この記事では、幕末の重要人物である松平春嶽がどのような人物で、何をした人なのかを初心者向けにわかりやすく解説します。
名前は聞いたことがあるけれど具体的なイメージがつかない、四賢侯や一橋派といった言葉が難しく感じるという方にも理解しやすいように、基本プロフィールから功績、幕末での役割まで順を追って説明していきます。
また、徳川慶喜や横井小楠、橋本左内といった関連人物とのつながりにも触れながら、松平春嶽が日本の歴史においてどのような位置付けの人物なのかを整理していきます。
この記事を読み終えるころには、松平春嶽について人に説明できるレベルの知識が身につき、幕末史全体を学ぶための土台を作ることができるはずです。
松平春嶽とはどんな人物?
松平春嶽(まつだいら しゅんがく)の基本プロフィール
松平春嶽は、江戸時代末期の越前国福井藩の藩主で、本名を松平慶永といいます。
1828年に江戸で生まれ、徳川将軍家の一門である田安徳川家の出身として育ちました。
1838年にわずか11歳で福井藩主となり、その後、藩政改革や幕末の政治に深く関わることになります。
春嶽という名前は元服の際に用いた雅号であり、生涯を通じてこの号で呼ばれることが多くなりました。
福井藩は越前松平家が治める親藩で、石高は約32万石とされ、幕府の中でも重要な立場にあった藩です。
その藩主であった松平春嶽は、幕末の難しい時期にあって藩の改革だけでなく、日本全体の進むべき方向を模索した人物として知られています。
幕末の「四賢侯」と呼ばれた理由
松平春嶽は、幕末の「四賢侯」と呼ばれた有力大名の一人です。
四賢侯とは、福井藩主松平春嶽、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内容堂、宇和島藩主伊達宗城の四人を指す呼び名です。
彼らはいずれも藩政改革に熱心で、洋学や軍制の近代化など、新しい時代に対応するための取り組みを積極的に進めました。
また、幕府の政治にも意見を述べ、老中阿部正弘らと連携しながら幕政改革を訴えるなど、単なる一藩の大名にとどまらない広い視野を持って行動しました。
なかでも松平春嶽は、開国や通商を受け入れる現実的な路線を支持し、日本の将来を見据えた柔軟な考え方を示したことから、賢明な大名として高く評価されました。
こうした藩内外での改革志向と政治的な発言力が合わさり、同時代の人々や後世の歴史家から「四賢侯」の一人として位置づけられるようになったのです。
松平春嶽は何をした人?功績を簡単に解説
幕末の政治改革を推進し、開国派として活躍
松平春嶽は、幕末の激動期に幕府と諸藩のあり方を見直そうとした政治改革の推進者として活躍しました。
1853年にペリーが来航した当初、春嶽は国防強化や攘夷を主張しましたが、世界情勢や清国のアヘン戦争の状況などを学ぶにつれて、次第に開国と通商を受け入れるべきだという現実的な考え方へと転じていきます。
春嶽は老中阿部正弘らと連携し、諸外国との貿易を通じた富国強兵を目指す意見書を幕府に提出し、日本が自ら積極的に海外へ進出して国力を高めるべきだと主張しました。
こうした考え方は、それまでの鎖国体制にとらわれないものであり、保守的な大名が多かった中で、春嶽は数少ない開国派のリーダーとして評価されるようになります。
1862年には、文久の改革の一環として新設された政事総裁職に就任し、若い将軍徳川家茂を補佐しながら、幕政改革や軍制・外交体制の見直しに取り組みました。
一橋派を支え、徳川慶喜の将軍擁立に尽力
松平春嶽は、将軍継嗣問題において一橋派の中心人物として活動し、のちに最後の将軍となる徳川慶喜を次期将軍に推そうとしました。
一橋派とは、一橋慶喜を次の将軍にふさわしい人物と考えるグループで、島津斉彬や伊達宗城ら有力大名もこれを支持していました。
これに対して、紀州藩主徳川慶福を推した南紀派の中心にいたのが大老井伊直弼であり、春嶽は井伊政権と激しく対立する立場に置かれます。
結果として将軍には徳川家茂が就き、春嶽は安政の大獄によって隠居と謹慎を命じられ、一時的に政治の表舞台から退くことになりました。
しかし1862年になると、幕府は再び春嶽を政事総裁職に起用し、一橋慶喜も将軍後見職となったことで、春嶽は慶喜とともに幕政改革を進める立場に復帰します。
春嶽は、徳川政権を維持しつつも体制を立て直すためには、能力の高い慶喜を中心とした新しい政治運営が必要だと考え、その実現に向けて最後まで尽力したのです。
横井小楠ら人材を登用し、越前藩の改革を実行
松平春嶽の大きな功績の一つは、越前藩の藩政改革において有能な人材を積極的に登用し、近代的な藩づくりを進めたことです。
春嶽は熊本藩の儒学者であった横井小楠を政治顧問として福井に招き、その思想や政策を参考にしながら藩の改革方針を固めていきました。
さらに、下級武士であった由利公正や藩医出身の橋本左内など、身分にとらわれず実力本位で人材を抜擢したことも大きな特徴です。
越前藩では、財政の立て直しや殖産興業の推進、藩校の改革を通じて、洋学や兵学も学べる実務的な教育制度を整えるなど、近代国家づくりを先取りした取り組みが行われました。
こうした藩内改革で育った人材は、のちに明治新政府でも重要な役割を担い、春嶽の人材登用が日本全体の近代化にもつながったと評価されています。
松平春嶽の果たした役割と幕末への影響
幕府と諸藩の調整役として重要なポジションを担う
松平春嶽は幕末の政治において、幕府と諸藩、さらに朝廷の間をつなぐ調整役として重要な地位を占めました。
安政の大獄後に一度は隠居と謹慎を命じられましたが、1862年に政事総裁職として政界に復帰し、将軍徳川家茂を補佐しながら幕政改革の中心に立ちました。
政事総裁職とは、老中とは別に政治全般の方針を統括する新しい役職であり、春嶽はこの立場から参勤交代の緩和や軍制改革など、いわゆる文久の改革を進めました。
同時に春嶽は、薩摩藩や土佐藩、宇和島藩など他藩の有力大名とも連携し、諸藩の意見をまとめながら幕府に働きかける「ハブ」のような役割も果たしました。
福井藩と薩摩藩の関係は特に深く、両藩は老中阿部正弘期の幕政改革から慶応期の政局まで、しばしば同じ政治路線をとり、春嶽は徳川政権と雄藩勢力の間でキャスティングボートを握る存在となりました。
このように春嶽は、一つの藩の藩主という枠を超えて、幕末日本の政治均衡を支える調整役として大きな影響力を持っていたといえます。
公武合体政策の推進とその目的
松平春嶽の幕末における最も重要な役割の一つが、公武合体政策の推進です。
公武合体とは、朝廷と幕府が協力し合うことで政治の安定を図ろうとする考え方で、尊王攘夷派と開国派が対立する不安定な情勢の中で、国家の分裂を避けるための現実的な路線でした。
春嶽は政事総裁職就任後、将軍の上洛や朝廷との協議の場の整備などを通じて、公武合体に基づく新しい政治体制を作ろうとしました。
また、公武合体を実現するためには、幕府だけでなく薩摩や土佐などの有力藩も政治に参加させる必要があると考え、参預会議などの場で諸侯連合による合議体制を模索しました。
しかし、長州藩など尊王攘夷を掲げる勢力の台頭や、徳川慶喜と島津久光らの対立などにより、公武合体政権は思うように機能せず、やがて体制そのものが崩れていきます。
それでも春嶽が目指した「朝廷と幕府、有力諸藩が協力して近代国家づくりに取り組む」という構想は、日本が急激な内戦状態に陥ることを避けようとする試みでもあり、その意味で幕末政治の大きな方向性の一つを示したといえます。
明治政府成立後の立場と晩年
1867年に大政奉還が行われ、徳川幕府が政権を朝廷に返上すると、松平春嶽は今度は新政府側の要人として再び表舞台に立つことになります。
維新政府ではまず議定という役職に就き、1868年には内国事務総督として国内行政の総括役を担うなど、新体制の初期に重要なポストを歴任しました。
1869年には民部官知事、続いて民部卿や大蔵卿に任じられ、租税や財政など国家の根幹に関わる分野の制度づくりにも関わりました。
しかし春嶽は、新政府内で倒幕急進派と完全に歩調を合わせる立場ではなく、徳川家を含む旧勢力にも一定の配慮を求める穏健な姿勢をとり続けました。
そのため、明治初期の比較的早い段階で一線から退き、その後は政界の長老的な存在として意見を述べたり、政治的な回顧録や歴史的逸話をまとめた『逸事史補』などの著作に力を注いだとされています。
1890年に春嶽は東京で亡くなりますが、幕末から明治初期にかけて一貫して「日本全体のバランスをどう取るか」という視点から政治に関わった点が、その晩年まで通じる特徴だったといえます。
松平春嶽の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1828年 | 文政11年 | 江戸城内田安屋敷に徳川斉匡の八男として誕生する。 |
| 1838年 | 天保9年 | 11歳で越前福井藩の養子となり第16代福井藩主として家督を相続する。 |
| 1839年 | 天保10年 | 全藩士の俸禄半減など財政再建策を打ち出し本格的な藩政改革に乗り出す。 |
| 1853年 | 嘉永6年 | ペリー来航を受け当初は攘夷と海防強化を主張するが対外情勢の把握を通じて開国の必要性を認識し始める。 |
| 1857年 | 安政4年 | 越前藩で藩政改革を本格化させ開国通商論の建白書を幕府に提出し一橋慶喜擁立など幕政改革を積極的に提言する。 |
| 1858年 | 安政5年 | 将軍継嗣問題や条約勅許問題をめぐって井伊直弼と対立し不時登城の罪により隠居謹慎を命じられる。 |
| 1862年 | 文久2年 | 謹慎を解かれて政界に復帰し新設の政事総裁職に就任して文久の改革と公武合体政策の推進役となる。 |
| 1864年 | 元治元年 | 京都守護職に就任して京都の治安維持を担うが幕閣や諸勢力との対立から短期間で辞任し福井に帰国する。 |
| 1867年 | 慶応3年 | 大政奉還前後の新政府構想の中で議定に任じられ維新政府の中枢に参画する。 |
| 1868年 | 慶応4年 /明治元年 | 内国事務総督として国内行政を統括し新政府の基礎的な統治体制づくりに関わる。 |
| 1869年 | 明治2年 | 民部官知事民部卿大蔵卿などを歴任し租税や財政制度の整備に携わる。 |
| 1870年 | 明治3年 | 主要公職を辞して政界の第一線を退き以後は回想録『逸事史補』などの文筆活動に力を注ぐ。 |
| 1890年 | 明治23年 | 東京小石川の自邸で死去する。 |
初心者でも覚えやすい!松平春嶽の要点まとめ
松平春嶽を理解するための3つのキーワード
松平春嶽を理解するためのキーワードは「越前福井藩主」「四賢侯」「開国と改革」です。
春嶽は越前国福井藩の藩主として藩政改革に取り組み地方から近代化を進めた指導者でした。
同時に島津斉彬や山内容堂らと並んで「幕末の四賢侯」と呼ばれる名君として評価されました。
またペリー来航以後は開国と通商を受け入れる路線に立ち国内改革と国力強化を目指しました。
この三つの要素を押さえることで春嶽が単なる一藩の殿様ではなく日本全体の進路を考えた政治家であったことが見えてきます。
なぜ歴史上重要人物とされるのか?
松平春嶽が歴史上重要とされるのは幕府と諸藩朝廷の間を調整しながら日本の進むべき方向を模索したからです。
春嶽は政事総裁職として文久の改革を主導し幕政改革と公武合体を進めようとしました。
越前藩内では横井小楠や由利公正橋本左内らを登用し人材と制度の両面から近代的な藩づくりを行いました。
明治維新後も議定や民部卿大蔵卿などを務め新政府の制度設計に関わった点も評価されています。
幕末から明治にかけて一貫して穏健で現実的な路線を取り内戦の拡大を抑えつつ近代国家への移行を支えたことが春嶽の歴史的な意義と言えます。
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徳川慶喜との深い関わり
松平春嶽と徳川慶喜の関係を語るときにまず重要なのは将軍継嗣問題で春嶽が一橋派の中心として慶喜を強く推したことです。
春嶽は薩摩藩主島津斉彬や宇和島藩主伊達宗城らと連携し能力と見識に優れた一橋慶喜こそ次の将軍にふさわしいと考えて井伊直弼ら南紀派と対立しました。
この争いは安政の大獄へとつながり春嶽自身も隠居と謹慎を命じられますがそれでも慶喜を中心とした体制が日本の将来に必要だという考えは変わりませんでした。
1862年に春嶽が政事総裁職として政界に復帰すると慶喜は将軍後見職となり二人は幕政改革を進めるパートナーとして再び協力する立場になります。
しかし横浜港の鎖港問題など外交方針をめぐっては慶喜と参預諸侯とのあいだに溝が生じ春嶽も慶喜の対応をめぐり不満を抱くなど必ずしも常に一枚岩ではありませんでした。
それでも春嶽は徳川家の将来と国家全体の安定を考え慶喜に大政奉還を決断させるよう働きかけるなど最後まで慶喜を支えつつ日本が内戦で大きく崩壊しない道を探り続けたといえます。
横井小楠・橋本左内などの改革派との関係
松平春嶽のもう一つの大きな特徴は越前藩の内政改革において横井小楠や橋本左内など先進的な思想を持つ人物と深く結びつき彼らを積極的に登用したことです。
熊本の儒学者であった横井小楠は1857年に春嶽の度重なる要請によって福井に招かれ藩校明道館で講義を行いながら富国強兵と民生安定を両立させる政治構想を春嶽に示しました。
小楠が後年まとめる国是十二条などの構想は幕末から明治初年の国家像に大きな影響を与え春嶽もまたその思想から学び越前藩の改革方針や公武合体構想に反映させていきます。
一方福井藩士の橋本左内は若くして春嶽の側近として登用され藩政改革だけでなく将軍継嗣問題や開国政策についても積極的に意見を述べるブレーンとして活躍しました。
左内は安政の大獄で処刑され短い生涯を終えますが薩摩の西郷隆盛とも交流を持ち福井と薩摩を結ぶ情報ルートの一端を担うなど春嶽の広い人脈形成にも大きく貢献しています。
さらに由利公正(三岡八郎)などの人材も春嶽の目にとまり財政や殖産興業の分野で抜擢され越前藩の近代化を進めました。
こうした改革派の知識人や実務家を見出して活躍の場を与えたことは春嶽自身の功績であると同時に明治新政府で活躍する人材の土台をつくった点でも大きな意味があると言えます。

