大塩平八郎とは?何をした人か簡単にわかる!【子どもにもやさしく解説】

大塩平八郎とは?何をした人か簡単にわかる!【子どもにもやさしく解説】 日本の歴史

大塩平八郎は、江戸時代の終わりごろに大阪で活やくした役人であり学者でもあった人物です。

貧しくてごはんも食べられない人たちをなんとか助けたいと強く考え、幕府やお金持ちの冷たい対応にたてついたことで知られています。

ただの反乱を起こした人ではなく、「困っている人を放っておけない」と行動した正義感の強い人物として、今も歴史の授業でくり返し語られています。

大塩平八郎とはどんな人物?

生まれと家柄|儒学者としての背景

大塩平八郎は1793年に、大阪の町奉行所で働く与力の家に生まれた武士の子どもです。

幼いころに両親を亡くし、与力だった祖父のあとをつぐことになり、10代前半から大阪町奉行所で仕事をするようになりました。

まじめで仕事ぶりがていねいだったため、若いうちに正式な与力に出世し、悪い役人や不正をきびしく取りしまることで知られるようになりました。

いっぽうで仕事のかたわら多くの本を読み、中国の学問である儒学、とくに行動を大切にする陽明学を熱心に学びました。

30代になると役人をやめ、自分の家に「洗心洞」という私塾をひらき、役人やお医者さん、近くの村の農民の子どもたちに学問や考え方を教える学者として活動しました。

なぜ「正義の人」と呼ばれたのか

大塩平八郎が「正義の人」と言われるのは、自分の出世や安全よりも、困っている人たちを助けることをえらんだからです。

天保の大飢饉のころ、大阪では米のねだんが急に上がり、多くの人がごはんを買えずに苦しみましたが、大塩は役所や大商人に米を分けてほしいと何度も強くうったえました。

それでも聞き入れてもらえなかったため、自分の大切な蔵書を売ってお金にかえ、そのお金で貧しい人たちを助けようとしました。

さらに、弱い立場の人びとを守ろうとしない幕府の政治を「まちがっている」と考え、命をかけて世の中を変えようとした姿が、のちの時代の人びとにも強い感動をあたえました。

ただの「反乱を起こしたあらい人」ではなく、まじめな役人であり学者でありながら、最後まで自分が正しいと思うことをつらぬいた人物として記憶されています。

大塩平八郎は何をした人?簡単にまとめると

窮民を救うために「大塩の乱」を決意

大塩平八郎は、天保の大飢饉で大阪の人々が食べるものも買えないほど苦しんでいることを知り、とても心を痛めました。

まずは元役人としての立場を生かし、大阪城にたくわえられていた非常用の米を出して人々に分けてほしいと、役所や有力な商人に何度も願い出ました。

しかし、その願いは聞き入れてもらえず、お金や米を持つ側は自分たちを守ることを優先し、貧しい人たちの苦しみをほとんど見ようとしませんでした。

大塩は自分の大切な本をたくさん売って、そのお金で貧しい人々を助けようとしましたが、それだけでは多くの人を救うには足りないと考えるようになりました。

そこで1837年に農民や町人、弟子たちに呼びかけ、米を取り上げて人々に分け、幕府の政治のまちがいを世の中にしらせるための反乱「大塩の乱」を決意しました。

幕府の腐敗を批判し改革を訴えた理由

大塩平八郎が幕府の政治を強く批判したのは、飢えている人が大勢いるのに、政治をになう人たちが私利私欲を優先していると感じたからです。

大阪の大商人たちは米をため込み、ねだんが上がるのを待っていましたが、役所の人たちはそれを本気で止めようとはせず、弱い立場の人々が見すてられていました。

儒学や陽明学を学んでいた大塩は、「えらい人ほど人々を守るべきだ」という考えを大切にしており、その教えと現実の政治とのギャップに強い怒りと危機感を持ちました。

ふつうのお願いや話し合いでは何も変わらないと判断した大塩は、反乱という形で強いメッセージを世の中に出し、幕府に「このままではいけない」と気づかせようとしたのです。

大塩の乱は、目の前の人々を救うための行動であると同時に、「民を大切にしない政治は間違っている」と訴える、命がけの抗議でもありました。

短期間で終わった大塩の乱の結果とは

大塩の乱は、準備期間こそ長かったものの、実際の戦いそのものは1日ほどで幕府側の勝利に終わりました。

大塩側の人数は300人から400人ほどの寄せ集めで、武器や訓練の面でも十分ではなく、幕府側の軍勢におさえ込まれてしまいました。

大阪の町では火事が広がり、大商人の家などが焼ける一方で、反乱に参加した人々の多くがとらえられたり、戦いの中で命を落としたりしました。

大塩自身はすぐにはつかまらず、しばらくかくれていましたが、やがてかくれ家を発見され、養子とともに自ら命を絶つという悲しい結末をむかえました。

反乱は短期間でおわったものの、「民を救おうとした元役人の反乱」は全国に大きな衝撃をあたえ、幕府の政治の弱点と信頼のゆらぎをはっきりさせる出来事となりました。

大塩の乱はなぜ起きた?背景をやさしく解説

天保の大飢饉で苦しむ庶民の現状

大塩の乱が起きた1837年の少し前から、日本では天保の大飢饉とよばれる大きな飢饉が続いていました。

1833年ごろから長雨や洪水、冷害などが重なり、全国でお米がとれなくなり、農村では飢えで倒れる人が出るほど深刻な状態になりました。

お米の収かく量が減ると町に運ばれる米も少なくなるため、都市では米のねだんが一気に上がり、ふつうの町人や職人ではお米を買えないほど高くなってしまいました。

大阪のような大きな商人の町では、米をたくわえておいてねだんがもっと上がるのを待つ人もいて、ますます貧しい人たちが苦しむ原因となりました。

農村でも都市でも、年貢や借金の取り立てはきびしいままで、助けを求める人が増える一方だったため、各地で一揆や打ちこわしが起こるようになりました。

こうした中で、大阪の人々を目の前で見ていた元与力の大塩平八郎は、弱い立場の人たちが見すてられている現実に強い怒りと危機感を抱くようになったのです。

大阪町奉行所と幕府の対応の問題点

大阪では、米のねだんが上がり飢えた人が増えていたにもかかわらず、大阪町奉行所や幕府は十分な助けをしませんでした。

当時の大阪東町奉行は、飢饉で多くの人が苦しむ中でも、しっかりした救済策をとらず、城にたくわえられた米もほとんど出さなかったと伝えられています。

その一方で、米をたくさん持っている大商人たちは、米をため込んで高ねだんで売ろうとし、役所もそれを強く止めようとはしなかったため、庶民の不満は大きくふくらみました。

元与力として町奉行所の内情を知っていた大塩平八郎は、本来人々を守るはずの役所が、えらい人やお金持ちの方ばかりを向いていると感じるようになりました。

何度も意見書を出して、米を出して人々を助けることや、政治のあり方を改めることをうったえましたが、ほとんど聞き入れられませんでした。

こうした「政治の冷たさ」と「お金のために人々を苦しめるしくみ」こそが、大塩が最終的に反乱という形で立ち上がる大きな理由となったのです。

大塩平八郎の功績と評価

当時の庶民からの評価

大塩平八郎の乱は1837年に大阪で起きた内乱で、元役人が自分の命をかけて政治にたてついたという点で、人々に大きな衝撃を与えました。

幕府にとって大塩は「反乱を起こした罪人」としてきびしく非難されましたが、飢えた人々を助けようとしたという話は、町や村の庶民のあいだでひそかに語りつがれました。

大塩が反乱の前に出した「檄文」とよばれるよびかけの文書は、人々の手でうつし書きされ、取しまりをぬけて全国に広がっていきました。

越後ではこの檄文に勇気づけられた人たちが代官所をおそう「生田万の乱」を起こすなど、大塩の行動はほかの一揆や反乱にも影響をあたえました。

檄文の一部は寺子屋で字のれんしゅうをするための手本としても使われたと伝えられ、ただの「こわい反乱」ではなく、「弱い人を守ろうとした義の人」として受け止めた庶民も少なくありませんでした。

現代の歴史教育で重要視される理由

現代の歴史教育では、大塩平八郎の乱は「江戸幕府の政治が行きづまり、社会のゆがみがあらわになった出来事」として重要なポイントの一つになっています。

元役人であった大塩が大阪という幕府の重要な町で武装して立ち上がったことは、江戸時代を通じてもめずらしい内乱であり、当時の危機の深さをあらわす事件として注目されています。

教科書や授業では、天保の大飢饉や米のねだんの高騰、商人や役人のあり方とあわせて、なぜ大塩が乱を起こすほど追いつめられたのかを考えるきっかけとして取り上げられています。

また、この事件はのちに行われる天保の改革など、幕府が政治を立て直そうとした動きとつなげて学ぶことで、「一人の行動が社会全体にどんな影響をあたえるか」を考える教材にもなっています。

弱い立場の人を守ろうとした大塩の行動は、「正義とは何か」「リーダーはどうあるべきか」を話し合う題材としても使われ、現在でも中学生向けの歴史学習や道徳学習の中でくり返し取り上げられています。

まとめ|大塩平八郎はなぜ今も語られるのか

歴史から学べるリーダーシップと正義感

大塩平八郎は、江戸時代の終わりごろに起きた大きな飢饉と政治のゆがみの中で、弱い立場の人を守ろうとして立ち上がったリーダーとして記憶されています。

天保の大飢饉で多くの人が飢えに苦しむ一方で、幕府や商人たちが十分な助けをしなかったことに対し、大塩は学者としての信念から「このままではいけない」と強く感じました。

自分の蔵書を売って人々を助けようとしたり、何度も意見書を出して政治を正そうとしたりした姿は、まず平和的な方法で問題を解決しようと努力したリーダーの姿と言えます。

それでも状況が変わらないときに、元役人でありながら幕府にたてつくという危険な道を選んだ決断は、「自分だけが助かればよいのか」という問いかけを、今を生きる私たちにも投げかけています。

大塩の乱そのものは短期間でしずめられましたが、幕府に大きな衝撃をあたえ、のちの天保の改革などにつながるきっかけの一つになったと考えられており、歴史の流れを考える上でも欠かせない出来事になっています。

中学校の歴史教科書でも、大塩平八郎は天保の大飢饉や幕府の行きづまりとあわせて学ぶ重要人物としてくり返し登場し、「政治と民衆」「正義と行動」について考える題材として扱われています。

私たちは大塩の生き方から、知識だけでなく行動もともなった正義感、困っている人の立場に立って物事を考える姿勢、そして間違っていると感じたことに対して声をあげる勇気の大切さを学ぶことができます。

だからこそ大塩平八郎は、単なる「昔の反乱を起こした人」ではなく、今も歴史の授業や本の中で語られ続ける、心に問いかけてくる人物として存在し続けているのです。

大塩平八郎の年表

西暦和暦主な出来事
1793年3月4日寛政5年1月22日大塩平八郎が大坂・天満の大坂町奉行所与力の家に生まれる。
1824年文政7年陽明学を独学で修め、自宅に私塾「洗心洞」を開く。
1830年文政13年大坂東町奉行所与力を辞し、養子の大塩格之助に家督をゆずり隠居する。
1833年ごろ天保4年ごろ天保の大飢饉が全国的に深刻化し始め、農村と都市の人々が飢えに苦しむようになる。
1836年天保7年各地で天保騒動などの一揆が起こる中、大塩が檄文を作成し、門人に軍事訓練を行うなど武装蜂起の準備を進める。
1837年3月25日 天保8年2月19日 大塩平八郎が門人や農民らとともに大坂で武装蜂起し、「大塩平八郎の乱」(大塩の乱)が起こる。
1837年5月1日天保8年3月27日大塩平八郎が大坂市内の隠れ家で幕府方に囲まれ、養子の格之助とともに自決して亡くなる。

出典情報:Wikipedia

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