・法家の思想が取り込まれており、たとえば「詔(天皇の命令)を受けたら必ず謹む」など、政治を行ううえでの心構えが示されています。

ただし、近代的な意味での憲法とは異なり、国民の権利を保障するものではなく、主に貴族・官吏層に向けた「規範」の役割を持つものです。

なお、この「太子が制定した」という伝承には疑問を唱える学説もあり、十七条憲法の実際の成立時期や著者を、後世の文献編纂者が整えた可能性を指摘する研究もあります。

冠位十二階をつくり、能力で評価される制度を導入

十七条憲法に先立つ603年(推古天皇11年)、聖徳太子は「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」という制度を定めたと伝えられています。これは、役人に与える身分(冠位)を、出自や血縁によらず「能力・徳性」によって評価しようとする制度でした。

「徳・仁・礼・信・義・智」の六つの徳性を段階的に評価し、それぞれ濃淡の別(大・小など)を付す形で、全部で十二段階に分けられていたといわれます。

この制度によって、役人登用での不公平感を減らす狙いがあったとされ、能力を重視する考え方を政治に持ち込もうとした先駆的な政策と評価されています。

ただし、この制度の運用の実際や効果については、史料が限られているゆえに明確には分かっておらず、伝承部分と重なって語られることがあります。

遣隋使を派遣して中国との交流を進めた

聖徳太子の時代、日本は中国大陸で強大な国家を築いていた隋と外交関係を持つことを重視しました。その一環として、遣隋使(日本から隋に派遣された公式使節)を送り、隋の制度や文化、技術を学ぼうとしたのです。

代表的な使者としては小野妹子(おののいもこ)が知られており、日本側が隋に対して「日出づる処の天子、日没する処の天子に致す」という国書を送ったという逸話が伝わります。

ただし、遣隋使が実際に何度行われたか、その記録の正確さなどについては諸説があり、史料批判の観点からは慎重さも求められます。

遣隋使を通じて帰国した留学生や使者は、制度や仏教、暦・天文・土木建築などの技術を持ち帰り、それをもとに国内の制度整備や文化発展に取り組む契機となったと考えられています。

仏教を広め平和を重んじる国づくりを目指した

聖徳太子は仏教を国家的に振興することにも強い意図を持っていました。国家の政治理念と道徳規範に、仏教の教えを取り込もうとしたのです。

彼は、法隆寺や四天王寺など寺院建立に関わったとされ、仏教寺院を拠点として教えを広める道を整えようとしました。

また、自ら経典の講義を行ったと伝えられ、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と呼ばれる経典注釈書を編んだという伝承も残っています。

このように仏教を土台に据えることで、天皇中心・調和を重んじる国づくりをめざしたと考えられており、その思想的影響は後世の律令国家にも引き継がれていったと評価されます。

聖徳太子の思想とその影響

「和をもって貴しとなす」とはどういう意味?

聖徳太子が十七条憲法の第一条に掲げた「和をもって貴しとなす(以和為貴)」という言葉は、字面からだけ見ると「和(やわらぎ・調和)をもって尊いものとみなす」という意味になりますが、それだけではありません。古くは『論語』の言葉を下敷きにしており、「礼(秩序ある規範)の中で、人々が融和することが尊い」という考え方を包含していたとされます。

この言葉は主に二つの側面で理解されることがあります。一つ目は、「争いを起こさず、できるだけ調和を保つことを重視する」という意味。たとえ意見が異なっても対立を避け、和を尊ぶ姿勢が大切だ、と説いています。

二つ目は、「議論を十分にすることを通じて、納得・合意を目指す」という意味。「和=なれ合い」ではなく、異なる意見をぶつけ合いながらも最終的に調和を目指すプロセスを重んじるという解釈もあります。

また、十七条憲法の続く条項には「忤(さからふ)ること無きを宗となす(争うことをしないことを基本とせよ)」という表現も出ており、和を基本とした態度を政治・社会の根本として据えようとする意図が見えます。

そのため、「和をもって貴しとなす」は単に「仲よくしなさい」という戒めではなく、秩序と議論を尊重しつつ調和を目指す統治理念や社会観の核心を表す言葉と見ることができます。

日本の政治や文化に与えた影響

聖徳太子の思想は、後世の日本政治や文化に少なからぬ影響をもたらしました。特に「調和」や「協調」を重んじる精神は、日本人の価値観の根底に根づいたと言えるでしょう。

政治の面では、太子が仏教・儒教・神道といった異なる思想を折り合わせようとした「三教融合」の発想が影響を及ぼし、後の律令体制や国家仏教の体制へとつながる橋渡し的役割を果たしました。

また、国際的な交流を通じて導入された制度や文化が、律令国家の基盤を形成する一因にもなりました。たとえば、遣隋使が中国・隋の制度を学び、帰国後の制度整備に応用されたことが、後の中央集権的な国家づくりを後押ししたとされています。

文化の面でも、太子の仏教振興政策や寺院建立は後世の仏教文化の発展に深くかかわりました。太子自身が経典の講述や解説書(伝承上は三経義疏など)を残したと伝えられ、宗教的・思想的な基盤整備に寄与したと考えられています。

さらに、現在の日本人の宗教観(たとえば神道行事と仏教行事が併存していること)には、太子の時代から続く寛容性や折衷性の考え方が影響を与えたという見方もあります。

こうした思想的影響は、時代が下るにつれて形を変えながらも、和を重んじる姿勢や社会調和を尊ぶ価値観として、日本の歴史・文化の根底に流れていったと見ることができます。

聖徳太子の豆知識・おもしろエピソード

一度に10人の話を聞いたという伝説

伝説によれば、聖徳太子は「一度に10人の話を同時に聞き分けた」という逸話が伝えられています。これは、彼の聡明さや超人的な側面を強調する伝承的表現であり、実証できる史料があるわけではありませんが、太子像を印象づけるエピソードとしてよく語られます。

この逸話は、聖徳太子の多才さ・知的なオーラを後世に伝える物語的要素ですが、学術的には伝承・物語として扱われることが多いです。

昔のお札に描かれていた!聖徳太子の顔の秘密

聖徳太子が日本のお札に肖像として使われた回数は、歴史上最も多い人物のひとりです。1930年以降、百円札、千円札、五千円札、一万円札など、複数の紙幣に登場し、合計で7回も肖像に採用されたといいます。

太子が紙幣に頻繁に起用された理由としては、知名度の高さや日本人に親しまれている偉人であることの他、偽札対策の目的で「人の顔が入っている方が偽造しにくい」という観点もあったとされます。

実際には、後に一万円札の肖像は福沢諭吉に変更されましたが、それ以前の時期には「紙幣の顔」として太子は非常に強い象徴性を持っていたのです。

まとめ:聖徳太子は日本の基礎をつくった重要な人物

簡単に振り返る聖徳太子の功績

聖徳太子は、飛鳥時代において日本の政治・文化の基盤づくりに尽力した人物です。まず、603年には「冠位十二階」を導入し、血縁や身分ではなく能力・徳性によって官人を評価する制度を設けようとしました。

そして翌年の604年には「十七条憲法」を制定して、政治家や官吏が守るべき道徳や心構えを定め、「和をもって貴しとなす」という調和を重んじる価値観を国の理念としました。

彼はまた、607年には小野妹子を遣隋使として中国の隋に派遣し、先進的な文化や制度を学ぶ外交を推し進め、日本の国際性を高めようとしました。

さらに仏教を国家的に振興し、法隆寺・四天王寺などの寺院建立や仏典の講義・注釈を通じて仏教思想を広めています。

これらの改革と活動は、律令制国家へと移行するための思想的・制度的土台となりました。

今に残る教えと現代への影響

聖徳太子が示した「和をもって貴しとなす」の思想は、単なる「仲よくしよう」という言葉を超えて、議論を重ね合意を図りながら社会をまとめていく態度を意味します。

これは、日本社会の「調和・協調性」を重視する文化の根底にある考え方とも見なされます。現代でも、学校や企業のモットーとして使われることがあるほか、能力を重視した人材登用や公平な評価といった理念は、冠位十二階の考え方と通じる側面があります。

また、外国との対等な交流を志向する姿勢や、異なる文化・思想を取り入れ融合していく柔軟性は、グローバル社会を生きる私たちにも通じる視点です。

さらに、太子は没後から信仰の対象にもなり、太子信仰が長く日本各地に根づいてきたことも、彼の存在が単なる歴史上の人物にとどまらず文化的・宗教的な意味を持ち続けていることを示しています。

聖徳太子の年表(主要な出来事まとめ)

西暦(年号)出来事補足・意義
574年(欽明天皇35年)厩戸皇子(のちの聖徳太子)誕生父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女。飛鳥時代初期の誕生。
587年(用明天皇2年)蘇我氏と物部氏の戦い(仏教受容の争い)蘇我氏を支持し、仏教の受容を後押しした。
593年(推古天皇元年)推古天皇の摂政に就任日本初の女性天皇を補佐し、実質的な政治指導者となる。
603年(推古天皇11年)冠位十二階の制度を制定血縁ではなく能力と徳による官僚登用制度を導入。
604年(推古天皇12年)十七条憲法を制定政治と道徳の理念を体系化し、「和をもって貴しとなす」を掲げる。
607年(推古天皇15年)小野妹子を遣隋使として派遣隋との国交を開き、先進文化・制度を導入。
607年ごろ法隆寺を建立仏教文化の中心地となり、世界最古の木造建築群として残る。
622年(推古天皇30年)聖徳太子が死去享年49。政治改革と仏教振興で後世に大きな影響を残す。
743年(天平15年)太子信仰が全国に広がる聖徳太子は「聖人」として崇拝され、信仰の対象となる。
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