志賀潔とは何をした人?簡単にわかる功績と人物像をやさしく解説

志賀潔とは何をした人?簡単にわかる功績と人物像をやさしく解説 日本の歴史

志賀潔は、明治から昭和にかけて活躍した日本の細菌学者で、赤痢菌(志賀菌)を発見したことで知られています。

当時、赤痢は多くの人の命を奪う恐ろしい伝染病であり、その原因となる菌を突き止めたことは医学史に残る大きな成果でした。

志賀は伝染病研究所で北里柴三郎に師事し、感染症の原因解明や治療法、予防法の発展、公衆衛生の向上に大きく貢献しました。

この記事では、志賀潔がどのような人物だったのか、その基本的なプロフィールや活躍した時代背景をわかりやすく整理して解説します。

また、赤痢菌発見を中心とした代表的な功績が日本や世界にもたらした影響、さらに研究者としての姿勢やエピソードまで、初めて学ぶ方にも理解しやすいように紹介していきます。

志賀潔とはどんな人物か?

志賀潔の基本プロフィール

志賀潔は1871年に現在の宮城県仙台市で生まれた日本の医学者であり、細菌学者です。

仙台藩士の家に生まれたのち母方の志賀家の養子となり、のちに東京の帝国大学医科大学に進学して本格的に医学を学びました。

大学卒業後は東京の伝染病研究所に入り、北里柴三郎のもとで細菌学の研究を行いました。

1897年には赤痢の原因となる細菌を突き止め、のちに自らの名を冠して志賀赤痢菌と呼ばれる赤痢菌を発見しました。

その後はドイツに留学して化学療法の研究にも取り組み、帰国後は伝染病研究所や北里研究所、慶應義塾大学などで研究と教育の両面で活躍しました。

また朝鮮総督府医院長や京城帝国大学総長などの要職も務め、日本や当時の東アジアにおける医学教育と感染症対策に関わりました。

晩年は文化勲章の受章など高い評価を受けつつも、宮城県内で質素な生活を送り、1957年に85歳で亡くなりました。

活躍した時代背景と研究環境

志賀潔が活躍した明治から昭和初期にかけての日本は、近代国家をめざして急速に西洋の科学や医学を取り入れていた時代です。

一方でコレラや赤痢、ペストなどの感染症が繰り返し流行し、多くの人々が命を落としていたため、伝染病対策は国にとって大きな課題でした。

こうした状況のなかで、政府や民間の支援によって伝染病研究所が設立され、北里柴三郎を中心に最新の細菌学を取り入れた研究体制が整えられていきました。

志賀潔はその最前線で、患者から採取した検体を用いて原因菌を突き止める研究に取り組み、限られた設備や試薬の中で試行錯誤を重ねました。

さらにドイツに留学してパウル・エールリヒのもとで学んだことで、当時世界最先端であった化学療法や免疫学の考え方を日本に持ち帰ることができました。

帰国後は、研究成果を生かして血清療法やワクチンなどの開発にも関わり、感染症の治療と予防、公衆衛生の発展に結びつく研究環境づくりに貢献しました。

志賀潔は何をした人?代表的な功績を簡単に解説

赤痢菌(志賀菌)の発見

志賀潔が最もよく知られている功績は、赤痢の原因となる細菌「赤痢菌(志賀菌)」を発見したことです。

当時の日本では赤痢がたびたび流行し、多くの人が激しい下痢や血便に苦しみ、命を落とすことも少なくありませんでした。

志賀は伝染病研究所で患者の便などの検体を一つ一つ調べ、赤痢患者から共通して見つかる細長い細菌を分離することに成功しました。

そして1897年ごろに、この細菌こそが細菌性赤痢の原因であると突き止め、「細菌学雑誌」に研究結果を発表しました。

この病原体はのちに志賀の名を取って志賀赤痢菌と呼ばれ、学名でも属名がShigellaと名付けられました。

志賀赤痢菌は体内で強い毒素を作り、激しい症状を引き起こすことがわかっており、現在ではこの毒素は腸管出血性大腸菌O157が作るベロ毒素と同じタイプの毒素として理解されています。

原因菌がはっきりしたことで、赤痢は他の下痢症と区別して診断できるようになり、治療法や予防法の研究が具体的に進められるようになりました。

感染症研究への貢献

志賀潔は赤痢菌の発見だけでなく、その後もさまざまな感染症や治療法の研究に取り組みました。

1901年にはドイツのフランクフルトに留学し、化学療法の研究で知られるパウル・エールリヒのもとで研究を行いました。

そこで志賀はベンチジン系の赤い色素に寄生虫を退治する効果があることを見いだし、この薬剤をトリパンロートと名付けました。

トリパンロートは、病原体だけを狙い撃ちする「化学療法剤」の初期の例とされ、のちの抗菌薬研究の流れにもつながる成果と評価されています。

帰国後の志賀は、赤痢のワクチン開発に取り組み、結核やらい(ハンセン病)など慢性的な感染症の研究にも力を注ぎました。

さらに1920年代には国際会議に出席するためヨーロッパを訪れ、結核ワクチンBCGの株を日本に持ち帰る役割も担いました。

このBCG株は「Tokyo 172株」として日本の結核予防に用いられ、世界保健機関(WHO)の国際参照品にも採用されるなど、後のワクチン普及にも大きな影響を与えました。

このように志賀は、病原体の発見から治療薬やワクチンの研究まで幅広く取り組み、感染症克服に向けた近代医学の基盤づくりに貢献しました。

日本の細菌学発展における役割

志賀潔は、日本の近代細菌学の第一世代を代表する研究者の一人として重要な役割を果たしました。

若い頃に入所した伝染病研究所では、所長の北里柴三郎に師事し、同じ時代の仲間たちとともに日本の細菌学研究を支える中心的な存在となりました。

北里の門下生は、日本における近代医学の礎を築いた高弟として知られており、志賀もその一人として人材育成や研究体制の発展に関わりました。

志賀はその後、北里研究所や慶應義塾大学医学部、さらに当時の朝鮮に設立された京城帝国大学などで教壇に立ち、多くの医師や研究者に細菌学や免疫学を教えました。

赤痢菌の学名に自らの名が残るという成果は、日本人研究者の業績が世界の医学界に認められた象徴的な出来事でもありました。

こうした業績により、志賀は研究者としてだけでなく教育者としても評価され、日本の感染症研究や公衆衛生の分野で長く語り継がれる存在となりました。

志賀潔の功績が日本と世界にもたらした影響

赤痢治療・予防の進歩

志賀潔が1897年に赤痢菌を発見したことで、赤痢が特定の細菌によって起こる病気であると科学的に証明され、診断や治療、予防の方針が大きく変わりました。

それまで原因がはっきりしなかった赤痢は、赤痢菌という病原体が特定されたことで、患者の便から菌を検出する検査や、他の下痢症との区別に基づいた診断が可能になりました。

菌の実体がわかったことで、汚染された水や食べ物を介して感染が広がることが確認され、飲料水の衛生管理や下水道の整備、食品衛生の向上など、具体的な予防対策が進められました。

日本では、戦後まもない1950年代前半には人口10万対100前後という高い罹患率で赤痢が発生していましたが、衛生状態の改善や抗生物質による治療の普及、公衆衛生行政の整備などにより、その後発生数は大きく減少しました。

現在も世界的には赤痢が問題となっている地域がありますが、志賀による赤痢菌の発見は、細菌性赤痢を科学的に理解し、国や地域ごとの対策を組み立てるための基盤となり、日本だけでなく世界の感染症対策に長く生かされています。

公衆衛生分野への貢献

志賀潔は、赤痢菌の発見という研究成果にとどまらず、感染症から人々を守るための公衆衛生の仕組みづくりにも影響を与えました。

伝染病研究所での研究を通じて、病原体を特定し、その感染経路を明らかにする細菌学的なアプローチを日本に根付かせたことは、その後の法定伝染病対策や検査体制の整備に大きく貢献しました。

1920年代には国際会議などを通じて世界の研究者と交流し、そのなかで結核予防ワクチンであるBCGを日本に導入する役割も担いました。

1924年に志賀がBCGワクチンを日本に持ち帰ったことは、その後の国の結核対策の出発点となり、戦後に整備された結核予防法やBCG定期接種制度へとつながっていきました。

日本で改良されたBCG Tokyo172株や凍結乾燥BCGワクチンは、ワクチンの品質や保存性を高めたとされ、国内の結核予防だけでなく、海外にも供給されるなど国際的な公衆衛生にも貢献しています。

また、志賀は研究機関や大学で後進の育成にも力を入れ、細菌学や免疫学を学んだ多くの医師や研究者が、日本各地で感染症対策や衛生行政に携わることで、公衆衛生の水準向上に長期的な影響を与えました。

志賀潔の人物像とエピソード

研究者としての姿勢・信念

志賀潔は、若いころから「研究することが面白くてたまらない」と感じるほど探究心の強い研究者でした。

赤痢菌の研究に取り組んだときには、下宿を引き払って研究室の片隅に寝床を作り、ほとんど泊まり込みのような生活を続けながら検体の培養や顕微鏡観察を続けたと伝えられています。

赤痢流行時に患者から集まる検体を一つ一つ培養し、染色し、顕微鏡で確認するという地道な作業を自らこなしていった姿からは、派手さよりも粘り強さと実証を重んじる研究姿勢がうかがえます。

ドイツ留学の際には、パウル・エールリヒのもとで膨大な数の化合物を試し続け、病原体だけを狙って働く薬を見つける化学療法の研究に身を置きました。

エールリヒとの共著でトリパンロートを報告したときも、自分の功績を誇るのではなく、「短期間の助手にすぎない自分にも心を配ってくれた」と恩師への感謝と畏敬を回想しており、謙虚な姿勢を貫いたことがわかります。

また、自身の研究生活を振り返る中で、恩師や同僚に恵まれ、テーマにも恵まれた「幸運な研究人生だった」と何度も述べており、成功を運や周囲の支えと結びつけて考える慎み深さも志賀の大きな特徴でした。

私生活では、文化勲章を受章するなど多くの名誉を得ながらも、晩年は宮城県の海辺の別荘で質素な生活を送り、学者らしい清貧の暮らしを続けたと記録されています。

周囲からの評価と後世への影響

志賀潔は、赤痢菌の発見と化学療法の研究によって、明治期の日本において世界に通用する科学研究の成果を上げた先駆的な研究者として高く評価されています。

赤痢菌の学名であるShigellaに自身の名が刻まれていることは、日本人の名前が主要な病原細菌の属名として採用されたまれな例であり、日本の細菌学が国際的に認められた象徴と見なされています。

北里柴三郎の門下生の中でも、志賀は野口英世らと並んで高弟の一人とされており、その後は慶應義塾大学医学部教授や京城帝国大学総長、北里研究所顧問などを務め、研究と教育の両面で日本の医学界を支えました。

1944年には文化勲章を受章し、感染症研究や医学教育への長年の貢献が国家的にも顕彰されました。

一方で、らい(ハンセン病)についての講演で、患者に対する去勢を公然と主張したことは、その後批判の対象となり、当時の差別的な医療観や隔離政策と結びついた問題として今日では反省的に語られています。

それでも、志賀が残した赤痢菌の発見や化学療法・ワクチン研究の成果は、現在の感染症治療や公衆衛生の基盤の一部となっており、教科書や医学史の中で今も重要な人物として紹介されています。

現代の医師や研究者のあいだでも、志賀は「赤痢菌の発見者」「化学療法の先駆者」としてしばしば言及され、新紙幣の肖像候補として名前が挙がるなど、日本医学史を代表する研究者の一人として記憶され続けています。

志賀潔の年表

西暦和暦主な出来事
1871年明治3年陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)に仙台藩士の子として生まれる。
1878年明治11年母の実家である志賀家の養子となり、姓を志賀、名を潔と改める。
1892年明治25年 第一高等中学校を経て、帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学する。
1896年明治29年帝国大学医科大学を卒業し、大日本私立衛生会伝染病研究所に入所して北里柴三郎に師事する。
1897年明治30年赤痢患者から病原体を分離して赤痢菌を発見し、「細菌学雑誌」に研究成果を発表する。
1898年明治31年赤痢菌に関する要約論文をドイツ語で発表し、赤痢菌の属名が志賀にちなむ「Shigella」とされる。
1899年明治32年内務省技師および伝染病研究所第一部長となる。
1901年明治34年ドイツ・フランクフルトに留学し、パウル・エールリヒのもとで化学療法の研究を行い、殺虫剤トリパンロートを見いだして命名する。
1905年明治38年帰国して医学博士の学位を取得し、脚気の原因を細菌とみなす説に対する追実験を行い、脚気細菌起源説を否定する。
1912年明治45年再びドイツに渡り、エールリヒのもとで化学療法の研究を続ける。
1914年大正3年北里柴三郎らとともに伝染病研究所を退職する。
1915年大正4年新たに創設された北里研究所に入所し、日本の細菌学研究と教育に携わる。
1920年大正9年慶應義塾大学医学部教授となるが、同年秋に朝鮮総督府医院長および京城医学専門学校長に転じ、朝鮮で医学教育と医療行政に関わる。
1924年大正13年国際赤痢血清委員会に出席するためヨーロッパに渡航し、カルメットからBCGワクチン株Tokyo172を分与され、日本に持ち帰る。
1926年大正15年新設の京城帝国大学医学部長に就任する。
1929年昭和4年京城帝国大学総長に就任し、植民地期朝鮮における高等医学教育の運営にあたる。
1931年昭和6年京城帝国大学を辞任して内地に戻り、北里研究所顧問となる。
1936年昭和11年錦鶏間祗候に任ぜられる。
1944年昭和19年文化勲章を授与されるとともに、仙台市名誉市民となる。
1948年昭和23年日本学士院会員となる。
1949年昭和24年宮城県亘理郡坂元村磯浜(現在の宮城県山元町)の別荘・貴洋翠荘に居を移し、そこで晩年を過ごす。
1957年昭和32年宮城県亘理郡山元町磯浜の別荘で老衰のため死去する。享年85。

まとめ|志賀潔は「赤痢菌発見」で医学に大きく貢献した人物

志賀潔は、1897年に赤痢菌(志賀菌)を発見したことで、日本だけでなく世界の感染症研究に大きな足跡を残した細菌学者です。

当時猛威をふるっていた赤痢の原因菌を突き止めたことで、診断法や予防対策の方向性が明確になり、公衆衛生の向上や患者の救命に直接つながる成果を生み出しました。

さらにドイツ留学で化学療法の研究に取り組み、トリパンロートのような薬剤開発に関わったことや、BCGワクチンを日本に導入する役割を担ったことにより、結核をはじめとする感染症対策の発展にも貢献しました。

また、伝染病研究所や北里研究所、慶應義塾大学医学部、京城帝国大学などで多くの医師や研究者を育て、日本の細菌学と医学教育の土台づくりに力を尽くしました。

一方で、当時の社会状況や医学観を背景に、ハンセン病患者への強い隔離や去勢を支持する発言を行ったこともあり、その点については今日では批判的に検証されています。

それでも、赤痢菌の発見をはじめとする業績は、感染症の原因究明から治療、予防、公衆衛生の仕組みづくりに至るまで幅広く影響を与え、現代医学にもつながる重要な一歩となりました。

志賀潔は「赤痢菌を発見した人」として教科書に登場するだけでなく、困難な時代に感染症と向き合い続けた研究者として、今もなお医学史の中で大きな存在感を放ち続けている人物です。

タイトルとURLをコピーしました