鎌倉時代(1185年〜1333年)は、日本で初めて「武士」が政治の中心となった時代です。
源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武士による新しい政治体制が生まれました。
この時代には、朝廷との対立、元寇(蒙古襲来)、新しい仏教の広まりなど、日本史を語る上で欠かせない出来事が数多くあります。
本記事では、鎌倉時代の始まりから終わり、主な出来事、文化や人物までをわかりやすく解説します。
鎌倉時代とは?いつからいつまで?
鎌倉時代の始まりと終わり(1185年〜1333年)
鎌倉時代は一般に1185年から1333年までとされます。
1185年は源頼朝が守護・地頭の設置を朝廷から認められ、武家政権としての基盤が全国的に整えられた節目と理解されています。
一方で始期については1180年の挙兵や侍所の設置、1183年の東国支配権の公認、1192年の征夷大将軍任官など複数の見解があり、研究上は「諸説あり」とされます。
終期は1333年で、新田義貞らの攻勢により鎌倉が陥落し、鎌倉幕府が滅亡した年です。
鎌倉時代が「日本初の武士の時代」といわれる理由
鎌倉時代は、公家中心だった政治から武士が主導する政治へと大きく転換した最初の時代です。
源頼朝のもとで侍所・問注所・政所といった機関が整備され、各国には守護・地頭が置かれて、武士の軍事力と土地支配を基盤にした新しい統治が機能しました。
この武家政権の確立により、政治の中枢が京都の貴族社会から鎌倉の武士へと移り、以後の日本史における武士政権の出発点となったため、「日本初の武士の時代」と位置づけられます。
鎌倉時代に起きた主な出来事まとめ
源頼朝が鎌倉幕府を開く(1192年)
1185年に源頼朝が平家を滅ぼして武家政権の成立へ向けて大きく動き出したあと、1192年に「征夷大将軍」に任命され、事実上幕府政治のトップとしての地位を確立しました。
頼朝は鎌倉を拠点として、侍所・政所・問注所などの機構を整え、各国に守護・地頭を設置して武家による全国支配の制度を整備しました。
「1192年に幕府を開く」という通説が広く知られていますが、近年では1180年~1185年にかけて徐々に体制が整っていったという見解もあります。
北条氏による執権政治の始まり
頼朝没後、将軍の実権が次第に弱まり、北条氏が幕府実務を担う「執権(しっけん)」の地位を確立していきました。特に、時政・義時ら北条一族が政所別当・侍所別当を兼ねる形で幕府の実権を掌握しました。
この「執権政治」と呼ばれる体制は、将軍を形式的な存在とし、実質的な政治と裁判・国政を北条氏が主導する構図を築いた時代とされます。
北条氏による執権政治は、御家人を統制し合議制度を用いながら幕府の統治を行った点で、それまでの貴族中心・将軍中心の政治とは明確に異なる新しい政治形態でした。
承久の乱(1221年)で朝廷との対立が深まる
1221年、承久の乱が起こりました。
この年、後鳥羽上皇が朝廷の権力回復を図り、幕府に対して起兵しました。
しかし、鎌倉幕府は東国の武士を動員して機動的に京都に進軍し、朝廷側を短期間で制圧する形となりました。
この戦いの結果、朝廷側の中心人物であった後鳥羽上皇や順徳天皇らが流罪となり、幕府は京都に六波羅探題を設置して朝廷の監視を強めるなど、武家政権の地位を一気に高めました。
承久の乱は、武士が朝廷に対して決定的な勝利を収め、以後、政治の実権が武家にあるという時代の流れを明らかにした出来事として、鎌倉時代の転機になりました。
元寇(1274年・1281年)―日本を襲った蒙古軍の襲来
本節はWEB検索に基づいて作成しています。
1274年と1281年の二度にわたり、元朝(蒙古帝国)が日本へ侵攻を試みた事件を、一般に「元寇」または「蒙古襲来」と呼びます。
最初の侵攻である1274年(文永11年)は、蒙古・高麗連合軍が九州北部の対馬・壱岐を襲撃し、博多湾へと上陸を試みました。
二度目の侵攻である1281年(弘安4年)は、さらに大規模な艦隊が編成され、東路軍・江南軍の二手に分かれて直接九州を攻める作戦がとられました。
日本側では、九州に駐留していた武士・御家人を中心に上陸を防ぎ、上陸地点や海上で激しい戦闘が行われました。
また、博多湾沿岸には石塁(防塁)が築かれて、海からの侵攻に備える防備体制が整備されました。
最終的には、日本は二度とも本土完全占領を許さず、元軍は撤退しました。
その背景には天候要因(いわゆる「神風」伝説)や補給・統率の難しさがあったとされています。
この元寇によって、幕府の軍事・防衛への意識が一段と強まり、全国の武士・御家人に対する恩賞・恩給の問題が後の政治的負担となったと指摘されます。
鎌倉幕府の滅亡(1333年)と南北朝時代への移行
1333年、「後醍醐天皇」が倒幕運動を本格化させて挙兵し、そして「新田義貞」ら東国の武士も幕府打倒に参画しました。
同年5月、義貞軍は鎌倉の主要防衛線を突破し、幕府の拠点であった鎌倉に突入しました。
幕府側の主導的立場にあった「北条高時」以下北条氏一族は追い詰められ、多くが自害して幕府は滅亡しました。
この鎌倉幕府の滅亡を受けて、後醍醐天皇は「建武の新政」と呼ばれる天皇親政体制を開始しましたが、その後、武士層の不満や勢力の分裂により再び政権が揺らぎ、「南北朝時代」という天皇が二つに分かれて対立する時代へと移行しました。
鎌倉時代の社会と文化の特徴
武士の価値観「武士道」の始まり
「武士道」という語が確立されたのは後世のことであり、当時の 鎌倉時代 における武士の価値観や倫理観がその原型とされています。
この時代、武士は主君への忠義や名誉、義理・人情といった道徳的規範を重視し、戦場だけでなく日常生活・政務においても「身をもって示す」姿が尊ばれました。
また、鎌倉時代に登場した 道元・法然・親鸞 といった宗教家が、武士や庶民に及ぼした影響も「武士らしい生き方」の基盤を広げる契機となりました。
新しい仏教(浄土宗・禅宗など)の広まり
本節はWEB検索に基づいて作成しています。
鎌倉時代になると、仏教が貴族層だけでなく庶民や武士の間にも広がるようになりました。
特に 浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗 といった宗派が生まれ、例えば念仏を唱えたり座禅を行ったりすることによって救済や悟りを得ようとする教えが広まりました。
このような宗教の変化は、武士の精神的支えとなり、また社会の価値観を変える原動力ともなりました。
庶民文化の発展と『徒然草』『方丈記』などの文学
鎌倉時代には、武士・庶民両方の視点を反映した文化が育まれました。貴族中心の華美な文化から、実用的で質素な武家文化・庶民文化への転換が見られました。
文学では、 方丈記(鴨長明)や 徒然草(吉田兼好)といった随筆が登場し、「無常観」や「人生観」をテーマとした作品が多く残されています。
これらの作品は、戦乱と転換の時代を生き抜く人々の心情を映し出しており、現代にも通じる普遍的なメッセージを持っています。
鎌倉時代の主な人物
源頼朝:鎌倉幕府を開いた武士のリーダー
源頼朝は平治の乱後に伊豆へ配流されました。
1180年に挙兵して鎌倉に本拠を据え、1185年に平氏を滅ぼして守護・地頭の設置を朝廷から認められ、武家政権の基盤を固めました。
1192年に征夷大将軍に任じられて武家政権の最高指導者としての地位を確立し、侍所・政所・問注所などの機構整備を進めました。
北条政子:「尼将軍」と呼ばれた強い女性
北条政子は北条時政の娘で、源頼朝の正室として幕府草創を支えました。
頼朝の死後に出家して尼となり、将軍家を後見して政治の中枢に影響力を持ったことから「尼将軍」と称されました。
1221年の承久の乱では御家人に向けて結束を促し、幕府方の勝利と武家政権の権威強化に重要な役割を果たしました。
北条泰時:御成敗式目を制定し政治を整えた人物
北条泰時は執権として合議に基づく政治運営を進め、幕府機構の整備と裁判の公正化に努めました。
1232年に武家最初の成文法である御成敗式目(貞永式目)全51条を制定し、頼朝以来の慣習や判例を法として体系化しました。
この法典は以後の武家法の基本となり、鎌倉幕府の統治を安定させる基盤となりました。
鎌倉時代の年表
以下に、鎌倉時代(1185年〜1333年)の主な出来事を年表形式で整理します。
| 年(西暦) | 出来事 |
|---|---|
| 1185年 | 源義経が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、武士政権への転換点となる。 |
| 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開く。 |
| 1221年 | 承久の乱が起き、幕府が朝廷に対して優位を確立する。 |
| 1232年 | 御成敗式目が制定され、武家社会の法制度化が進む。 |
| 1274年・1281年 | 元寇(蒙古軍の襲来)が発生し、日本が大きな外圧にさらされる。 |
| 1333年 | 鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代へ移行する。 |
この年表は主なマイルストーンを取り上げており、すべての出来事を網羅するわけではありません。
まとめ:鎌倉時代は日本の「武士の政治」のはじまり
武士が政治の中心となった時代の転換点
鎌倉時代は、日本の歴史の中で初めて武士が政治の中心に立った時代です。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、京都の貴族中心の政治から、武士による地方分権的な政治体制へと変化しました。
また、北条氏による執権政治や御成敗式目の制定、元寇への防衛体制の確立など、政治・軍事・法制度の各面で日本社会の基盤が形成されました。
現代にも続く日本の価値観の原点
鎌倉時代の武士たちは、忠義・名誉・誠実といった精神を重んじました。
これらの価値観は、後の「武士道」として体系化され、日本文化の根幹に深く息づくことになります。
また、方丈記や徒然草などの文学作品に見られる「無常観」や「生のはかなさ」の感覚も、現代日本人の感性に大きな影響を与え続けています。
鎌倉時代は、武士の誕生とともに、日本人の精神文化の礎が築かれた時代だったといえるでしょう。
出典情報:Wikipedia「承久の乱」、コトバンク「日本におけるおもな時代区分」・「御成敗式目」・「承久の乱」・「関東御成敗式目」・国立公文書館「13世紀の日本モンゴル関係(元寇)」

