皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、日本で最初に即位した女性天皇として知られ、飛鳥時代の政変と改革のただ中を生きた人物です。
本記事では、在位の背景や「乙巳の変」、大化の改新につながる流れ、そして退位後に斉明天皇として重ねて即位した理由までを、家系や主要人物との関係とともにやさしく解説します。
学校の学習や受験対策はもちろん、古代史の基礎を押さえたい方にも理解しやすいよう、重要ポイントを物語の順序で整理します。
皇極天皇とはどんな人物?
日本で最初の女性天皇として即位
皇極天皇(こうぎょくてんのう)は飛鳥時代の第35代天皇で、舒明天皇の皇后・宝皇女として知られます。
一般に「日本初の女性天皇」と誤解されがちですが、日本で最初の女性天皇は推古天皇であり、皇極天皇はそれに続く女帝でした。
皇極天皇は645年の乙巳の変を受けて譲位し、そののち655年に重祚して第37代・斉明天皇として再び即位したことで特に知られます。
これは女性天皇として重祚した顕著な事例であり、彼女の治世は飛鳥時代の政治変動と深く結びついています。
皇極天皇の時代背景と在位期間
皇極天皇の在位は最初が642年から645年までで、乙巳の変直後に孝徳天皇へ譲位しました。
のちに655年から661年まで斉明天皇として再び国政の中心に立ち、東アジア情勢が緊迫する中で改新政治の後押しや対外政策に関与しました。
飛鳥の宮廷を舞台に、蘇我氏の衰退と中大兄皇子らの台頭という大変革期に位置づけられます。
| 身位 | 期間 | 主な出来事・背景 |
|---|---|---|
| 第35代・皇極天皇 | 642年2月19日〜645年7月12日 | 蘇我氏が強勢の中で即位。645年、宮中で乙巳の変が発生し、その翌日に孝徳天皇へ譲位。 |
| 第37代・斉明天皇(重祚) | 655年2月14日〜661年8月24日 | 改新政治の継続と対外情勢への対応が課題となる時期。斉明朝は飛鳥の政局と東アジア情勢が交錯。 |
上記の日付と在位区分は、皇極・斉明が同一人物であることと合わせて、飛鳥時代の時間軸を理解するうえで重要です。
家系図で見る皇極天皇の位置づけ
皇極天皇は敏達天皇の孫にあたる茅渟王を父、吉備姫王を母にもつ皇女で、舒明天皇の皇后となりました。
子には中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)、間人皇女が知られ、彼女の系統はその後の皇位継承の中核を担いました。
彼女の位置づけを把握するため、直系の関係を一覧で確認します。
| 続柄 | 氏名・称号 | 補足 |
|---|---|---|
| 父 | 茅渟王(ちぬのおおきみ) | 敏達天皇の孫系に位置する王族。 |
| 母 | 吉備姫王(きびひめのおおきみ) | 皇族内部の姻戚関係を結ぶ王女。 |
| 配偶 | 舒明天皇(田村皇子) | 630年に皇后となり、舒明崩御後に即位。 |
| 子 | 中大兄皇子(天智天皇) | 乙巳の変の中心人物で、668年に即位。 |
| 子 | 大海人皇子(天武天皇) | 壬申の乱を経て673年に即位。 |
| 子 | 間人皇女 | 孝徳天皇の皇后。 |
皇極天皇は何をした人?主な出来事と功績
蘇我入鹿の暗殺「乙巳の変」が起きた時代
645年(皇極天皇4年)の6月12日〜13日にかけて、宮中で起きた乙巳の変では、蘇我入鹿が暗殺され、父の蘇我蝦夷が自害して、蘇我氏宗家が滅亡しました。
この政変を契機に、皇極天皇は皇位を譲るという判断を下し、新たな政治風土が始まります。
宮中においては、蘇我氏が長年にわたり強い権力を握っており、皇極天皇の在位中もその影響は無視できないものでした。
こうした状況の中、蘇我氏の衰退とともに、皇位・政権をめぐる転換点が訪れたのがこの事件です。
大化の改新へのきっかけを作った出来事
乙巳の変を受けて、続く改革群として大化の改新が始まりました。
大化の改新は645年6月12日を起点として、中央集権化と天皇中心の国家体制を目指す政治改革とされています。
皇極天皇の在位および譲位がこの流れの中で位置づけられており、彼女の時代が「改革への橋渡し」として機能したと言えます。
改革の中では、年号「大化」の制定や都の遷都などもあったとされ、政治構造の転換が試みられました。
ただし、学界ではこの改革の実効性や即時性について議論もあり、「大化の改新」という枠組みそのものに対して再検討の動きもあります。
皇極天皇から斉明天皇へ 再び即位した理由
皇極天皇は645年に皇位を弟宮の軽皇子(のちの孝徳天皇)に譲り退位しましたが、655年に再び即位し、第37代天皇として斉明天皇の称号を得て在位しました。
この重祚(再即位)は、飛鳥時代の政局や朝鮮半島・東アジア情勢の中で、皇室・政権の安定を図るために行われたとみられています。
重祚後の斉明天皇時代には、皇極天皇自身が九州へ赴いたという記録もあり、対外的な活動も無関係ではなかったことが奈良県観光サイトでも紹介されています。
皇極天皇の人物像とエピソード
政治への関わり方と女性としての立場
皇極天皇は、女性という立場ながら当時の朝廷政治の重大な転換期に立っていました。
天皇として即位した後も、王族・豪族が混在する宮廷の力関係の中で、象徴的な存在として一定の役割を果たしていたと考えられます。
一方で、実務的な政治運営の主導権は、彼女の子である 中大兄皇子(のちの天智天皇)や、改革派の豪族たちに移っていったとする見方もあります。
女性天皇として、また上皇になってからも宮廷を離れなかったその存在感は、当時の天皇制と政治構造を考えるうえで非常に興味深いものです。
中大兄皇子(のちの天智天皇)との関係
皇極天皇は中大兄皇子の実母ではありませんが、彼を皇太子に据え、側近として登用された関係から、親子あるいは師弟のような側面を持っていたと考えられています。
中大兄皇子は、645年の乙巳の変で政変を主導し、蘇我氏の専横を打ち破った中心人物です。
皇極天皇はこの政変の際、象徴的に譲位という形を取って政治の流れを受け入れたとも言われています。
政権を実務的に引き継いだ中大兄皇子の動きと皇極天皇の諦めとも期待ともつかない態度は、時代の変革期における権力移行の難しさを示しています。
日本史の中での評価とその後の影響
皇極天皇の治世および斉明天皇としての再即位は、ただ単に“女性が天皇になる”という枠を超えて、飛鳥時代の国家体制変革における「橋渡し」の役割を果たしたと評価されています。
彼女の時代は、大化の改新につながる改革が具体化する直前の空気が満ちており、その変革を推し進めた中大兄皇子をはじめとする改革勢力にとって、「安定した皇室の象徴」として重要でした。
女性天皇という特異な立場を持ちつつ、時代の波を受け止めて役割を果たした点で、後世の天皇制度や女性皇族の位置づけにも少なからず影響を及ぼしています。
まとめ:皇極天皇は「時代を動かした女性天皇」
大化の改新につながる重要な時代を生きた人物
皇極天皇は、蘇我氏の支配から新しい中央集権国家への転換期に即位し、日本史の大きな転換点に立ち会った天皇です。
乙巳の変という政変をきっかけに譲位したものの、その後再び斉明天皇として即位し、改革の継続と政権の安定を支えました。
彼女の治世は、まさに「古代国家の夜明け」を告げる時代であり、女性としての立場を超えた政治的存在感を示しています。
日本史を学ぶ上で知っておきたい理由
皇極天皇を知ることは、大化の改新の理解を深める上で欠かせません。
彼女の即位と譲位は、単なる王位継承ではなく、権力のあり方そのものを変える契機となりました。
また、重祚(じゅうそ:再び天皇に即位すること)という稀な事例を通じて、日本の皇位継承制度の柔軟さや、女性天皇の歴史的役割にも触れることができます。
皇極天皇は、歴史を静かに動かした存在として、日本史を学ぶうえで必ず知っておくべき人物です。
皇極天皇の年表
| 年 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 594年頃 | 宝皇女(たからのひめみこ)として誕生 | 父は茅渟王、母は吉備姫王。 |
| 630年頃 | 舒明天皇の皇后となる | 後の中大兄皇子・大海人皇子の母となる。 |
| 642年 | 第35代天皇として即位(皇極天皇) | 女性として推古天皇に次ぐ二人目の天皇。 |
| 645年 | 乙巳の変が発生、孝徳天皇へ譲位 | 蘇我入鹿暗殺事件を受けて退位。 |
| 655年 | 再び即位(斉明天皇) | 女性として初の重祚。 |
| 661年 | 崩御(享年約67歳) | 九州で崩御と伝えられる。 |
皇極天皇の人生は、女性として、そして天皇としての新しい道を切り開いた歴史の証です。
彼女の治世を通して、古代日本の政治改革や王権の変化を理解することができるでしょう。
現代の私たちにとっても、「変革の時代にどう生きるか」を考えるヒントを与えてくれます。

