大隈重信は何をした人?簡単にわかる功績とエピソードを解説【初心者向け】

大隈重信は何をした人?簡単にわかる功績とエピソードを解説【初心者向け】 日本の歴史

大隈重信は明治時代に活躍した政治家であり、近代日本の国家づくりと教育の発展に大きな足跡を残した人物です。

明治政府では外交や財政改革を担当し、通貨「円」の導入や鉄道・郵便などの基盤整備を進めることで、新しい日本の土台づくりに貢献しました。

一方で教育者として早稲田大学を創設し、身分や出身にとらわれず学問の機会を広げようとしたことでも知られています。

また爆弾事件で片足を失う大けがを負いながらも、政治の第一線に戻って国民から親しまれたエピソードは、多くの人の記憶に残っています。

この記事では、大隈重信が「何をした人なのか」を初心者にも分かりやすく、生涯・功績・教育への思い・人柄のエピソードという流れで丁寧に解説していきます。

大隈重信とはどんな人物?

生い立ちと幼少期の背景

大隈重信は1838年に現在の佐賀県佐賀市で、鍋島藩の中級武士の家に生まれました。

父は砲台長として藩の軍事を担っていましたが、大隈が十代前半のうちに亡くなり、大隈は母に支えられて成長しました。

佐賀藩は長崎警備を担当していたため、西洋の情報や技術が入りやすい開明的な環境にありました。

大隈は幼い頃から藩校の弘道館に通い、朱子学や「葉隠」などを通じて武士としての心構えを教え込まれました。

一方で藩では西洋式の大砲製造なども進められており、保守的な教えと新しい技術の両方に触れながら成長しました。

成長するにつれて大隈は背が高く体格にも恵まれ、議論好きで物おじしない青年へと育っていきました。

無駄を嫌う合理的な性格で、形だけの学問や礼儀には疑問を抱き、「本当に役に立つ学び」を求める姿勢を強めていきました。

こうした環境と性格が、後に日本の将来を考える政治家としての大隈の出発点になりました。

政治家としての出発と特徴

大隈重信は若い頃から佐賀藩の改革派の一員として活動し、幕末の動乱の中で藩政や国の行く末に関心を深めていきました。

明治維新後は新政府に参加し、大蔵卿や外務卿、参議などの要職を歴任して、日本の財政や外交を担う重要な人物になりました。

外国との不平等条約が残る中で、欧米の制度や考え方を学びつつ、日本の事情に合う形で取り入れようとする現実的な姿勢が大隈の特徴でした。

さらに大隈は、早い時期から憲法制定と国会開設の必要性を訴え、1882年には立憲改進党を結成して政党政治の確立を目指しました。

演説では筋道立てて分かりやすく話しながら、ユーモアも交えて聴衆を引きつけ、多くの支持者を得ました。

政府の中枢にいる時も野党側に回った時も、一貫して立憲政治と議会制を重んじる姿勢を守り続けた点に、大隈重信という政治家の大きな特色があります。

大隈重信は何をした人?主要な功績を簡単に解説

① 近代国家づくりを推進したリーダー

大隈重信は明治新政府の中心人物の一人として、日本を近代国家へと変えていく役割を担いました。

特に鉄道の敷設や郵便制度の整備、灯台の建設、富岡製糸場の設立など、多くの近代化事業に関わり、日本全国をつなぐインフラづくりを推進しました。

鉄道網の発展によって人や物資の移動が活発になり、各地の経済や文化が結びつくことで、日本全体の一体感と発展の土台が形づくられていきました。

また西洋の制度や技術をただ真似するのではなく、日本の事情に合わせて取り入れようとした点に、大隈の現実的で柔軟な指導力が表れています。

② 憲法・議会制度への大きな貢献

大隈重信は、明治政府の中でも早い時期から憲法制定と国会開設の必要性を強く訴えた政治家でした。

1881年には、イギリス型の議会制度を理想とする意見書を提出し、できるだけ早く憲法を制定して国会を開くべきだと主張しました。

この動きは明治14年の政変でいったん退けられ、大隈自身も政府中枢から外されましたが、国会開設の勅諭が出されるきっかけの一つにもなりました。

その後大隈は立憲改進党を結成し、憲法と議会に基づく政治を実現しようとする「政党政治」の流れをつくり、立憲政治の発展に長く影響を与えました。

③ 外交・財政改革で果たした重要な役割

大隈重信は明治政府で外交と財政という二つの重要な分野を任され、日本の国際的な立場と経済の基盤づくりに大きな役割を果たしました。

大蔵卿としては新しい貨幣制度の導入に取り組み、日本の通貨単位を「両」から「円」へ切り替える近代的な通貨制度の確立を進めました。

これにより国内外の取引で使いやすい貨幣制度が整い、日本経済が世界市場とつながるための基礎が築かれました。

また外交面では条約改正交渉などに深く関わり、欧米列強と対等な関係を目指して粘り強く交渉を続けたことで、日本の主権と国益を守ろうとしました。

このように大隈は、国内の制度づくりと国際社会との関係づくりの両面で、日本の近代国家としての姿を形づくる重要な役割を担った人物だと言えます。

大隈重信の教育への貢献

早稲田大学の創設と教育理念

大隈重信は1882年に東京専門学校を創設し、これがのちの早稲田大学へ発展しました。

当時の日本では、高等教育の多くが政府直轄の学校に限られていましたが、大隈は民間の力で新しい時代に役立つ人材を育てることを目指しました。

東京専門学校では法律や政治、経済などを中心に、実際の社会で役立つ知識を重視した教育が行われました。

身分や出身にとらわれず、能力と意欲のある若者に学ぶ機会を開こうとした点も、大隈の学校づくりの大きな特徴でした。

学校は成長を続け、1902年に早稲田大学と改称されてからも、「社会に役立つ実学」と「時代を切り開く人材の育成」という大隈の考えが受け継がれていきます。

大隈は1913年の創立30周年の際に「早稲田大学教旨」を宣言し、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」という三つの柱を大学の基本理念として示しました。

これは、権力や流行に流されず自分の頭で考え、学んだことを社会に生かし、世界の中で活躍できる人間を育てたいという大隈の教育観をはっきりと言葉にしたものです。

学問の自由を重視した取り組み

大隈重信は、早稲田大学の教育において「学問の独立」、つまり学問の自由を何よりも大切にしました。

学問の独立とは、政治権力や宗教、世間の常識にしばられず、真理を追究する自由な研究と議論を行うことだと大隈は考えました。

そのため早稲田では、さまざまな考え方を持つ教員や学生が集い、異なる意見をぶつけ合いながら学ぶ「自由闊達な雰囲気」が重んじられました。

大隈は演説や文章の中で、学生たちに対して自分の頭で考え、自分の言葉で語ることの大切さを繰り返し訴えています。

また女子教育や社会での女性の役割にも関心を持ち、時代としては進歩的な視点から教育のあり方を考えていたことも指摘されています。

こうした姿勢は、日本における私立大学の発展や「大学とは社会に開かれた自由な学問の場である」という考え方に大きな影響を与えました。

大隈が重んじた学問の自由と多様性を尊重する精神は、現在の早稲田大学の教育理念や学風の中にも受け継がれています。

大隈重信にまつわるエピソード

爆弾事件で片足を失っても政治を続けた話

大隈重信は1889年10月18日、外務大臣として不平等条約改正の交渉を進めていた最中に、外務省前で爆弾による襲撃事件に巻き込まれました。

福岡の政治結社玄洋社に関わっていた来島恒喜という青年が、大隈の乗った馬車に向かって爆弾を投げつけ、爆発によって大隈の右足は重傷を負いました。

その日のうちに外務大臣官邸内で緊急手術が行われましたが、損傷が激しかったため、右足は膝の上から切断せざるを得ず、大隈は義足での生活を送ることになりました。

この「大隈重信遭難事件」によって条約改正交渉は中止され、大隈自身も外務大臣の地位を失うことになりましたが、彼はそれでも政治の世界から退くことはありませんでした。

療養とリハビリののち、大隈は政界に復帰し、1898年には第一次大隈内閣、1914年には第二次大隈内閣を組織して、二度にわたって内閣総理大臣を務めました。

右足を失うという大きな障害を抱えながらも、高齢になってから再び首相として国政の舵取りにあたった姿は、多くの人に「不屈の政治家」として記憶されています。

さらに大隈は、切断手術後も健康管理や日々の鍛錬を重視し、長く社会で働き続けることを自らの生き方として示し続けました。

国民に親しまれたユーモラスな性格

大隈重信は、鋭い政治感覚と決断力を持ちながらも、親しみやすくユーモアのある性格で知られ、国民から広く愛された明治の政治家でした。

演説では難しい政治や経済の話を、そのまま堅苦しく語るのではなく、身近な例え話や軽い冗談を交えながら分かりやすく説明し、聴衆を引きつけていたと伝えられています。

早稲田大学の校友大会などでも、大隈は苦しい状況を「だからこそ前に進む好機だ」と前向きに言い換え、時に笑いを誘いながら、希望を失わないよう呼びかけるスピーチを行いました。

また大隈は「人生125年説」を唱え、人間の寿命は本来もっと長く、年を取っても意欲を失わずに活動を続けるべきだと、半ば冗談を交えつつ語っていました。

この考え方は現在も早稲田大学で受け継がれており、「125」という数字が記念事業やスポーツプロジェクトのキーワードとして用いられるなど、大隈のユーモラスで前向きな人生観を象徴するエピソードになっています。

私生活でも大隈は人と話すことが大好きで、政治家や実業家だけでなく、学生や地方からの訪問者とも積極的に会い、多くの来客と語り合っていたといわれます。

大隈重信記念館に残る記録などからも、その邸宅には一年を通して多くの人が訪れ、「話し好きで人好きな大隈さん」として親しみを込めて語られてきたことが分かります。

厳しい政治の世界に身を置きながらも、明るさとユーモア、そして人への温かさを持ち続けたことが、大隈重信を「国民に親しまれた偉人」として今も人々の記憶に残らせている大きな理由だと言えます。

大隈重信が現代に与えた影響

政治・教育への長期的なインパクト

大隈重信は、明治時代に活躍した政治家であると同時に教育者でもあり、日本の政治制度と高等教育の両方に長く続く影響を与えました。

政治の面では、早い時期から憲法と議会に基づく政治を主張し、政党を作って内閣を支える「政党内閣」の考え方を示したことで、今日の日本に続く議会制民主主義の流れを形づくりました。

大隈が理想としたイギリス型の議会政治は、そのまま実現したわけではありませんが、議会と内閣の関係や、政党が政治を担うべきだという発想は、戦前から戦後の日本政治を通じて大きな影響を与えました。

また大蔵卿として導入を進めた通貨単位「円」や、鉄道・通信などのインフラ整備は、現在も日本社会の基盤として機能し続けており、日常生活や経済活動の前提となっています。

教育の面では、東京専門学校から発展した早稲田大学を通じて、多くの政治家、官僚、企業人、研究者、文化人を世に送り出し、日本の近代から現代にかけての人材育成に大きく貢献しました。

大隈が掲げた「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」という教旨は、今も早稲田大学の基本理念として受け継がれ、日本の大学教育全体における「私学の役割」を象徴する考え方の一つになっています。

さらに大隈に関する文書や書簡が整理され、研究が続けられていることで、彼のネットワークや思想が近代日本史研究の重要な手掛かりとなり、歴史学や政治学の分野にも間接的な影響を与えています。

なぜ今も評価され続けているのか

大隈重信が今も評価され続けている理由の一つは、政治と教育という二つの分野で「長く残る仕組みづくり」に力を注いだ人物だからです。

一時的な人気取りではなく、憲法や議会制度、通貨制度、鉄道や通信の整備、そして大学という教育機関の創設など、後の世代が引き継いで使い続ける枠組みを整えた点が高く評価されています。

また、失敗や挫折を経験しながらも立ち上がり続けた生き方も、多くの人にとって共感しやすいポイントです。

明治十四年の政変で政府中枢から退けられ、条約改正交渉では爆弾事件に遭い、右足を失って外務大臣を辞任しながらも、のちに総理大臣として再び国政を任され、教育者としても活動を続けました。

こうした波乱に満ちた経歴は、「完全無欠の英雄」ではなく、挫折を抱えながら前に進み続けた一人の人間としての大隈像を感じさせ、現代の読者にも親しみを持って受け取られています。

さらに、大隈は「人生125年説」に象徴されるように、年齢にとらわれず前向きに生きる姿勢を語り続けた人物として紹介されることが多く、長寿社会を生きる現代の日本人にとっても励ましとなるメッセージを残しています。

早稲田大学では今も大隈をテーマにした展示や企画が行われ、関連文書の編纂も続けられており、大隈重信は「歴史の中の偉人」であると同時に、現在進行形で研究され語り継がれる存在となっています。

こうした理由から、大隈重信は単なる過去の政治家ではなく、「今を生きる私たちが社会や学びとどう向き合うか」を考える手がかりを与えてくれる人物として評価され続けているのです。

大隈重信の年表

西暦和暦主な出来事
1838年天保9年佐賀城下会所小路に佐賀藩士大隈信保の長男として生まれる。
1870年明治3年明治新政府の参議となり、政権中枢に加わる。
1873年明治6年大蔵卿に就任し、近代的大蔵省の整備と財政改革を主導する。
1881年明治14年明治十四年の政変で罷免され、政府中枢から退く。
1882年明治15年立憲改進党を結成し、同年10月21日に東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立する。
1889年明治22年外務大臣として条約改正交渉中に外務省門前で爆弾による襲撃を受け、右足を切断する(大隈重信遭難事件)。
1898年明治31年憲政党を基盤とする第一次大隈内閣が成立し、日本初の本格的政党内閣の首相となる。
1902年明治35年東京専門学校を早稲田大学と改称し、私立大学としての基盤を固める。
1907年明治40年早稲田大学総長に就任し、大学運営の中心となる。
1913年大正2年早稲田大学教旨を制定し、「学問の独立・学問の活用・模範国民の造就」を大学の基本理念として掲げる。
1914年大正3年第二次大隈内閣が成立し、首相として第一次世界大戦期の政権を担う。
1916年大正5年第二次大隈内閣が総辞職し、政界第一線から退く。
1922年大正11年東京で死去し、日比谷で国民葬が行われる。

まとめ:大隈重信は何をした人?初心者でもわかる重要ポイント

大隈重信は、明治時代の日本で政治と教育の両方に大きな足跡を残した人物です。

佐賀藩で西洋の知識に触れながら育ち、明治新政府では財政や外交を担当し、通貨「円」の導入や鉄道・郵便などの整備を通じて日本の近代化を大きく前進させました。

また憲法制定と国会開設の必要性を早くから訴え、政党をつくって議会政治を進めようとしたことで、現在につながる日本の議会制民主主義の土台づくりにも関わりました。

教育の面では、東京専門学校を創設して後の早稲田大学へと発展させ、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」という教旨を掲げ、身分や出身にとらわれない開かれた学びの場をつくりました。

爆弾事件で右足を失うという大きな試練に遭いながらも、政治家として再び立ち上がって二度にわたり内閣総理大臣を務め、教育者としても生涯にわたって活動を続けた姿は、多くの人の記憶に残っています。

ユーモアを交えた演説や「人生125年説」に象徴される前向きな人生観、人と語り合うことを好む人柄は、厳しい時代を生きる人々に希望と親しみを与えました。

大隈重信が今も評価され続けているのは、制度や学校といった「次の世代に受け継がれる仕組み」を残し、挫折を乗り越えながら社会に向き合い続けた生き方を示したからだと言えます。

大隈重信は何をした人かと問われたとき、近代日本の土台をつくり、学びの自由と可能性を広げ、人々に希望を語り続けた政治家であり教育者であったとまとめることができます。

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