学校の校庭に立つ「薪を背負って本を読む少年」の銅像。そのモデルとなったのが、江戸時代後期の農政家・思想家である二宮尊徳(にのみやそんとく/二宮金次郎)です。
尊徳は、戦乱ではなく「貧しさ」に苦しむ人々を救うために、荒れた農村を立て直し、藩や村の財政を再建した人物でした。その背景には、「勤勉」「倹約」「他者への思いやり」を大切にする報徳思想があります。
この記事では、二宮尊徳がどんな生涯を歩み、どのような改革や思想によって多くの村を救ったのかを、歴史が苦手な人にもわかるようにやさしく解説します。
また、代表的な考え方である「積小為大」「分度と推譲」が、現代の私たちの勉強・仕事・お金の使い方にどう生かせるのかも紹介していきます。
二宮尊徳とはどんな人物か?
幼少期:貧しい環境で育った努力の人
二宮尊徳は1787年に、現在の神奈川県小田原市にあたる相模国足柄上郡栢山村の農家に生まれました。
幼いころに酒匂川の洪水で家や田畑が流されてしまい、家は一気に貧しくなってしまったと伝えられています。
その後、父は病気で亡くなり、続いて母も亡くなってしまい、尊徳は10代半ばで両親を失うことになりました。
両親の死によって兄弟はバラバラに預けられ、尊徳自身も伯父の家に身を寄せながら、朝から晩まで働く生活を送ったといわれています。
しかし尊徳は、厳しい環境にあってもただ嘆き悲しむのではなく、仕事の合間に荒地を開いて作物を育てるなど、少しずつ生活を立て直そうと工夫を重ねました。
こうした経験から、後の尊徳が説く「どんなに小さな働きや工夫でも、積み重ねれば大きな力になる」という考え方の土台が形づくられていきました。
独学で学問を身につけた理由
尊徳の家は貧しく、ゆっくり寺子屋に通ったり、本を自由に買ったりできるような余裕はありませんでした。
それでも尊徳は、ただがむしゃらに働くだけでは家も村も良くならないと考え、仕事の合間に本を読むことで独学で勉強を続けました。
伯父の家では夜遅くまで灯りをともして本を読んだため、「油代がもったいない」と叱られたというエピソードが残っています。
そこで尊徳は、自分で荒地に菜種をまいて育て、それを売って手に入れた菜種油で行灯に火をともし、誰にも遠慮せず勉強を続けたと伝えられています。
尊徳が読んだ本には、『論語』や『大学』といった儒教の古典をはじめとする多くの書物がありました。
これらを繰り返し読むことで、「真心をもってよく働くこと」「自分の暮らしの分を守ること」「余った力を人や社会に回すこと」といった後の報徳思想につながる考え方を身につけていきました。
貧しさや孤独という逆境の中でも学ぶことをあきらめなかった姿勢こそが、のちに多くの農村や藩の再建を任される人物へと成長していく原動力になったのです。
二宮尊徳は何をした人?功績をわかりやすく解説
報徳思想の確立|勤勉・倹約・利他を重視
二宮尊徳が一生をかけてまとめ上げた考え方が「報徳思想」と呼ばれるものです。
報徳思想は神道や儒教や仏教の教えを背景にしながらも、尊徳自身の体験を通して作り上げた独自の実践哲学だとされています。
その中心にあるのは、与えられた自然や人からの恩に感謝し、働くことで社会にその恩を返していくという考え方です。
具体的には、真心を尽くして働くことを意味する「至誠」と「勤労」、収入に見合った生活を守る「分度」、そこで生まれた余裕を人や将来に回す「推譲」という四つの柱から成り立つと説明されています。
これをわかりやすく言いかえると、まじめによく働く勤勉さと、無駄を省いて暮らす倹約、そこで生まれた余力を人のために生かす利他的な生き方を重んじる思想だと言えます。
尊徳は、こうした道徳的な教えを机上の理想として語るのではなく、実際に家や村や藩の立て直しに応用し、経済の仕組みと結びつけて具体的な方法論として示したところに大きな特徴があります。
荒れた農村を立て直した「農村改革」の成功
尊徳が活躍した江戸時代後期は、飢饉や天候不順が続き、多くの農村が借金と耕地の荒廃に苦しんでいました。
尊徳は自分の家を再興したときと同じように、荒れた村の状況を丁寧に調べ、土地の力や人々の働きぶりを見極めながら、一つ一つ改善策を積み重ねていきました。
村人にはまず、遊んでいる土地を耕すことや、少しでも無駄を減らして貯えをつくることを勧め、小さな成果が出たら皆で分かち合い、次の改善につなげていく道筋を示しました。
同時に、借金の返済については一度に返させるのではなく、年ごとの収穫に応じて無理のない返済計画を立て、村全体が立ち上がれるよう調整していきました。
栃木県の桜町領では、およそ10年という長い年月をかけて財政と農業の再建に成功し、その成果が知れ渡ると、周辺の村々や他の地域からも再建の依頼が相次ぐようになりました。
尊徳の指導を受けた村や領地は関東から東北南部にまで広がり、その数は生涯でおよそ600か村に達したと伝えられています。
尊徳の農村改革は、単に技術を教えるだけではなく、人々の心構えと暮らし方を変え、地域全体が自分たちの力で立ち直ることを目指した点で、当時としては画期的な取り組みでした。
藩の財政再建に貢献した仕組みづくり
尊徳の能力が本格的に世に認められたきっかけは、まず身近な家の家計を立て直したことでした。
その後、小田原藩の家老である服部家に奉公に上がると、尊徳は家計簿を細かく分析し、収入に応じて支出を抑える分度の考え方を貫いて、浪費を改めるよう家中に徹底させました。
さらに、困ったときに互いにお金を貸し借りして助け合う「五常講」という金融の仕組みを整え、今で言う信用組合のような相互扶助の制度を作り上げたとされています。
こうした成果が評価され、小田原藩主の大久保忠真から、栃木県の桜町領という飛び地の財政再建を正式に任されることになりました。
尊徳は、領主側にも贅沢を慎む分度を求め、年々の収入に合わせて支出を決めるように進言し、領主と農民が共に負担と努力を分かち合う仕組みを作っていきました。
桜町領での成功の後も、尊徳は幕府から召し出されて日光周辺の神領や幕府直轄地の再建に携わり、その手法は弟子たちを通じてさまざまな藩や村にも広められていきました。
このように尊徳は、勤勉と倹約と利他の精神を生かしながら、家計から村、さらには藩や幕府の財政にまで応用できる具体的な仕組みを築き上げた人物だったのです。
二宮尊徳の代表的な改革内容
積小為大の思想とは?小さな努力を積み重ねる重要性
二宮尊徳の教えの中でも特によく紹介される言葉が「積小為大」です。
これは小さなことを積み重ねていくことでやがて大きな成果につながるという意味です。
尊徳は荒れた畑を少しずつ開き直して作物を育てたりわずかな収入からでも貯えを作ったりしながら家を再興しました。
こうした経験から日々の小さな働きや工夫をおろそかにしていては大きな成果は得られないという考えに行き着きました。
農村の指導においても尊徳は一度に劇的な変化を求めるのではなく田畑の手入れや堤防の修理など今できる小さな改善を着実に重ねることを村人たちに求めました。
その結果少しずつ収穫が増え借金の返済が進み村全体の暮らしが楽になっていくという好循環が生まれました。
現代の私たちにとっても「積小為大」は勉強や仕事や貯金などにそのまま当てはまる考え方であり毎日の小さな一歩を大切にすることの重要性を教えてくれます。
分度と推譲|生活基準と他者への貢献の考え方
報徳思想を支えるキーワードとしてよく挙げられるのが「分度」と「推譲」です。
分度とは自分や家や村の力に応じた生活の基準を定めその範囲の中で暮らすという考え方です。
どれだけ収入があっても欲に任せて贅沢をすればやがて家計や村の財政は破綻してしまいます。
そこで尊徳は年々の収穫や収入をよく調べその範囲で守るべき暮らしの線引きを示しました。
一方推譲とは分度を守って生まれた余裕や利益を自分だけで抱え込まず人や社会や将来のために回していく姿勢を指します。
尊徳は村人たちに対して余った分を貯えとして積み立てたり困っている人への貸付に回したり将来の災害に備える fund として蓄えていくことを勧めました。
こうした分度と推譲の考え方は個人の節約術にとどまらず地域全体で支え合いながら豊かさを循環させていく仕組みづくりの根本原理になりました。
仕法改革|自立支援を重視した農村再生モデル
尊徳が各地で行った農村や藩の立て直しは「報徳仕法」と呼ばれます。
報徳仕法とは報徳思想をもとに家や村や藩の財政を再建するための具体的な方法をまとめたものです。
対象の範囲によって一つの家を立て直す家仕法村全体を立て直す村仕法領主の財政を立て直す領仕法に分けられました。
いずれの場合も基本となる考え方は分度によって支出を引き締め推譲によって生まれた余剰を再投資や貯えに回すという点にありました。
尊徳は困っている人や村にただお金や米を与えるのではなく「報徳金」と呼ばれる fund を作り返済計画を立てたうえで必要な資金を貸し出しました。
借りた側は収穫や収入が増えるにつれて少しずつ返済し同時に自分たちの暮らしも立て直していくという仕組みになっていました。
このように報徳仕法は救済というより自立支援に重点を置いた改革であり人々の勤勉さと倹約と助け合いの心を引き出しながら地域を再生させるモデルだったのです。
なぜ二宮尊徳は学校の銅像で有名なのか?
薪を背負いながら本を読む姿の意味
二宮尊徳が学校の銅像として知られているのは薪を背負いながら本を読む少年「二宮金次郎」の姿が強く印象に残るからです。
この姿は幼いころから家計を助けるために薪拾いなどの仕事をしながらも勉強をあきらめず歩いているあいだにも本を開いたという伝記上のエピソードを象徴的に形にしたものです。
戦前の日本では金次郎の生い立ちが教科書や児童向けの読み物で繰り返し紹介され親孝行でよく働きそのうえ熱心に学ぶ少年として全国の子どもたちの手本とされました。
そのイメージをわかりやすく伝えるために明治時代の終わりごろから昭和初期にかけて多くの小学校の校庭や校舎の前に薪を背負って本を読む金次郎像が建てられるようになりました。
銅像のなかには歩きながら本を読んでいるものだけでなく岩に腰掛けて本を読んでいるものなどもありいずれも「仕事と学びの両方を大切にする姿」を子どもたちに示すことを目的としていました。
一方で第二次世界大戦中には金属類回収令によって多くの銅像が供出され戦後には教育方針の変化や老朽化などを理由に姿を消した像も少なくありませんでしたがそれでも各地の学校や駅前などには今もなお金次郎像が残り地域のシンボルとして親しまれています。
勤勉と学びの象徴として伝えられた背景
二宮尊徳の像が学校に数多く置かれた背景には近代日本の学校教育が「勤勉でよく働き学問にも励む国民」を育てることを重要な目標としていた事情があります。
明治から昭和前期にかけての道徳教育では親孝行や勤労や倹約といった徳目が重視され農家の貧しい生まれから努力によって家を立て直し多くの村を救った尊徳の人生はその理想を体現した実例として扱われました。
とくに薪を背負って読書をする金次郎の姿は「仕事をおろそかにせず空いた時間を見つけて勉強もする子ども」という分かりやすいモデルとして受け止められ全国の小学校で勤勉の象徴とみなされました。
昭和初期には各地の自治体や学校や地域の有志の寄付によって金次郎像が次々に建立されある地域の調査では1930年代だけで市内の多くの小学校に像が建てられたことが確認されています。
戦後になると軍国主義と結びついた戦前の道徳教育を見直す流れのなかで金次郎像の一部は撤去されましたがその後も「よく働きよく学ぶ子ども」の象徴として紹介され続けました。
近年では歩きながら本を読む姿が「歩きスマホを連想させる」として話題になることもありますが実際には仕事も勉強もどちらも大切にする姿勢を伝えるものとして改めて意味を説明しながら子どもたちに紹介している学校もあります。
このように二宮尊徳が学校の銅像で有名なのはその生涯の物語が道徳教育と強く結びつき勤勉と学びの象徴として長く受け継がれてきたからだと言えます。
二宮尊徳の生き方から学べること
今の時代にも通じる「自助努力」の精神
二宮尊徳の生き方でいちばん大きな特徴は「自助努力」の姿勢を徹底して貫いたことです。
家が洪水で流され両親を亡くしたという厳しい環境の中でも尊徳は誰かを責めたり運の悪さを嘆いたりするより先に自分にできる工夫と働きを探しました。
荒地を開いて少しずつ作物を育てることやわずかな収入でも貯えをつくることなど日々の小さな努力を重ねることで生活を立て直していきました。
勉強においてもお金や時間がないからとあきらめるのではなく薪を背負って歩く時間にも本を開き自分で菜種を育てて油代を作り出すなど工夫しながら学び続けました。
こうした姿勢は現代の私たちにとっても仕事が忙しいからできないお金がないから挑戦できないとあきらめてしまいがちな場面を見直すヒントになります。
限られた条件の中でも今の自分にできる小さな一歩を見つけ少しずつ積み重ねていくことがやがて大きな成果につながるという「積小為大」の考え方は時代をこえて通用する生き方の指針だと言えます。
また尊徳は勤勉や倹約を自分だけの成功のために使うのではなく最終的には周りの人々や社会に還元することを重視しました。
そのため自助努力は単なる自己責任論ではなく自分を立て直しながら他者や地域を支える力に変えていく前向きな姿勢として受け止めることが大切だと考えられます。
地域再生や教育にも応用できる考え方
二宮尊徳が各地で行った報徳仕法は単にお金のやりくりを教えた制度ではなく地域の人々が自分たちの力を信じて立ち上がるための仕組みづくりでもありました。
村人どうしが協力して荒地を開いたり共同の積立金をつくって困ったときに互いに助け合ったりする仕組みは今日の地域通貨や協同組合やコミュニティバンクなどの考え方にも通じると指摘されています。
現代の地域づくりでも外部からの支援だけに頼るのではなく地域の中に眠っている人や土地や知恵などの資源に目を向け小さな実践を積み重ねることが大事だとされていますがこれは尊徳の「報徳」の考え方とよく重なります。
教育の面でも二宮尊徳の生き方は子どもたちに努力や節度だけを押しつけるものとしてではなく自分の力を信じて工夫しながら道を切り開くロールモデルとして紹介することができます。
たとえば限られた時間の中でも勉強と部活動と家庭の手伝いをどのように両立させるかを考えるときに優先順位を決めてこつこつ続ける姿勢や自分の生活の分をわきまえる分度の考え方は具体的なヒントになります。
さらに尊徳が強調した推譲の精神は学びや経験を自分のためだけにとどめず友だちや後輩や地域の人々に分かち合うことの大切さにつながります。
一人ひとりが自助努力で身につけた力を周囲のためにも生かしていくことでクラスや学校や地域全体の雰囲気が少しずつ前向きに変わっていくという連鎖を生み出すことができます。
このように二宮尊徳の思想は歴史上の人物の教えとして飾っておくものではなく地域づくりや学校教育や家庭教育などさまざまな場面で今も応用できる生きた考え方なのです。
二宮尊徳の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1787年 | 天明7年 | 7月23日、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)の自作農二宮利右衛門の長男として生まれる。幼名は金治郎である。 |
| 1791年 | 寛政3年 | 酒匂川が決壊し、二宮家の所有田地の大半が流出する。この洪水により家産が大きく傾く出来事となる。 |
| 1800年 | 寛政12年 | 父・利右衛門が病死する。家計は一層苦しくなり、金治郎が家業を支える中心となる。 |
| 1802年 | 享和2年 | 母・よしが病死する。一家は離散し、金治郎は伯父・万兵衛の家に預けられて暮らすことになる。 |
| 1803年 | 享和3年 | 捨て苗を集めて田に植え、1俵の収穫を得る経験を通じて「積小為大」の理を悟る。この体験が後の思想の基盤となる。 |
| 1806年 | 文化3年 | 生家近くに小屋を建てて独立し、失われた田地を買い戻しながら二宮家の再興に本格的に着手する。 |
| 1811年頃 | 文化8年頃 | 小田原藩家老・服部家の若党となり、家中の子弟の学問を助けるかたわら家政の様子を学ぶようになる。 |
| 1814年 | 文化11年 | 服部家の使用人たちを中心に「五常講」を試みる。相互扶助的な金融講として後の報徳仕法の原型となる。 |
| 1818年 | 文政元年 | 服部家の家政整理を正式に引き受ける。借財整理と収支の見直しにより家計を再建し、小田原藩主・大久保忠真から善行を表彰される。 |
| 1820年 | 文政3年 | 斗枡を改良して評価を受けるとともに、藩士を対象とした五常講を創設する。勤勉と倹約を支える金融の仕組みを整える。 |
| 1822年 | 文政5年 | 小田原藩主・大久保忠真から下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の復興を命じられる。ここから本格的な農村復興事業が始まる。 |
| 1831年 | 天保2年 | 桜町領第一期仕法が終了し、荒地が減り年貢が倍近くに増加する成果を上げる。大久保忠真から「以徳報徳」の賛辞を受け、報徳という語を自らの思想の中心概念とするようになる。 |
| 1836年 | 天保7年 | 桜町領第二期仕法を終え、烏山藩の救済など他領の復興にも着手する。報徳仕法が関東各地に広まり、事業普及の時期に入る。 |
| 1842年 | 天保13年 | 江戸幕府から御普請役格に登用され、利根川分水路の調査などに携わる。このころ諱を「尊徳」と名乗るようになり、幕臣として各地の復興事業を指導する立場になる。 |
| 1846年 | 弘化3年 | 日光仕法の雛形を完成させ、64巻にまとめて幕府に献上する。同時に小田原藩では仕法の打ち切りが決定され、尊徳にとっての試練の時期となる。 |
| 1853年 | 嘉永6年 | 日光神領の復興を正式に命じられる。尊徳は日光領の荒地開発と村々の再建計画に取り組み、晩年の主要な仕事となる。 |
| 1855年 | 安政2年 | 今市報徳役所(現在の栃木県日光市今市)に移転し、日光領復興の拠点とするが、このころから病状が次第に重くなる。 |
| 1856年 | 安政3年 | 10月20日、今市で死去する。享年70とされる。死後も弟子たちによって報徳社運動が各地に広まり、報徳思想と報徳仕法は明治以降の地域金融や農村振興にも影響を与えることになる。 |
まとめ|二宮尊徳は「努力と改革」の象徴だった
二宮尊徳は幼いころに洪水と両親の死によって極度の貧しさに追い込まれながらも自分にできる工夫と働きを重ねて家を立て直した人物でした。
仕事で忙しい毎日の中でも学ぶことをあきらめず薪を背負って歩く時間さえ読書にあてるほど勉強に励んだ姿は今も多くの人に知られています。
その生き方から生まれた報徳思想は勤勉と倹約と利他を柱とし分度と推譲や積小為大といった考え方を通じて暮らしと経済と道徳を結びつける実践的な哲学としてまとめられました。
尊徳はこの思想を机上の理論ではなく荒れた農村の再建や藩の財政改革など具体的な問題の解決に生かし数多くの村や領地を立ち直らせていきました。
その際にただ金品を与えて救済するのではなく報徳仕法によって自ら働き自ら考え自ら返済していく自立支援の仕組みを整えた点に大きな特徴がありました。
こうした取り組みは今日の協同組合や地域金融や地域再生の考え方にも通じる先駆的な実践として評価され後世の経営者や思想家にも影響を与えています。
学校の校庭に立つ二宮金次郎像は単に昔の偉人をたたえる記念碑ではなく苦しい状況の中でも学びを続け小さな努力を積み重ねて道を切り開いた尊徳の姿を子どもたちに伝える象徴でもあります。
現代を生きる私たちも時間やお金や環境のせいにしてあきらめるのではなく今の自分にできる一歩を見つけて積み重ねその成果を自分だけでなく周りの人や地域に分かち合うという尊徳の姿勢から多くを学ぶことができます。
二宮尊徳は過去の教科書に載っているだけの人物ではなく努力と改革と共生を体現したロールモデルとしてこれからの時代にも生き続ける存在だと言えるのです。
- 報徳博物館「二宮尊徳と報徳」
- 報徳博物館「二宮尊徳 略年表」
- 報徳二宮神社「御祭神二宮尊徳翁」
- 報徳二宮神社「小田原城内 報徳の杜」
- 小田原市「尊徳記念館」
- 小田原市「教養課程『二宮尊徳の教えを継承する』令和7年度カリキュラム」
- 小田原市「おだわら市民学校専門課程『二宮尊徳の教えを継承する』第8回・第9回レポート」
- 神奈川県立図書館「報徳思想関係資料」
- 神奈川県立図書館「神奈川県立図書館の『報徳思想関係資料』」
- 信金中央金庫 地域・中小企業研究所「金融調査情報 28−4 二宮尊徳と報徳思想」
- 余市町公式サイト「余市町でおこったこんな話 その28『豊丘の二宮金次郎』」
- 吉野ヶ里町 広報「ほっこり」2011年3月号「見守り続ける二宮金次郎像」
- 秦野市「シリーズ連載 二宮尊徳と報徳仕法」
- 平塚市博物館「ひらつか歴史紀 第12回 幕末の村おこし ― 岡村の報徳仕法 ―」
- nippon.com「二宮金次郎:よみがえる日本資本主義の『祖父』」
- nippon.com「映画『二宮金次郎』:薪を背負って『歩き読み』した少年はその後…」
- 東洋経済オンライン「像が『55万円で落札』“金次郎”の謎を解いてみた」

