立花宗茂は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、武勇と人格の両面で「名将」と称えられる人物です。
この記事では、歴史初心者の方にも分かりやすいように、立花宗茂がどのような生涯を送り、どんな場面で活躍し、なぜ多くの人から高く評価されているのかをやさしく解説します。
若くして大名となったことや、関ヶ原の戦いでの選択、そして一度改易されながらも異例の「復帰」を果たした経歴など、押さえておきたいポイントを順を追って紹介していきます。
最後まで読むことで、立花宗茂の人物像や功績が自然と頭に入り、「なぜこの武将が今も語り継がれているのか」がすっきり理解できる内容になっています。
立花宗茂とはどんな人物?
立花宗茂の基本プロフィール
立花宗茂(たちばなむねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、大名です。
永禄12年(1569年)に豊後国国東郡筧、現在の大分県豊後高田市付近に生まれ、寛永19年(1643年)に生涯を閉じました。
父は大友氏家臣の名将・高橋紹運で、のちに筑前国立花城主の戸次(立花)鑑連の婿養子となり、立花家の正式な後継者となりました。
豊臣秀吉の九州平定に従軍したのち筑後国柳川城主となり、やがて陸奥国棚倉藩主を経て、筑後国柳河藩の初代藩主として十万石あまりを治める大名になります。
豊臣秀吉から「西国無双」と称えられたほどの武勇と、家臣や領民から慕われた温厚な人柄を併せ持つ名将として知られています。
どの時代に活躍した武将なのか
立花宗茂が活躍したのは、おおまかに言うと戦国時代末期から安土桃山時代、そして江戸時代初期にかけての時期です。
若いころは大友氏の一門として九州各地の合戦に参加し、島津氏との攻防や豊臣秀吉の九州平定戦で戦功を重ねながら頭角を現しました。
その後は豊臣政権のもとで小田原征伐や文禄・慶長の役といった全国規模の戦いにも出陣し、九州を代表する武将として活躍しました。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍側についたことで一度は所領を失いますが、のちに徳川家に仕えて再び大名として取り立てられ、江戸幕府成立後も重要な武将として位置づけられました。
1630年代には島原の乱の鎮圧軍にも参加するなど、江戸時代初期になっても前線に立ち続けた、長く戦場と政治の両方で活躍した武将です。
立花宗茂は何をした人?生涯の重要ポイント
若くして藩主となり立花家を継承
立花宗茂は大友氏の重臣であった高橋紹運の長男として生まれ、その武勇と将才を期待されて育ちました。
のちに筑前国立花城主であった戸次道雪の娘である立花誾千代と結婚し、婿養子として立花家に迎え入れられます。
道雪の後継者として指名された宗茂は、若くして立花家の家督を継ぎ、一族と家臣団を率いる立場となりました。
豊臣秀吉による九州平定では立花家の当主として出陣し、勇猛な戦いぶりから「西国無双」と称賛されるほどの評価を受けます。
その功績により、宗茂は筑後国柳川に約13万石の所領を与えられ、柳川城を居城とする大名として、九州有数の実力者へと成長していきました。
関ヶ原の戦いでの活躍と敗北
1600年の関ヶ原の戦いでは、立花宗茂は石田三成らが率いる西軍側に与し、豊臣政権への忠義を貫く選択をしました。
宗茂は主に西日本方面で東軍勢力と戦い、機動力と統率力を活かしながら奮戦しましたが、戦局全体としては東軍有利に傾いていきました。
最終的に西軍が敗北すると、宗茂もまた「西軍に味方した大名」として所領を没収され、柳川の地位を失って浪人の身となります。
改易後の宗茂は、旧家臣たちをできる限り支えながら各地を転々とする苦しい時期を過ごしますが、この間も武将としての評価や人望は失われることはありませんでした。
のちに徳川家康から召し出される素地となったのは、このときの態度や、それまでの戦場での実績が高く評価されていたからだと考えられます。
異例の復帰 大名として返り咲いた武将
関ヶ原の戦いののち、立花宗茂はすぐには大名に戻れませんでしたが、徳川家康に仕えてその実力と忠誠心を示し、少しずつ立場を回復していきました。
まず陸奥国棚倉で約1万石を与えられ、大名としての身分に復帰すると、新たな所領で軍事と政治の両面に尽力し、再び信頼を積み重ねていきます。
その後、筑後柳川を治めていた田中家が断絶すると、宗茂は旧領である柳川に再び入ることを許され、約10万石規模で元の地に戻るという異例の復帰を果たしました。
関ヶ原で一度改易された西軍大名の中で、旧領柳川へほぼ同規模の石高で戻ることができたのは宗茂ただ一人であり、この点でも非常に特別な存在といえます。
復帰後の宗茂は、江戸幕府のもとで大名としての役目を果たしつつ、家臣や領民を大切にする政治を行い、生涯を通じて「武勇と人格を兼ね備えた名将」としての評価を固めていきました。
立花宗茂が「名将」と呼ばれる理由
家臣・民から慕われた人格者としての一面
立花宗茂が名将と呼ばれる大きな理由の一つは、家臣や領民から深く信頼された人格にあります。
福岡県柳川市では、宗茂について「義を貫き、家臣や領民にも慕われた」と紹介しており、その生き方そのものが評価されてきました。
ぜいたくを好まず、自分だけが贅沢をすることを戒めて質素な生活を心がけていたことも、人々の尊敬を集めた理由とされています。
また、家臣に対して隠し事をせず、物事の事情をできるだけ説明して信頼関係を築いたと伝えられており、上下の隔たりが少ない「開かれた主君」として語られています。
現代の柳川市では、小学校の総合学習の題材としても宗茂が取り上げられており、子どもたちから「家臣や領民を大切にしたところがすごい」といった感想が寄せられています。
こうしたエピソードから、宗茂は単に戦の名人というだけでなく、人の心をつかむ温かさと、公正さを兼ね備えた人物だったことがうかがえます。
敵からも称賛される戦いぶり
立花宗茂は、その武勇と統率力でも一流とされ、「西国無双」「西国一の弓取り」といった異名を持つほどの武将でした。
史料ではほかにも「九州の逸物」「鬼将軍」「武神」「常勝将軍」といった呼び名が記録されており、それだけ多方面から戦いぶりが注目されていたことが分かります。
宗茂は豊臣秀吉の九州平定、小田原征伐、文禄・慶長の役、大坂の陣など、天下の行方を左右する大きな戦いにたびたび出陣しており、その多くで先鋒や重要な戦線を任されています。
加えて、浪人時代にも武芸や教養にすぐれた人物として知られ、のちに徳川家康や徳川秀忠のもとで重用されたことは、かつての「敵」であった側からもその実力が認められていたことを示しています。
関ヶ原の戦いでは西軍についたため一度は改易となりましたが、その後再び大名として取り立てられた事実そのものが、宗茂の武勇と人物が高く評価されていた証拠といえます。
武勇と忠義が評価される代表的エピソード
具体的なエピソードとしてよく挙げられるのが、豊臣秀吉による九州平定戦での働きです。
宗茂は立花山城周辺の防衛や島津軍との戦いで活躍し、その勇猛さから秀吉や周囲の武将たちに「西国無双」と称えられたと伝えられています。
また、関ヶ原の戦いで宗茂は形勢が読みにくい中でもあえて西軍側につき、旧来の恩義や自らの信念を優先する決断をしました。
この選択は結果として改易につながりましたが、「損得ではなく義を重んじた武将」という評価を強く残すことになります。
改易後の宗茂は浪人として各地を転々としながらも、旧臣をできるかぎり見捨てずに支え続けたとされ、この点も家臣から深く慕われた理由とされています。
やがて徳川家に召し出された宗茂は、陸奥棚倉での大名復帰を経て、最終的には旧領である筑後柳川に再び入ることを許されます。
柳川市の資料では、全国およそ三百藩の中で「元の領地に再封された唯一の大名」として宗茂を紹介しており、武勇だけでなく義理堅さと人格が、時代の支配者からも特別視されていたことがうかがえます。
さらに、宗茂はその後の大坂の陣や島原の乱でも出陣し、高齢になってからも前線で活躍したと伝えられており、一生を通じて「戦う名将」としての姿勢を貫いた武将でした。
立花宗茂の年表
| 西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1567年 | 永禄10年 | 豊後国国東郡に高橋鎮種(紹運)の長男として生まれる。 |
| 1585年 | 天正13年 | 義父立花道雪が病没し、戸次統虎が立花宗茂と改名して立花家の家督を継ぐ。 |
| 1587年 | 天正15年 | 豊臣秀吉の九州平定で戦功を挙げ、筑後国下筑後四郡を与えられて柳川城に入城する。 |
| 1590年 | 天正18年 | 小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉から「東の本多、 西の立花」と称賛される。 |
| 1592年 | 文禄元年 | 文禄の役に出陣し、朝鮮での諸戦(碧蹄館の戦いなど)で武功を立てる。 |
| 1600年 | 慶長5年 | 関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後の柳川城開城により改易され浪人となる。 |
| 1604年 | 慶長9年 | 本多忠勝の推挙で江戸城に召し出され、徳川家康の御書院番頭として5000石を与えられる。 |
| 1606年 | 慶長11年 | 陸奥国棚倉(南郷)で1万石を与えられ、大名として正式に復帰する。 |
| 1610年 | 慶長15年 | 陸奥赤館・上総山辺郡への加増により合計3万石となり、このころから名乗りを宗茂と改める。 |
| 1614年 | 慶長19年 | 大坂冬の陣および翌年の夏の陣に徳川方として参陣し、軍師的立場で作戦立案に関与する。 |
| 1620年 | 元和6年 | 田中家断絶にともない、旧領の筑後国柳川10万9200石に再封され、改易後に元の領地へ復帰した唯一の大名となる。 |
| 1638年 | 寛永15年 | 島原の乱に参陣し、総大将松平信綱を補佐して兵糧攻めなど戦略面で活躍する。 |
| 1642年 | 寛永19年 | 江戸柳原の藩邸で死去する。享年76。 |
初心者でもわかる!立花宗茂の功績まとめ
戦国時代でも珍しい“徳川に許された武将”
立花宗茂は、関ヶ原の戦いで西軍についたために一度は所領をすべて失い、大名の地位からも外されました。
豊臣方として戦った大名の多くは改易されたまま戻れず、一部が後に小さな石高で別の土地の大名に復帰した程度でした。
しかし宗茂は、その後徳川家に召し出されて陸奥国棚倉で1万石を与えられ、再び大名として立ち上がる機会を得ました。
棚倉での働きや大坂の陣での戦功が評価され、加増を受けてから、最終的にはかつての本拠地であった筑後国柳川に約10万9000石で戻ることを許されます。
柳川市の資料では、関ヶ原の戦い後に改易されながら旧領柳川へ復帰した唯一の大名として宗茂が紹介されており、「徳川に完全に許された武将」として特別視されています。
一度敵対した側からここまで信頼を回復し、元の地をほぼ同じ規模で与えられることは、戦国から江戸初期の大名の中でも極めて珍しいケースでした。
この異例の復帰は、宗茂の武勇だけでなく、人柄や統率力が徳川政権からも高く評価されていたことを示す象徴的な出来事といえます。
現代に語り継がれる立花家の名声
宗茂が復帰してからの柳川藩立花家は、そのまま明治時代の廃藩置県まで代々続き、地域を治める大名家として歴史に名を残しました。
その後も立花家は柳川の地と深く結びつき、現在でも「旧柳川藩主立花邸 御花」や「立花氏庭園」といった史跡を通じて、その存在が身近に感じられるようになっています。
柳川市にある名勝「立花氏庭園」は、旧柳川藩主立花家の屋敷と庭園を中心とした一帯で、国指定名勝として大名文化と立花家の歴史を今に伝えています。
同じ敷地内にある立花家史料館では、初代藩主である立花宗茂の甲冑や武具、書画、茶道具などが展示され、宗茂の生き方や立花家の文化に直接触れることができます。
柳川市は観光案内や広報誌の中で、宗茂を「義を貫いた武将」「旧領柳川に戻った唯一の大名」として紹介しており、現代でもまちの象徴的な人物として位置付けています。
また、NHKの教養番組などでも「ゼロからの復活術」や「理想の武将」といった切り口で宗茂が取り上げられており、その人生が現代人にとっての学びの題材として注目されています。
こうした史跡やメディアでの紹介を通じて、立花宗茂と立花家の名声は、単なる歴史上の武将にとどまらず、「逆境からの再起」や「義を重んじる生き方」の象徴として語り継がれています。
柳川を訪れる人にとっても、川下りや町歩きとあわせて立花家ゆかりの場所を巡ることで、宗茂の物語をより身近に感じられるようになっています。
立花宗茂に関するよくある質問(FAQ)
立花宗茂と立花誾千代の関係は?
立花宗茂と立花誾千代の関係は、簡単に言うと「夫婦であり、ともに立花家を支えた主君同士」です。
誾千代は立花道雪の娘として生まれ、男子がいなかったため一時は自らが立花城の城主として家を継いでいました。
その後、道雪は大友家の重臣であった高橋紹運の長男である宗茂を養子に迎え、誾千代と結婚させて婿養子としました。
このとき宗茂は誾千代の夫であると同時に、立花家の正式な後継者となり、夫妻はともに立花家とその家臣団を率いる立場になりました。
のちに二人は柳川藩立花家の始祖として敬われ、柳川城の鬼門に鎮座する三柱神社では、道雪とともに祭神として祀られています。
現在の柳川市でも、宗茂と誾千代は「義に生きた武将夫妻」として紹介されており、夫婦で一つの物語として語られることが多くなっています。
なぜ立花宗茂は復権できたの?
立花宗茂が復権できた背景には、戦国から江戸初期にかけて培った抜群の武勇と、人柄に対する評価の高さがあります。
関ヶ原の戦いでは西軍に属したため所領を没収されましたが、それ以前から宗茂は九州平定や朝鮮出兵などで「西国無双」と称されるほどの戦功を挙げていました。
朝鮮での碧蹄館の戦いなどでの活躍は、豊臣秀吉だけでなく諸大名からもたびたび賞賛されており、その実力は広く知られていました。
改易後も宗茂は武芸と教養に優れた武将として注目され、やがて徳川家康に召し出されて江戸幕府の家臣団に組み込まれます。
その後、第二代将軍徳川秀忠から陸奥国棚倉において1万石を与えられ、大名としての身分に復帰しました。
さらに大坂の陣などでの働きが重ねて評価され、1620年には旧領である筑後国柳川にほぼ戦前と同規模の石高で再び封じられるという、きわめて異例の旧領復帰を果たします。
関ヶ原後に大名へ復帰した西軍武将は他にもいますが、旧領柳川を回復したのは宗茂だけとされており、それだけ徳川政権からの信頼が厚かったことがうかがえます。
こうした経緯から、宗茂の復権は「実力と人格が時代を超えて認められた結果」として語られることが多いです。
どんな逸話が有名?
立花宗茂には、多くのエピソードが伝わっており、その多くが「勇気」「義理」「家臣や領民への思いやり」を物語る内容になっています。
子どものころ、見世物の場で人が斬られる騒ぎが起きて観客が一斉に逃げ出したときも、宗茂だけは落ち着いて「今日の見世物はこれで終わりなのか」と付き添いに尋ねたという話があります。
また、立花家に婿入りする際には、実父の高橋紹運から「もし高橋と立花が戦になったらどうするか」と問われ、「そのときは立花の先鋒として父である自分を討ち取れ」と諭され、その剣を終生大切にしたという逸話も有名です。
肥後の一揆鎮圧で功を挙げた際には、豊臣秀吉から加増を申し出られても、「戦うのに足りるだけの領地はすでにいただいているので、褒美よりも先鋒として働く機会をいただきたい」と辞退したと伝えられています。
文禄の役の碧蹄館の戦いでは、敵の大軍を前にしても悠然と握り飯を食べ、家臣が心配すると「かつて上杉謙信も同じように振る舞った」と語ったというエピソードも知られています。
さらに、関ヶ原後の柳川城攻防戦では、降伏開城を知った領民たちが「殿様のためなら命も惜しまない」と抵抗を訴えたのに対し、宗茂は「皆をこれ以上戦乱に巻き込みたくない」と説得し、住民を守る選択をしました。
こうした逸話の数々は、浅川家による「浅川聞書」や、幕末から明治にかけて編まれた『名将言行録』などに収録されており、宗茂が「武勇だけでなく人間としても優れていた武将」として語り継がれている理由になっています。

